お姫様は旅に夢中
貧民街を抜けて、冬枯れの下から青草が伸びかけた平原を東に向かって歩く。
街の灯りが届かなくなり、星明りを頼りにするようになったころ、姫君は自分の姿が元に戻っていることに気づいた。それを待っていたかのように、メルキゼデクはようやく答えた。
「スパイとはイザくんと、一緒に行動している君たちのことだろう。謀反人とは、もちろん、私とミーアだね」
姫君は両手で口を覆った。
「そんな、どうしましょう。メルキゼデクさんとミーアまで国に帰れなくなってしまって」
ミーアが姫君の手を握って顔を見上げる。
「大丈夫です、お姉様。私も師匠も、もとはポートモリスの人間ではないんです」
「まあ。では、故郷はどちら?」
「どこにも故郷はありません」
いたずらっ子のように瞳を輝かせるミーアを、姫君は不思議そうに見つめる。メルキゼデクもどこか楽し気に話す。
「私たちは流浪の民、ビャクシンなんだよ」
初めて聞く言葉に姫君は首をかしげた。イザが姫君に説明する。
「ビャクシンは古来から国々を周り、定住することのない氏族だ。辺境のアスレイトにはなかなか姿をみせることはないから出会う機会は少ない」
メルキゼデクは乱れた髭を整えながら頷く。
「そうだね。アスレイトに行くにはポートモリスを通らなければならないが、ポートモリスは流浪の民を嫌ってね。定住させようと必死なんだよ。私が城付きの魔術師になったのも、定住するという約束の報酬だったんだが」
イザが申し訳なさそうに頭を下げる。
「厚遇を不意にしてしまい、本当にすまない」
メルキゼデクは明るく笑って、ミーアの頭を撫でてみせる。
「いや、なに。定住しようと思ったのはミーアの修業にちょうどいい時期だったからでね。もう修業も終わりでな。同じ土地に縛られているのにも飽きてきたころだったんだよ」
「でも」
姫君は悲し気にまつげを伏せた。
「あの大樹は大切なものだったんでしょう。離れ離れになったら、辛いのでは」
「大丈夫です、お姉様。私たち、大気の精霊の力を借りれば、いつでも大樹と話ができますから」
姫君はパチパチと瞬きをした。
「すてき。それならば、どこまでも行けるわね」
「ええ、お姉様。世界の果てまでも、私たちビャクシンは歩いていくんですよ」
姫君はうっとりと夢見るような笑みを浮かべた。
「私も行きたいわ。どこまでも」
黙って歩いているノワールは、姫君の無邪気な夢に微笑を浮かべた。
平原は次第に起伏を帯びてきた。細かな上り下りを繰り返していると、息が上がる。イザでさえ息を乱すことがあるというのに、メルキゼデクとミーアは飄々としている。
「すごいわ。こんなに歩いても息もあがらないなんて。ミーア、いつも鍛錬をしていたの?」
ミーアは姫君の手を引きながら楽しそうに話す。
「いいえ、お姉様。ビャクシンは生まれつき呼吸のしかたが違うのです。何世代も高地をさまよい続けたために強くなったのだとか」
「高地?」
息切れしながら尋ねる姫君に答えたのはメルキゼデクだ。
「ビャクシンの祖は天に住んでいたカラスだという言い伝えがあってね。私たちは皆、高いところも山に登ることも得意なんだよ」
姫君の後ろを歩いているノワールが大きなあくびをしながら言う。
「カラスはそんなに体力があるようには見えないけどな。いつも屋根でくだを巻いてるもんな」
メルキゼデクは目を細めてノワールを見た。
「鳥の言葉がわかるとは。君は、本当に猫だったんだね」
ノワールはムッとした様子で答える。
「なんで過去形で言うんだよ。俺は今でも猫だけど」
「そうかね。人間になれて喜んでいるのかと思ったが。お姫様とつがいになりいのかと……」
「うわああああ! うわあああああ!」
突然、叫んでメルキゼデクの口をふさいだノワールの奇行に驚いて、姫君はびくっと身をすくめた。
「なんでもない! なんでもないからな、お姫様!」
あまりの剣幕に一行の最後尾を歩いていたイザが速足に近づいていきた。
「静かにしろ。追手がいるかもしれないんだぞ」
ノワールはイザを睨みつけて「わかってるよ」とぶっきらぼうに答えた。メルキゼデクは白髭を三つ編みにしながら尋ねる。
「イザくんは、どうなんだね」
「どうとは?」
「ノワールくんが、お姫様のことを……」
「うわああああ! うわあああああ!」
「だから、うるさいと言っている」
わめきながらメルキゼデクに詰めよろうとするノワールを、ぐいぐいと押して遠くにやろうとするようなイザの動きを、姫君はくすくすと笑いながら眺める。
「イザは、もうすっかりノワールと仲良しね」
イザは困ったような表情でノワールを見やる。
「猫は嫌いだ」
それを受けてノワールは不敵に笑う。
「猫は怖い、の間違いだろ」
眉を吊り上げたイザと、牙を剥きだしてみせたノワールを、ミーアが睨みつける。
「二人とも! どちらにだって、お姉様は渡しませんよ!」
そう言って姫君の腕にぶら下がるミーアの小さな肩を、姫君は楽しそうに撫でた。