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第六章 残された日記

 ここのところ、加奈のマンションに立ち寄っていない。

 あの部屋で音楽を聴いていると、水の奥深く沈んでいくような感覚がある。あらゆることを排除して私たちだけの空間。そんな錯覚に酔いしれながらも、私にはいつも疎外感があった。涼子と加奈の間にはどうしても入っていけない。

 私は、膝で学生鞄を軽く蹴りながら、ゆっくり学校へ向かっている。初冬の陽射しが、足元に緩い影をつくっていた。薄青い空を見上げながら、いまごろ二人はどうしているのだろうと考えた。

 ぼんやり歩いていると不意に肩を叩かれて、びくんとした。身体をすり寄せてきた彼女は、同じクラスだが殆ど言葉を交わしたことがない。挨拶さえ、するかしないかの付き合いだったので、私は、ただ首をかしげた。

「ね。知ってるよね?宮下さんちのこと」

 彼女は、耳元で声をひそめた。

「え?涼子んちがどうかしたの?」

 彼女は、あ、知らなかったんだ。と小声で言って唇に指を当てた。

「言ってもいいのかなぁ。沙羅は宮下さんの友達だから、知ってると思ってた」

 そう言いつつも、話したい様子は隠せない。

「あのね。あたしの叔母さんが宮下さんちの病院に入院してるんだけど。宮下さんのお父さん、看護婦の人と失踪しちゃったんだって」

「失踪?」

「うん。あ。でも聞いた話だから。よくわかんないけど。病院で、すっごい噂らしいよ」

 私は、失踪という言葉を頭の中で繰り返した。

 失踪ってことは、いなくなっちゃうってことだ。いなくなる。涼子のお父さんが、看護婦といなくなる。

 私は、涼子の父の顔を思い出そうとした。しかしその輪郭は浮かび上がらない。中肉中背の丸めた背中が思い出されるだけだ。くたびれたスリッパを摺りながら病院の廊下を歩いていた。大きな病院の院長といった風情はまるで無く、白衣を着ていなければ、患者と見間違うような疲れた背中だった。

 単なる噂だ。そんなはずない。私は言い聞かせた。そのくせ、肯定する気持ちもどこかにあった。華やかで美しい涼子の母との間に冷たい溝があったのではないか。

 私が黙り込んでしまったので居心地悪そうにしていた同級生は、あたし、急ぐから、と小走りに去っていった。軽く揺れる後姿は、なにかしら後ろめたさを感じているようでもあった。しかしそれは、教室のざわめきにたちまちかき消されてしまうのだろう。

 私は、彼女が向かう先に歩むことが出来なくなり立ち止まった。


 加奈の部屋の前で、私は深呼吸をした。長いこと付き合っているのに、しばらく会わないでいると、どういう表情をとっていいのか分からなくなる。

 インターホンを押して待っていると、「沙羅?」という声が小さく聞こえた。

「涼子、来てる?」

 私は、玄関に涼子の靴を探した。加奈は首を振って、ドアを大きく開けた。

「聞いたの?涼子のお父さんのこと」

 私が頷くと、そっか、と言って、加奈はこたつに入った。

「うちもね。大変なの。お母さん、勤めてるでしょ。涼子んちの病院」

 以前より部屋の中が乱雑になったような気がする。私は、お菓子の袋が散らかっている場所をよけて座った。

「涼子は、どうしてるの?」

 加奈は黙って首を振った。

「加奈んとこにも連絡ないの?」

「かなり参ってるんだと思う。だからね、あたしに会いたがらない」

「涼子らしいね」

「あたしより、上にいたいんだよ。涼子は。子供の時からずっとそうだもん」

「上とか、そんなじゃないと思うけど」

 私の言葉に答えず、加奈はメモに簡単な地図を書いて私に差し出した。

「何、これ?」

「涼子のよく行く店。そこにいるんじゃないかな」

 知らない店だった。私は、二人と友人でいながら何も知らない。

「加奈が行った方がいいんじゃないの?」

 私はメモに目をおとしながら、ある失望感を隠すことが出来ないでいた。

 加奈は、「だから」と言葉を切った。

「涼子は今、あたしに会いたくないんだって。沙羅が来てくれるの、待ってたんだよ」

 加奈の眼差しは、私の子供じみた考えを打ち砕くように真剣だった。


 繁華街を裏手に廻ると、原色の看板が薄汚れて見える。

 ひび割れているビルや錆びた階段などが、表側を剥ぎ取って本質をあらわしてしまう。私は幾分うつむき加減で足早に歩いた。涼子がよく行く店があるという。彼女は、この道をどんな表情で歩いただろうか。背筋を伸ばし跳ぶように歩く涼子の後姿を思い浮かべた。

 私は涼子を慰めようとしているのか。ふと立ち止まる。

 彼女はおそらく、そんなもの必要としていないのだろう。それなのに、こうして会いに行こうとしているのは、私自身を納得させようとしているだけかもしれない。

 地図の場所はこのあたりだ。私は「Hard Day's Night」という店を探した。人通りは殆どなく、男がひとり、コンクリートの階段に腰掛けて煙草を吸っていた。

 薄曇の空は寒々としていて、制服でなんか来るんじゃなかったと、私はコートのボタンをしっかり留めた。


 古い雑居ビルの地下にその店はあった。

 ビートルズのポスターが、地下に続く入り口にひっそり掲げてある。私はようやくひと息ついて、それでもすぐに下りていく気にはなれなかった。前を通り過ぎ、もう一度戻る。思い切って階段を下りると、ビートルズの曲が低く漏れていた。私は大きく息を吸い込んで、勢いよく扉を開けた。

 中は思ったほど暗くはなかった。明るい色のテーブルが整然と並び、その奥には小さなステージが見える。

 まばらな客の中にざっと涼子を探したが、見当たらない。仕方がないので、カウンターから遠い席を選んで鞄を置いた。知らない場所に来た緊張感からか、指が震えた。

 外の通りとはうらはらに、すっきりとした雰囲気の店だった。コートを脱ごうとして、制服だったことに気づく。私は慌ててコートの前を合わせて座りなおした。

 近くにあった音楽雑誌のページを読むでもなくぱらぱらめくる。ここで涼子が現れるまで待っていようか。それともさり気なく飲み物だけ頼んで帰ろうか。頭の中は雑誌を上滑りして、あたふたと考えている。その視界の端に店員が近づいてくるのが映った。私は雑誌から目を離さぬまま、落ち着いた風を装った。

 すると目の前に湯気の上がったカップがことりと置かれて、私は、え?と顔を上げた。

「あの、間違ってたらごめん。涼子の友達じゃないの?」

 彼はひょろりと高い背をかがめた。おそらく私より二つ、三つ年上だろう。

 驚いて頷くと、やっぱり、と言って笑顔を見せた。端正な顔立ちだけれど、どこか冷たい印象を与える眼差しが私を見つめた。

「沙羅さん、でしょ?涼子の写真で見たことあったから」

 彼は前の席に軽く腰を下ろして、涼子が自分の部屋にいることを話した。

「ベッドから出ようとしないんだ」

 彼はこのビルの三階の部屋で、ひとりで暮らしているらしい。

「行ってやってくれないかな」

 彼はポケットから鍵をとりだして、私に渡した。

 ためらいながら受け取ると、あ、コーヒー、おごるから飲んでって、と言いながら客のオーダーを取りに行った。

 私は鍵をテーブルの上に置いて、コーヒーを一口啜った。

 知らない店に来て、知らない男の部屋の鍵を受け取った。涼子が絡んでいるとはいっても、ひどく無防備な気がした。

 「Paperback Writer」が流れている。早口の歌詞を三人で競って覚えたっけ。途中で分からなくなると、でたらめな英語を歌って笑い転げた。そんな昔のことではないのに、ひどく懐かしかった。

 ビートルズが好きで、だけど彼らはとても遠い。いや遠いからこそ、追い求めるのかもしれない。私たちを取り巻いている様々なやっかいなことを、彼らを追っている間は忘れることが出来た。

 早く。この曲が終わらないうちに。

 私は急いで立ち上がり、コートと鞄を抱えた。テーブルの上の鍵をぎゅっと握りしめて小走りで店を出た。そのまま階段を三階まで駆け上る。

 無機質な廊下と鉄のドア。人間の温かみは、まるでなかった。私は部屋番号を探し、その前で息を整えた。

 インターホンを何度か鳴らしたが返事がない。本当に涼子はここにいるんだろうか。

 鍵を開けて中をそっと覗いた。奥の部屋はすりガラスの仕切り板で目隠しされていて、蛍光灯が漏れていた。以前、会社のオフィスだったのだろう。人の住む空間のようには思えなかった。靴を脱ぐ場所もないので仕切り板からそっと中をうかがった。

 青いリノリウム床の上に、四畳半くらいのラグマットが敷かれ、こたつ机の上は食べ物や飲み物で溢れていた。洋服があちこちに散らばっていて、そこにはまぎれもなく人間の生活があった。

 ラグマットの端に涼子の革靴を見つけ、私は思わず唇に手を当てた。

 ベッドには、明らかに人がくるまっている。私は少しだけ近づいて「涼子」と声をかけた。ふとんが微かに動く。

「沙羅?」

 布団から顔だけ出した涼子は、それほど驚いた表情も見せず上半身をゆっくり起こした。

「よくわかったね。ここ」

 目を腫らした彼女はいつもより幼く見えた。

「下のお店の人が…」

「そう」

 ベッドから抜け出した彼女は、大きめのスエットを着ていた。不意に先程の彼が思い浮かび、私の知らない涼子の顔があった。

 私は靴を脱いでコタツに入る。電源は入れっぱなしで少し熱いくらいだった。

「加奈に聞いたの?店のこと」

「うん」

「そんで。加奈は?」

 私は加奈の言葉をそのまま伝えた。

「涼子は今、あたしに会いたくないだろうって」

「へぇ」

 少し考える素振りをしてから、

「気ぃ使ってくれちゃって」

 と小さくつぶやいた。

「心配してるんだよ。加奈は」

 皮肉な物言いをたしなめると、涼子は意外なほど素直に、ごめん、と頭を下げた。 それからしばらく何も話さずにいた。何から話していいのか見当もつかなかった。考えてみれば、私と涼子はいつも加奈を挟んで会話をしてきたのだった。

「パパは、何から逃げたかったのかな」

 ぽそりと涼子がつぶやいた。

「ママかな。病院かな。私かな」

 ひとりごとのように小さい声だった。彼女のこんな弱気な表情を見たことがない。

 私はふと、自分の自殺した母のことを思った。

「みんな、逃げちゃうね。残された人のことなんか、どうでもいいのかな」

 私の言葉に涼子はちょっと首を傾げ、ん。と頷いた。

「本当に苦しくなっちゃうと、他の人のことなんか考えてらんない。きっとそう。私も、そう」

 涼子は机に顔を伏せた。長くふわふわした髪が拡がった。そして、突然立ち上がり、ベッドの中から薄っぺらいノートを取り出した。

「これね。パパの日記。残ってたの。書斎に」

 見ていいの?と窺うと、涼子は小さく頷いた。


十一月×日

 口論。

 正しいのは、彼女。


十一月×日

 病院をたたむか。

 生活はどうする


十一月×日

 僕は降伏したい。

 彼女は許さない。


十一月×日

 あの銀行員。

 見下しやがった。


十一月×日

 入院患者。死亡。

 疲れる。


十一月×日

 なにかがいけなかった。


 そんな短い言葉が、日々綴られている。字は所々乱れ、これを書いた心情が推し量られた。

「パパはね。たぶん。わざと残していったの」

 そうだろうか。何のために?

「あの看護婦のことなんか、一言も書いてないでしょ?ずるい。パパは」

 確かに一緒に失踪したという看護婦のことは一言もなかった。

「あたしに弁解したかったんだ。女と逃げたくせに」

 家族を捨てて逃げようとする人がそんな姑息な計算などするだろうか。私は涼子の言葉に首を傾げながら、万年筆書きの字面を見つめた。

 日記というものはどこかで、誰かに読まれることを前提に書いている。涼子の立場ならば私だって弁解だ、ずるいと考えるかもしれない。

 涼子はずっと抱きかかえて眠っていたのだろう。ノートはすっかり丸まって、しっとりと温みが残っていた。文字に潜んだ自分への愛情を懸命になって探してしまう。彼女の哀しみが、私のそれと重なった。亡き母の写真に何べんも目をこらしてしまう私の哀しみ。

 日記の内容から病院の経営が相当行き詰まっていたことは想像できる。二、三年前に入院病棟を建て直しベッド数も増やしたらしい。それをきっかけに加奈の母親も急激に忙しくなっていた。

「病院、大変なの?」

 たずねると、涼子は、わかんない、と小さく答えた。

「入院してる患者さんとか、たくさんいるんでしょう?」

「パパは元々病院を大きくするのに反対だったの。ママが強引に進めたのね。だけど、それだからって、捨てていいわけないじゃない。そうでしょう?パパは院長なのに」

 涼子は耳をふさいで、激しく首を揺すった。

 私はただ、なすすべもなく、座っているだけだった。かける言葉も見つからない。

「しばらく、ここにいるの?」

 私の問いに涼子は小さく頷いた。

「お母さんには、知らせたの?」

「心配しないでって、連絡してあるから」

 外はもう暗くなっていた。聞かなくてはいけないことも、聞いてはいけないことも、私には分からない。私に埋められる場所などないのだ。それほど涼子と私は遠く離れていた。小さく見える涼子の身体を抱きしめてやることすら出来ない。加奈がいたならば、彼女ならばどうしただろう。共に涙を流したかもしれない。肩を抱いたかもしれない。涼子が望む望まないに拘らず、そうやって心を寄せただろう。

 私には、出来ない。

「私、帰るね」

「うん。ありがと」

 涼子は膝を抱えたまま、手をあげた。

 元気付ける言葉を口にしかけて飲み込んだ。何も言ってはいけない。言う資格は自分にはないのだと思った。

 靴を履いてドアを閉めると、背中がひんやりとした。私は何を確かめにきたんだろう。泣きそうになって天井を仰いだ。寂しかった。

「沙羅」

 階段をおりる私に涼子が呼びかけた。振り向くと薄暗い階段の踊り場で、彼女は裸足のままだった。大きめの服が、ますます彼女の影を小さく見せた。

「あのね。加奈に」

 駆け降りてきたのだろう。弾む息を抑えるように彼女は胸に手を当てた。

「加奈に。ごめん。って」

 私は、うん、と頷いて涼子に歩み寄った。彼女は長い髪を両手でかきあげて、その場にしゃがみこんだ。そして、何度も首を横に振って嗚咽をもらした。肩にそっと手を置くと、彼女は微かに震えていた。

「やっぱり」

 涼子は充血した瞳を私にまっすぐ向けた。

「ごめん。なんて言わないで。私は大丈夫だからって。それだけ、伝えて」

 彼女たちの間に私の知らない何かがあると思った。だけど涼子の眼差しは、私にたずねる隙間をあたえない。私は、わかった、と小さく答えた。


 外に出ると、霧雨がアスファルトを濡らしていた。雨粒は顔をぬらし髪をぬらし、ぬぐってもぬぐっても涙があふれた。どこにも逃げるところなんかないんだ。

 涼子の感触を残した掌を握り締め、彼女の影を振り払うように、私は走った。地面を叩きつける度に、くしゅ、くしゅと音をたて、私は表通りの人ごみの中に紛れていった。



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