お姫様は絡まれ中
建物は一階が酒場になっており、宿は二階以上にあるようだった。姫君たちが入っていくと酒場にいる全員の視線が集まった。一瞬、静かになり、それからワッと明るい声が湧いた。
「べっぴんさん、こっちに来て一緒に飲もうや」
「一杯おごるから、こっちにおいでー」
酔っ払いたちが口々に姫君に声をかける。姫君はなんと言葉を返せばいいか迷い、両手で耳をふさいだ。声は変わらず聞こえるが、とりあえず返事をしない言い訳にはなる。
「こりゃあ、きれいなお嬢さん。酒を飲みに来たんですかな」
店の主らしき男がやって来た。主の腰に巻かれている前掛けには、あちらこちらに染みができ、清潔そうには見えなかった。姫君は牢に入れられたときに来た囚人用の服の感触を思い出し、肌がちくちくするような気分になった。
姫君を客の視線から遮るように進み出たイザが主と向かい合う。
「一晩泊まりたい。外に馬もいるのだが、馬小屋はあるだろうか」
「はいはい。お預かりしますよ。部屋は三階が開いてます。おーい、メルキゼデク。お客さんの馬を裏へ連れてってくれ」
主が店の奥に向かって叫ぶ。テーブルの片づけをしている、メルキゼデクと呼ばれた老人が「はいはい」と返事をしながらやってきた。
長い白髪と白髭のその老人は、茶色のローブに身を包み、腰には魔術師であることを示す紺色の絹布を巻いている。
老人は姫君たちに笑顔を見せてから外へ出ていった。姫君が振り返って見ていると、二頭の馬は老人を気に入ったようで「かわいいおじいちゃん」「髭を引っぱってみたいなあ」などと話しながら大人しくついていった。
店の主は前掛けのポケットから鍵の束を取り出し、一つをはずしてイザに渡した。
「はい。階段を上って突き当りの部屋ですよ」
イザは当惑した様子で店主に尋ねる。
「もう一部屋必要なのだが、鍵をもらえないだろうか」
「あいにく、一部屋しか空きがないんですよ。ベッドは四つありますからね。十分でしょう」
当惑が驚愕に変わり、イザは目を剥いた。
「まさか、男に混ざって女性も同じ部屋で寝ろというのか? そんなことができるわけがないだろう」
店主はイザの服装に今気づいたというような顔をして、わざと驚いてみせる。
「こりゃあ、騎士様でしたか。それじゃあ、女性はみんなレディですわな。ですがねえ、騎士様。平民なんていうのは、宿に泊まるのに男女部屋をわけるなんて贅沢はできません。うちでもね、部屋がないもんはないんですよ」
「では、他の宿にうつる。紹介してもらえるだろうか」
「この街に宿はうちだけですよ。上の街にいけば何軒かあるけどね。騎士様なら、そっちの方がいいでしょうかね」
イザは口ごもった。衛兵に阻まれて検問を通れないと言うわけにもいかず、視線が泳ぐ。その様子を見た姫君が、耳から手を離して店主に言う。
「部屋は一つで大丈夫です。ベッドが人数分あるなら問題はないでしょう」
イザが姫君の肩に手を置いて、大きなため息をついた。
「問題はベッドの数ではない。君の今の意見は、若い女性が言って良いことではない」
姫君は首をかしげる。
「ベッドの数でなければ、問題はどこにあるの?」
近くのテーブルにいる酔っ払いの若い男が、やに下がった笑いを浮かべる。
「そりゃあ、夜のお楽しみがあるかどうかって問題で」
イザが男を睨んで「黙れ」と言うと男はぴたりと口をつぐんで目をそらした。ノワールはそれでも念のために姫君の耳をふさぐ。
「店主、なんとかならないだろうか」
「そう言われてもねえ」
「なんなら、うちに泊まりますかな」
後ろから声がして、振り返ると、先ほどの老人メルキゼデクが戻ってきていた。
「古くてむさくるしい家だが、部屋だけはたくさんあるのだよ」
柔らかな声で言うメルキゼデクに店主が頷く。
「ああ、それがいいんじゃないか。馬だけ、うちで預かるよ」
イザが姫君を見る。ノワールに耳をふさがれた姫君は、よく聞こえていないようで、ぱちくりと瞬きをした。
こののんびりした女性のためには、酔客たちに近づけず絡まれないようにした方がいいだろう。それも早急に。イザは二人の好意に甘えることにした。
「では、よろしく頼む」
メルキゼデクは愛想の良い笑顔を浮かべる。
「はいはい。じゃあ、行こうか」
店を出ていこうとするメルキゼデクの背中にノワールが声をかける。
「じいさん、仕事はもういいのか」
「はいはい。もう終わりだよ」
「え、本当に行っちゃうの?」
スタスタ歩いていくメルキゼデクについて、ノワールも出て行ってしまった。メルキゼデクの代わりに店主が教えてくれる。
「メルキゼデクは酒の代金分だけ手伝ってくれる約束なんですよ。まあ、いつも約束より長く働いてくれるんですがね」
「メルキゼデクさんは働き者なんですね」
姫君がおっとりと言うと、店主は嬉しそうに頷いた。
「あんたも働きたくなったらいつでも来てくださいよ。こんなベッピンさんがいてくれたら、商売繁盛まちがいなしだ」
「はい。では、いつか」
なかば本気な様子の姫君にあきれながら、イザは鍵を返して店を出た。少し遅れて扉をくぐろうとした姫君の手首を、先ほどの若い男がつかんだ。
「なあ、あいつらは放っておいて、少し飲んでいきなよ」
そう言って馴れ馴れしく姫君の肩を抱く。若く美しい女性が酒宴に加わることを歓迎して、酒場中から喝采が起きる。
男の酒臭い息に姫君は驚いて、まじまじと男の顔を見た。この臭いはいったい何事だろうか。そう尋ねようとしたが、男は姫君に顔を近づけてくる。臭いに耐えられず姫君は男の腕を振り払おうとした。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか」
「あの、もう少し離れていただきたいのですが」
「仲良くしようよ」
無理やり姫君に抱きついた男が、次の瞬間には急に手を離して後ずさった。部屋中のざわめきがピタリと止む。
姫君が振り返ると、イザが見たこともない恐ろしい形相で大股に近づいてきた。イザは姫君を背に回すと、男の前に立ちふさがる。
「女性に対する礼儀を知らないのか」
その迫力に気圧されて、男は「知ってます……」と消え入りそうな声をこぼした。
「行こう」
イザはレディをエスコートするように姫君に手を差しだした。姫君は生まれて初めてエスコートされるような、新鮮な気恥ずかしさを感じながらその手を取った。
ここしばらくの間の、姫君として扱われない時間の中で、自分が姫として育ってきたことを見失っていたことに気づいた。今、レディとして扱われたことで、自分が姫君であることをやっと思い出したように思う。
だが、身分が姫であろうがなかろうが、自分という者はたしかに存在していた。だれにも名前を呼ばれずとも、過去の自分を知られなくとも。
その自分とは、ここにいる自分は一体、なんなんだろう。
「私は、だれ?」
その疑問は身に沁みるように姫君の深くに潜り込んできていた。