お姫様はくつろぎ中
起伏はしだいになだらかな下り坂になった。ゆるゆると下っていくにつれ、植物の様相が変わってきた。ピンと伸びた細葉の草から、ゆるりと巻いたシダ系の植物へと植生が変化していく。水場が近いのだとメルキゼデクが言う。
「沼地の魔女は、人に会うのを嫌うのだよ。だが、まあ、ご心配めさるな。彼女もビャクシンでね。ただ、すこうし、変わり者だが」
『だれが変わり者だい、このじじい! 適当なことを言いふらしてるんじゃないよ!』
突然、夜空を覆いつくすかと思うほどの大音声が響いた。ノワールはあわてて、良すぎるおのれの耳をふさぐ。
『大した用もないのに、ぞろぞろと。三人もガキんちょを引き連れてきやがって、うちは子守りはやってないよ!』
メルキゼデクは楽し気に笑う。
「五人分のお茶を用意しておくれ。君も興味を持つ土産話があるからね」
空中に老婆の『ふんっ』という鼻息荒い声が聞こえたかと思うと、急に静寂が戻ってきた。先ほどまで聞こえていた夜を切る風の音が聞こえる。
「驚かせたかな。彼女が沼地の魔女、エルキトワイル。私の妹だよ」
姫君が驚いてぽかんと口を開けた。
「エルキトワイルさんは、お兄様に『このじじい』とおっしゃるんですね」
メルキゼデクは楽し気に笑う。
「まあ、見ての通りじじいですからな。なにも不思議はなかろうというもの。さ、もうすぐだ。行きましょうかな」
上り始めた月と離れていくかのように、一行は沼地に向かって坂を下っていった。
坂は四方八方から漏斗のように下り、一点に収束していく。その目指すところにあるのは、どろりとした沼と、その真ん中にぽつんと立った粗末な小屋。
かろうじて立っているという風情の細い柱と、細い枝を束ねただけの壁と屋根。窓の代わりに、壁の小枝を切り取って、いびつな四角の穴が開けてある。
「妹は無精でしてな。衣食住というものにまったく興味がなくて」
言葉では恥ずかしがっているようにも聞こえるが、メルキゼデクの表情は明らかに嬉しそうだ。
「きっと、茶も不味かろうが、容赦してほしい」
軽やかな足取りのメルキゼデクに先導されて、一行は飛び石を渡り沼地の魔女の小屋に辿りついた。
「聞こえてるんだよ、くそじじい!」
小屋の戸が内側から蹴破ろうとしたかのように、勢いよく開いた。勢いがつきすぎた戸が跳ね返り、戸はまた閉まった。
メルキゼデクが「ぷ」と笑いかけたが、必死の形相で唇を噛みしめる。
「おば様!」
ミーアが無邪気にはしゃぎながら、小屋に駆けより戸を開けた。中へと突進して、そこにいた人物に抱きついている。
「おば様! お久しぶりです」
「ああ、ミーア、かわいいミーアちゃん。じじいに変なことをされなかったかい」
姫君はみょうに太い声に首をかしげながら坂をくだり、ミーアを抱きしめている人物を正面から覗き見た。
そこには、メルキゼデクがいた。白髪で白髭、ローブ姿で背も高い。
「え?」
思わず漏れ出た声を、ミーアを抱きしめているもう一人のメルキゼデクが聞きつけて、姫君をキッと睨みつける。
「なんだい! あたしになにか文句があるのかい!」
姫君は混乱して小屋の中のメルキゼデクと、自分の隣のメルキゼデクを交互に見交わした。すぐ隣にいるメルキゼデクは、機嫌よく笑っている。
「なになに。すぐに慣れるよ。妹はつっけんどんだが、心根は優しいんだよ」
「だれが、つっけんどんだってえ!」
沼地の魔女の怒号に姫君は両耳をふさいだ。
ぷいっと小屋に入っていってしまった魔女に代わって、ミーアがみんなを室内に案内してくれた。外から見ると狭く感じた小屋だが、中に入ると無駄がなく洗練された建物なのだと思わされた。
入ってすぐが居間になっていて、隅に小さな暖炉とカウンターがある。カウンターには調味料や薬草、暖炉にかけられた鍋からは暖かな湯気が立ちのぼっている。反対側には木の枝を組んだ寝台。居間の中央には小さなテーブルがあり、二脚の椅子がある。沼地の魔女はそのうちの一つの椅子にどっかりと座りこんだ。
「じじい、あたしは手伝わないからね」
長い白髭をふごふごと動かして沼地の魔女がツンケンした声で言う。
「もちろん、もちろん。お前に迷惑をかけるつもりはないよ」
のんびりと返したメルキゼデクに、沼地の魔女が噛みついた。
「今もう、すでに迷惑なんだよ! なんだい、この子どもたちは」
沼地の魔女は、姫君、イザ、ノワールと指さし「剣呑だね」と言い捨てた。
「呪われてるやつが二人もいるじゃないか。呪いに関係ない一人は鈍すぎるし。面倒はごめんだよ、とっとと出て行って……」
「はい、おば様。お茶が入りました」
鍋の湯で勝手に茶を淹れたミーアを、沼地の魔女が抱きしめた。
「んんんー、ミーアちゃん! おりこうねえ!」
ミーアは「えへへへ」と笑いながら、盆に乗せた茶碗の一つを沼地の魔女に手渡した。沼地の魔女は茶をズビズビとすすり飲み「うまい!」と腹の底から野太い声を出した。
茶の味を褒められたミーアは満足げに姫君の隣にやって来た。
「お姉様、イスをどうぞ」
勧められたが、魔女の家にはイスは二脚しかない。姫君は年長のメルキゼデクを振り仰いだが、「レディーファーストだよ」とウインクが帰ってきた。遠慮なくイスに落ち着き、ミーアから茶碗を受けとる。城で飲んでいたような高級な茶葉独特の甘い香りがする。久々の飲み慣れた茶の香りに笑みがこぼれた。
メルキゼデクたちも立ったまま茶をすすり、なんとはなしに場は落ち着いた。
「なあ、なんでメルキゼデクが二人いるんだよ。ここにいるのは魔女じゃなかったのか」
ノワールの質問に、荒れ地の魔女がフンと鼻を鳴らす。
「そんなじじいと一緒にしておくれでないよ。それに、あたしはねえ、魔女じゃなくてれっきとした魔術師だよ」
姫君が首をかしげる。
「魔女と魔術師は別なんですか?」
エルキトワイルは眉を顰めて姫君を眺める。
「あんた、呪われたっていうのに、魔女だなんて呼ばれてるあたしにウカウカと近づくんじゃないよ。用心って言葉を知らないのかい?」
「知っています」
のんきに答える姫君に向けられた荒れ地の魔女の視線は厳しいものに変わった。
「いいや、あんたはなにも知らない。魔女がどれほど危険なものかも知らないじゃないか。そこのノッポ。あんたは知ってるのかい? 魔女と魔術師の違いを」
エルキトワイルに指さされたイザは突然の指名に怯んだ様子で言葉を詰まらせた。