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第七章 夜の街

 その夜、加奈から電話が入ったのは十一時を過ぎていた。

 涼子が店で酔いつぶれているので、迎えに来るよう連絡が入ったらしい。

「お願い。沙羅も付き合って。あたし、一人じゃ行くの怖いし」

 加奈の声は切羽詰っていたが、私だってそんな時間に出かけるのは簡単じゃない。

 それでも放っておくわけにもいかない。気づかれないようにそっと外へ出ると、自転車を走らせた。

 外の空気は冬の冷たさを帯び、私は懸命にペダルを踏んだ。


 加奈とタクシーに乗り込んだ時には、もう日付も変わろうとしていた。

 行き先を告げてシートに身体を埋める。ミラーごしに運転手と目があった。

「こんな時間に、お嬢さんたちどこへ行くの?」

「行き先は言いましたけど」

 私はそっぽを向いて答える。余計なお世話だ。

「親は知ってるの?」

 うんざりする。

「私たち、遊びに行くわけじゃありませんから、ご心配なく」

 苛立っていた。運転手の当たり前の質問も、黙ったままの加奈も、酔いつぶれているという涼子も。


 その日、母と言い争いをした。原因は涼子だった。

 母は涼子の父の噂をどこかで耳に入れたらしく、探るように色々たずねる。

「沙羅ちゃん、巻き込まれないようにね」

「巻き込まれるってどういうこと?あたしとは関係ないじゃない」

「そうだけど。娘さんの方もあんまりいい噂たってないみたいだから」

 母は、涼子とあまり付き合わないように言いたいらしい。

「あたしのことは、ほっといて。お母さんは真由の心配だけしてればいいでしょ」

 言い過ぎたと思った。母の見開いた目には、怒りとも悲しみともつかない感情がほとばしり、私は自分の部屋に駆け込んだ。

 ことあるごとに顔を出す母へのわだかまりは、自分でもどうしていいか分からなかった。


 深夜の街など、あまり歩いたことがない。

 妹の真由が時々遅く帰ってきては母に叱られていたが、その姿を見るにつけ、うらやましくも思った。

 親に叱られるということを普通に考えることができなかった。私の位置は決まっていて、そこから逸脱することは家族の崩壊を意味するような気がした。私の家族の中での役割は、存在を薄くすること。そうすることで父と母の関係がうまくいく。幼い頃から、自然に悟った身の処し方だった。

 もう深夜だというのに、通りは人で溢れている。道端にすわりこんで大声で歌っている集団や、明らかにナンパ待ちをしているグループもいる。

 みんな笑っている。薄汚れたジーンズや皺だらけのスカート。車の音と人の声が耳元で共鳴するように響き、ああ、この人たちもきっと楽しくなんかないんだ、と思った。

 昼間は整然としている人の流れも夜半には、こんな風になるんだ。ぼんやり考えながら歩いていると、大学生風の男が早足で後ろから回り込んできた。

「ねぇ。飲みに行かない?」

 加奈は私の影に隠れて俯いている。彼女は学校に行かなくなった頃から男性を必要以上に避けるようになっていた。

 私は黙ってその男の顔を見つめた。目の周りを赤くして、かなり酔っているようだった。

「やめとけよ」

 男の連れがなにやら耳打ちをして、私と加奈を笑いを含んだ目で見比べた。声をかけてきた男は、「だよね?」と連れに相槌をうって、

「わりぃ。なかったことにして」

とへらへら笑った。

 加奈は私の服の肘のあたりを引っ張って、「行こう」と小声で囁いた。私は勝手に声をかけてきて、そんなことを言う彼らを睨み付けた。

「あれ。プライド傷つけちゃった?ごめんねぇ」

 そう言って、私の前で手を振った。

「そっちが勝手に声かけてきたんじゃない」

「なんだと?」

「こんなとこで、ナンパするしか能がないんだね」

 私の言葉に、男は突然目に怒りを浮かべて、詰め寄った。

「ざけんなよ。ブスがこんなとこうろついてんじゃねぇ」

 怖くなんかなかった。ここにいる自分がまるで抜け殻のようだった。男の充血した目も、低く脅すような声も、遠いところにあるような感覚。

「ふん。つまんない男」

 男のひとりが私の肩を小突いた。

「あんたたちの人生、ずっとそんなもんだよ。情けないままで一生、生きてくのよっ」

 加奈が私の手を引いて駆け出さなければ、男たちをなじる言葉を次々に口走っていただろう。私は加奈に引っ張られるままに走って、大通りから少し入った路地に逃げ込んだ。

 さすがに彼らは私たちを追ってくることはなかった。

「どしたの?沙羅。いつもと違うみたい」

 息を切らしながら、加奈は心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「ごめん。どうかしてるね。私」

 興奮した気持ちが静まると、理性を欠いていた自分の行動が悔やまれた。彼らにあそこまで言うことはなかったのだ。彼らへの怒りというより、私の内で鬱屈したものがとげとげしい言葉になって噴き出しただけだった。あるいは私自身に向かって吐いた言葉かもしれない。


 私たちは涼子がいるという店に急いだ。同じような雑居ビルが立ち並ぶ通りを、店の名前を探して歩いた。

 薄暗い店内のソファに涼子はぐったりと横たわっていた。

「もしかして、彼女、高校生?」

 私たちを見て、店員は困ったようにため息をついた。

 涼子は濃く化粧をしていた。マスカラは黒く目の周りで溶け、ルージュの紅が浮き上がって見えた。

「ちゃんと、連れて帰ってくれる?」

 人の良さそうな店員は私と加奈の顔を交互にみた。

 私は頷いて、涼子、帰るよ、と揺り動かした。

 涼子は薄目を開けて、「キモチワルイ…」と小さい声で言った。彼女の腕は驚くほど細かった。

 店の前までタクシーを呼んでもらい、私たちは乗り込んだ。

 加奈の膝に顔を埋めて、涼子は「ありがと」と言った。ふわふわした涼子の髪が痛々しく、私は外の景色に目を移した。

「ヒロくんに来てもらえばよかったのに」

 加奈が独り言のように言った。

 私は、はっとして目を閉じる。あの日の加奈のことが蘇った。


 はじめて「Hard Day's Night」を訪ねた帰り道。

 私は、とにかく落ち着かない気持ちを抱えて、加奈の部屋に立ち寄った。

 親しくしていながら、知らないことが多すぎた。病院が経営困難であることも、あの店のことも、一緒に住むような男の人がいるということも。

 私は、今しがた見聞きしてきたことを、ぽつぽつと加奈に話した。寝泊りしている部屋の様子や、残された日記のこと。そして、加奈には大丈夫だからって伝えるように言われたこと。

 加奈はただ静かに聞いていた。

「加奈は知ってたの?あの男の人のこと」

 訊ねると、下を向いたまま頷いた。

「そっか。知らないのはあたしだけだったんだな」

「別に隠してたわけじゃないよ」

 声が少し震えて、加奈はマグカップを両手できつく握りしめた。

「あの人、最初はあたしの知り合いだったの。お母さんの担当の患者さん」

 一年程前、交通事故で軽い骨折を負い、一ヶ月ほど入院していたらしい。

「お母さんがね。あたしがビートルズを好きだって話したらしいの。そうしたら彼も好きで。バンドでコピーとかもやってるって話になって」

 加奈は、私を見つめた。

「うちにも何度か遊びに来たんだ」

 笑みを浮かべながらも、涙がみるみるうちに溢れた。

「彼、一人暮らしだから、ご飯作ってあげたりして」

 ひと筋、ふた筋、加奈の頬に涙が伝った。加奈と涼子の間に揺れていた感情を、私はその時、ようやく知ったのだった。

「加奈は。彼のこと、好きだったの」

 あふれる思いをどうにも出来ないことが痛いほど伝わった。だからそう聞くしかなかった。

 加奈は、

「好きなんかじゃないよ。そんなわけないじゃない」

 大きく首を振って、声を殺して泣いた。

 涼子のことを心配しながら、彼と一緒にいることに気付いていたのだろう。

 この数日間の加奈の苦しみを思った。その痛みが自分のことのように私の胸を苦しくした。

(ごめん。なんて言わないで。私は大丈夫だからって。それだけ、伝えて)

 帰り際、涼子はそう言った。崩れ落ちそうだった涼子の姿が加奈の肩の震えと重なった。

 私は、その肩をそっと抱きしめた。つらいね。って言った。



 車の少ない通りをタクシーはスピードを上げていく。ラジオの声が間断なく私たちの間を埋めて、誰も何も話さない。

 ふと、「Yestarday」が流れ、私たちは歌うでもなく囁くようにポールの声に合わせていた。

 加奈は膝の上で眠る涼子の髪の毛を手櫛で整えていた。その様子があまりにも優しい。

「ヒロユキんとこ、出てきたから…」

 涼子が小さくつぶやいた。

 加奈はまるで聞こえなかったように、涼子の髪を撫で続けた。

 対向車のヘッドライトが私たちを見つめては過ぎていった。



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