お姫様は失恋中
姫君たちはポートモリスの一つ目の城壁にたどりついた。これより先は中流以上の国民が住んでいる場所で、検問があり許可なく立ち入ることはできない。
衛兵が立つ奥の城門が見えたところで馬を下り、検問待ちの列に並んだ。急いでいるからと列をかき分けようにも、あまりにも人が多く手の付けようがない。
ノワールも姫君も馬の扱いを知らない。二頭ともイザが手綱を引くので、手が空いたノワールはさっさと馬から離れて姫君の隣に立った。馬が「ぶるる」と別れを惜しんでいる。姫君はくすくす笑う。
「すっかり気に入られてしまったわね、ノワール」
「愛が重いよ」
馬はまた「ぶるる」と悲しそうだった。
城門までの行列はかなりの長さだ。行商人が多いようで、背中に大きなカゴを背負ったものや、両肩に重そうな袋を担いだもの、荷馬車、手押し車などであふれている。
まとまった荷を持たない、外出からの帰路にあるらしいと思える人々は身綺麗で、姫君は中流以上の人と貧しい人との違いはどういうことなのかを知ることができた。貧民街の人たちとの違いはあまりに大きく、泣きたくなるほどの衝撃を受けていた。
行列の真ん中あたりまで進んだところで、門の方から衛兵がなにやら叫びながら行列をかき分けて道を開けさせているのが見えた。姫君たちも馬とともに道の端に避ける。
しばらくすると、門が最大に開かれ、騎馬隊が駆け出てきた。土煙をあげて走り去る早馬の一個隊を見送って、行列はまた、ぞろぞろと道の中央に戻った。
「どこへ行くのかしら」
姫君の呟きにノワールがため息まじりに答えた。
「黒き魔女を止めにいくんだったらいいんだけどな」
「ほんとうに、そうであってほしいけれど」
だが、通り過ぎていった衛兵たちの雰囲気には、なにか不安を感じさせるものがあった。姫君と同じ疑問を持ったのだろう、行列している者たちも囁きを交わしあっている。
謎が解けないまま行列の最前列にたどりつき、検閲を受ける順番がやってきた。門の脇に左右それぞれ三名ずつ、鎧を着こみ槍を持った衛兵が立っている。その中の一人が事務的な口調で言う。
「身分を名乗れ」
イザは進み出て簡単に答える。
「アスレイト王国騎士団員、イザ=レイバーン」
衛兵たちの目つきが鋭くなり、槍を握る手に力がこもった。それに気づいたイザが姫君とノワールをかばうように、もう一歩前に出た。
衛兵たちは通りを塞ぐように道の中央に壁のように立ちふさがった。
「アスレイトの国民を通すわけにはいかん。立ち去れ」
衛兵の意外な言葉に、イザが驚きの声をあげる。
「ポートモリスとアスレイトは友好国であるはずだ。通さない理由はないだろう」
「我が国はアスレイトとの国交を断絶した」
「なんだと?」
姫君も驚き、衛兵とイザを見比べる。衛兵は言葉を続けた。
「国境もすぐに封鎖される。先ほど国境に向かう早馬が通ったのを見ただろう。今ならまだ、アスレイトに帰ることができるかもしれん。大人しく立ち去れ」
姫君は衛兵に向かって毅然とした態度で語り掛けた。
「私たちはどうしても、ヘンリー王子様にお会いしなくてはならないのです。危機が迫っていることをお伝えするために」
「危機ならば、もう伝わって全国民が知っている」
姫君はほっと息を吐いた。だがイザは納得できない様子で口を開きかけた。そこへ道の先から騎馬の衛兵が駆けてきた。
「開門! 王子殿下がお通りになる。道を開けよ!」
道に立ちふさがっていた衛兵が行列を左右にかき分けていく。姫君たちも無理やり道のわきに押しやられた。
道が広々と開いたところに、豪華な装飾の馬車がやってきた。四頭立てで黒光りする厚い木製の車体。屋根に近い部分にヘンリー王子の紋章が色鮮やかに描かれている。窓枠やドアノブは金色に輝いて、夕日をはじいて眩しい。
窓にかけられたカーテンは半分だけ開かれていて、沿道からでも車内を見ることができた。
「ヘンリー王子様!」
姫君は思わず大きな声を上げた。細面で理知的な表情をした青年は、ちらりと姫君に視線をうつした。二人の目が真っ直ぐに合う。
見合いの席で姫君を見つめて優しく細められた紺碧の瞳。その瞳がまた笑いかけてくれるだろうと思った姫君の予想は外れた。
ヘンリー王子は姫君になんの関心も抱かなかった。ただ沿道に立つ街路樹を見たのと同じような様子で視線を車内に戻した。
姫君は奈落の底に突き落とされたような気分になった。婚約者であるヘンリー王子なら自分のことを覚えていてくれるのではないかという期待は粉々にくだけちった。
自分は本当に世界中のだれからも忘れ去られてしまったのだ。やっと本当のところで理解した姫君の胸の奥は、穴が開いたように冷え冷えと固まってしまった。
だが、それは一瞬のことだった。馬車が通り過ぎるちょうどその時、ヘンリー王子が馬車に同乗している女性の手を取り、うっとりとその女性を見つめている姿が見えたのだ。
真っ黒なドレス、真っ黒な髪、怜悧な顔立ち、真っ赤な瞳。
「黒き魔女!」
姫君の叫び声に、黒き魔女は車窓から姫君に冷ややかな笑みを向けた。
「ヘンリー様! 黒き魔女に騙されてはなりません、ヘンリー様!」
叫び続け、馬車に駆け寄ろうとする姫君を衛兵が押しとどめる。イザがなんとか前に出ようとすると、槍の穂先が向けられた。
「下がれ! これ以上騒ぐと、不敬罪で逮捕することになるぞ!」
「すいませんね。この二人、ヘンリー王子様の大ファンなもので」
姫君とイザの間に割りこんで、ノワールが衛兵たちに適当なことを語って聞かせる。
「直接あの麗しいお顔を拝謁して興奮しちゃったんですよ。すぐに連れていきますから、ご容赦を」
そう言ってノワールは二人の腕をつかみ、引きずるようにして馬車が去って行った南へと道を戻りだした。その背中に向かって衛兵が呼びかける。
「待て、馬車を追うつもりではないだろうな」
ノワールは笑顔で振りかえった。
「まさか。俺たちの馬は疲れてるから、これ以上無理はさせられないですよ」
馬が「ぶるる」と、ノワールの言葉に同意した。衛兵は、それでも追及の手を止めない。
「そもそも、アスレイトの国民が、それも平民の娘が、なぜ王子殿下のお顔を知っているのだ。お前たち、なにか怪しいな」
今度はイザが言い訳を繰りだした。
「この娘はアスレイト王国の王城で働く者だ。王城で行われたパーティーの折に垣間見たのだ」
姫君は静かに頷く。確かにそのとおりだった。姫君がヘンリー王子に会ったのは、お見合いの場となったパーティー会場で、そのたった一度だけだ。
ヘンリー王子の爽やかさも、優し気な挙措動作も、すらりとした外見も、なにもかもがおとぎ話に出てくる王子様そのものだった。姫君は夢を見ているような気分でヘンリー王子とダンスを踊った。
たった、それだけだ。それなのに自分はヘンリー王子なら、おとぎ話のように呪いの力に打ち勝って、自分のことを思い出してくれると甘いことを考えていたのだ。
今、はっきりとわかった。自分はおとぎ話と現実の区別がつかない無知な子どもなのだと。姫君は恥じ入った。しっかりしなくては。ぎゅっとこぶしを握り締めて、姫君はノワールに改めて尋ねた。
「ノワール、私はだれ?」
ノワールは姫君の強い決意が表れた目を見て、きっぱりと言った。
「それはお姫様が自分で見つけなければならない。そうだろ?」
姫君は唇を引き結び、力強く頷いた。