お姫様は授業中2
イザはメルキゼデクに尋ねる。
「ハギルには、まだ魔物がいるという話は本当なのか」
「そうだね。ハギルの端っこに不浄の森という場所がある。そこに生き残った魔物がいるという話はある。だれも確かめに行ったものはないだろうがね」
「魔物がいるならば放っておくわけにはいかないだろう。ハギルは自国内に災いを飼っているようなものではないか」
メルキゼデクはゆっくりと頷く。
「だが、藪をつついて不要な戦いを招くよりは、不浄の森にとどまっていてくれるならば、見ないふりをするのも愚とは言いきれぬだろう。それでなくとも寒さにあえぐ国だ。魔物との戦いに割く余力はないのかもしれないね」
ノワールがお茶をすすりながらのんびりと言う。
「わざわざ怪我しに行くようなことをするのはヒマな人間くらいさ。普通の生き物は、日々の食べ物と適当な居場所があれば満足するんだよ」
イザがノワールを睨む。
「その不浄の森というところにいる魔物が、森の中のエサとテリトリーで満足しつづけるか、確証がないなら放っておくべきではない」
メルキゼデクは力んでいるイザの肩をつかみ、軽く揉みほぐす。イザはくすぐったさに身をよじっている。
「私たちがどうにかできる問題ではないのだよ、イザくん。ハギルの国のことはハギルのものだ」
「その通り」
兄とそっくりな口調でエルキトワイルが頷く。
「アスレイトも自国の問題を自分で解決してりゃ、こんなことにはならなかったのかもしれないね」
姫君はアスレイトの話になり、より熱心に耳を傾けた。
「軍事力強化のためにポートモリスと同盟を組む。そんな大掛かりな話は簡単に広がるもんさ。だれかが黒き魔女にご注進してもおかしくない」
「軍事力強化? アスレイトが? なんのためにですか?」
姫君は自分の国に軍事力があるなどということは、今までまったく考えが及ばなかった。まるで遠い国の話を聞いているような気がする。
「それは、あたしより、そこのノッポに聞いた方がいいだろうさ」
エルキトワイルに顎で指されたイザは、ためらいがちに口を開いた。
「女性に聞かせるような話ではないのだが、私たちは今、危険な状況にいる。知っておいた方がいいかもしれない」
「ええ。どんなことでも知りたいわ。聞かせて」
姫君に真っ直ぐに見つめられたイザは腕を組み、言葉を選びながら話しだした。
「現在、我が国と他国との間には緊張状態が続いている。原因は封印の塔だ。三十年前、数多くの国が同盟を結び黒き魔女と戦った。その力は強大すぎ、完全に滅することは叶わなかった。そのために封印することになったのだ」
山深い地に隠されるようにあった封印の塔のことを思い出した姫君は、同時に暗闇に閉じ込められた時の心細さも思い出した。あの時、隣にイザがいてくれて、どれほど安心したことか。今だって目の前にイザがいれば、危機的状況でも落ち着いていられると姫君は思う。
「各国の魔術師たちが黒き魔女に追いつき動きを止めた地に、一夜にして塔が建てられたという。魔術で建てられたという話だったが、それももしや精霊術だったのかもしれないが。どちらにしろ、黒き魔女はアスレイトがあずかることになってしまった。また、もう一つのものも」
「もう一つのもの?」
イザは姫君を見つめて、しばらくためらった。だが、ふるりと首を振ると、続きを話しだした。
「黒き魔女の力、その絶大な魔力だ。万が一、黒き魔女が塔から解き放たれても魔力がなければなにもできない。そのために魔力を取り出し、アスレイト王の王冠に封じたのだ」
「では、もしかしたら黒き魔女がアスレイトにやってきたり、ヘンリー王子様に近づいて国境を封鎖したりしているのは、なんとかして魔力を取り戻すためなのかしら」
イザは頷く。
「そうかもしれない。しかし、王冠を欲しているのは黒き魔女だけではない。アスレイトを取りまく国々が王に談判してきた。ある国は金で買うと言い、ある国は戦力をちらつかせて脅してきた」
姫君は首をかしげる。
「どうしてみんな黒き魔女の魔力を欲しがるの? なにに使うの?」
その質問にはイザではなくメルキゼデクが答えた。
「武力に。戦争に使う力にするためだよ」
姫君は目を丸くする。
「戦争? いったいなんの話なの? アスレイトは平和な国よ。ポートモリスもそうだわ。どうして戦争なんて話が出てくるの?」
イザが子どもをさとすようにゆっくりと丁寧に説明する。
「国同士にいさかいがあるわけではない。だが、人間が集まれば、そこには利害関係が生まれる。より利を得ようと思うなら、他のものよりすぐれたものが必要だ。それは富であるかもしれないし、交渉術かもしれない」
「武力であるかもしれないのね」
姫君がぽつりと言うと、イザは静かにうなずいた。
「その武力で交渉してきたのが、これから向かうハギルだ。ハギルは税のほとんどを軍事費にあてているという話だ。アスレイトではどうやっても太刀打ちできない。そのために、軍備もすすんでいるポートモリスと同盟を結んだのだ」
姫君はゆっくりと瞬きした。戦争、軍備、魔力。自分が全く知ることがなかった世界だ。それは、巧妙に隠されていたのだろうか、それとも自分が知ろうとしなかっただけで、知識の扉はすぐ近くにあったのだろうか。
「もしかして、ヘンリー王子様との婚約は、同盟のための下準備だったのかしら」
イザはまた、迷うような表情を見せた。姫君に語って聞かせる言葉を選んで戸惑っている。
「姫君の婚約はポートモリスから持ち掛けられたものだ。両国の友好のためだったということは間違いない」
「それと、持参金のためだろ」
ノワールの声に振りかえったイザは、思いきり顔をしかめた。
「下世話な話をするな。そんな事実はない」
「城の下働きの人たちはみんな言ってたぜ。ポートモリスはお姫様のことを金をかついだ人質としか思ってない……」
「口を閉じろ! お前は彼女をお姫様と呼びながら、なんと失礼なことを言うんだ」
今にもノワールにつかみかかりそうなイザの腕を姫君がそっと引く。
「いいのよ、イザ。私は知るべきなの。どんな些細な噂話でも、知りたいの」
姫君の真摯な瞳を見て、イザは口を閉じた。ずっと黙っていたミーアがそっと手をあげる。
「ポートモリスの国内でも、噂になっていました。隣国からお金を持った人質が来ると。口汚い人たちの話ですけれど」
申し訳なさそうにしているミーアに、姫君は微笑んでみせる。
「なんと言われていようと、両国の同盟と婚姻が良い未来に続くなら問題はないわ。でも、黒き魔女が現れた。同盟は解消されて、なぜかアスレイトはポートモリスに宣戦布告したという話。なにかがおかしいように感じるわ」
姫君は小首をかしげて考え込んだ。
「ハギルの王に会って黒き魔女のこと、戦争をしている場合じゃないことを伝えられないかしら」
突然の提案にイザが驚いて姫君に向き直る。
「話を聞いていなかったのか? ハギルはアスレイトに武力をチラつかせて交渉を……」
「だからなの。このままでは魔力は黒き魔女の手に戻ってしまうでしょう。アスレイトから奪いたいと思っていた魔力よ。黒き魔女の元に戻るのをハギルは阻止したいのではないかしら」
メルキゼデクが髭を撫でながら頷く。
「なるほど。それは良い手かもしれない。ただ、どうやって王に会うかが問題ですな」
おのおのが考え込み、部屋の中はしんとして、沼を抜けていく風の音がよく聞こえる。イザと言いあってから不機嫌そうに黙り込んでいたノワールが口を開く。
「ここで考えてても仕方ないだろ。俺たちはハギルのことなんてなにも知らないんだから。とにかく行ってみるしかないんじゃないか」
「そうね。なにかを知るためには、知りたいものに近づくことが必要なのだわ。行ってみましょう」
エルキトワイルがミーアの手をギュッと握る。
「ミーアちゃん、ミーアちゃんはここにいておくれ」
「どうして?」
小首をかしげるミーアの手を撫でながらエルキトワイルは悲しそうに顔を歪める。
「こいつらについていったりしたら、かわいいミーアちゃんが危険な目にあうんじゃないかって心配で、あたしは今夜から眠れなくなっちまうよ」
「でも、おば様。私もお姉様のお役に立ちたいです」
ミーアが意見を求めてメルキゼデクを見つめたが、メルキゼデクは首を横に振った。
「ここにいた方がいい。お前になにかあったら、私の精霊術を継ぐ者がいなくなってしまう。ミーア、私の留守と大樹を頼むよ。街に戻ったら、ダニエルさんに薬を届けておくれ」
ミーアは口を引き結び、頷く。それから姫君に顔を向けると小声で言った。
「お姉様、どうかご無事で」
姫君はにっこりと笑ってみせる。
「ええ。無事にここに戻ってくるわ」
それは強がりではなく、とても頼もしい約束だった。
一行はエルキトワイルが用意してくれた簡単な食事をとって、ハギルに向けて出発した。