第四章 冬の花火
いつものように加奈のマンションから家に帰り着くと、台所から妹の真由と母の話し声が聞こえた。私はこんな時つい入っていくのをためらってしまう。廊下で足を止めてひとりで苦笑いする。
ひねくれてるな、私も。心の中でつぶやいた。
「ただいま」
大きな声を出して、ガラス戸を開けた。
「おかえり、お姉ちゃん」
真由が振り向いた。
「なに、その頭」
私は思わず口を押さえた。背中まであった長い髪の毛が耳の上で短く切りそろえられ、前髪の真ん中だけ妙に長い。
「ヘンかなあ」
そう言って、後ろを見せた。
「うわっ、刈り上げてる」
「そう」
真由は、刈り上げた襟足を手で撫でた。
「まったく、なんでこんな頭にしちゃったのかしらねえ」
母は、冗談じゃなく思案顔だ。
「かっこよくない?」
「お猿さんみたいよ」
「お母さんにはわかんないのっ。ね、お姉ちゃん」
真由は、大きな目をくるくる動かしながら私を見つめた。
「ねっ、て言われてもねえ」
私は、真由の風変わりな髪形を呆れて眺めた。
「中学で、そんな髪形許されてんの?」
「さあ。長いのは縛らなくちゃ駄目なんだけど、短いのは別に制限されてないもんね」
私は、妙に長い前髪をつまんだ。
「これはどうすんの?」
「うん、これはね、ピンで止めるの」
「ダッサイよ、それって」
真由は、ちょっとふくれて私の手を軽く払いのけた。
「いいの、学校行ってる時だけ」
「学校行ってる時だけって、殆どが学校なんじゃない」
「学校のガキなんて相手にしてらんないもん」
そう言って、前髪の整え方があるらしく、指であっちこっちに向けている。
「馬鹿なこと言ってないで勉強しなさい。来年、受験なのよ」
母は、本気で怒っている。
「分かってるって。高校ぐらい入ってみせますって」
真由は雲行きが怪しくなったと思いきや、急いで二階に駆け上がった。
「まったくもう。何考えてるのか分かんないわ」
母は、炊事で濡れた手をそのままに食卓に座りこんだ。
「あの子、あれで成績いいんでしょ」
私は、母の肩に手を置いた。
「お父さんになんて言っていいか」
「大丈夫。お父さん、真由には甘いから」
「もうちょっと、厳しく言ってくれてもいいんだけど」
矛盾したことを言って、母はテーブルに肘を付いて顔を覆った。
部屋でレコードを聴いていると、ノックの音がした。
「ねえ、一緒に聴いてもいい?」
真由だった。
「いいよ」
私の部屋と真由の部屋は隣同志で同じ間取りになっている。それなのに部屋の印象はまるで違う。私の部屋は、ビートルズの古いポスターが額に入れられて飾っている他は殆ど飾り気がない。小学校の頃から使っている机と小さなレコードプレイヤーがあるだけの殺風景な部屋である。真由の部屋はといえば、フリルのついたピンク色の電気スタンドが枕元に置かれ、様々なぬいぐるみがベッドの上を占領している。真由は、ぬいぐるみに紛れていないと眠れないと言う。そうかと思えば黒人のミュージシャンのポスターが壁のあちこちに貼られていて、全く一貫性がない。こんな部屋でよく落ちついていられるものだと私はいつも思う。何にでも興味を示して手を出しては飽きてしまう真由の性格そのままだ。
「ビートルズの中では誰が好き?」
真由が、ポスターに顔を寄せて私にたずねた。
「ジョンかな」
「ふうん。私は圧倒的にポールだな、かわいいもん」
そう言って、真由はベッドに寝ころんだ。
「ね、お姉ちゃん、お母さんの事好き?」
真由の突然の問いに、私は言葉に詰まった。
「好き?」
「変なこと聞くね、好きに決まってるじゃない」
私たちの両親は再婚して八年になる。
私の産みの母は物心ついた頃にはもういなかった。病気で死んだと聞かされているが本当は違う。生まれたばかりの私を残して母は自殺したのだ。その訳について様々な噂が飛び交っていたが、どれも真実ではない気がした。きっと本当のところは誰も知らないのではないかと私は思う。
時折、赤ん坊の私を抱いている母の写真を目を凝らして見つめる。その笑顔には一抹の翳りも見つからない。それなのにどうして。私は母の心を懸命に探ろうとしてしまう。
父が東京に転勤になって私は和歌山の祖父母に育てられた。そして小学校三年生の秋、ようやく父のいる東京に出てくることになった。あの頃暮らしていたのは台所と六畳間があるだけの小さなアパートだった。小学校から帰って夕方になると料理の本を見ながら夕食を作る。父は仕事が忙しく独りの時間が多かったが、私は父と暮らせることが何より嬉しかった。しかしそんな日々は長く続かなかった。父が再婚することになったからだ。
母と真由にはじめて会った時のことを思いだす。小学校にも上がらない真由はすっかり父になついていて、私だけが初対面であることに気付いた。和歌山で淋しい思いをしている時に、父はこういう生活をしていたのか。父の腕に無邪気にすがりつく真由に軽い憎しみをおぼえた。
「真由ちゃん、お姉ちゃんだよ」
父がそう言って真由を私の隣に座らせた。真由は私の顔をじっと見つめると不意に顔を背けて父の胸に顔を埋めた。
「なんだ、恥ずかしいのか」
聞きなれない父の東京言葉が、父と私の間を引き離していく。真由は父の腕の中から逃れて台所で炊事をしている母の足にまとわりついた。母は笑いながら振り返り父と視線を合わせる。そこには、まぎれもない家族の姿があって私の居場所などどこにもなかった。
「おとうちゃん、花火しよ」
私は突然わざと大きな声で、父に故郷の言葉で話しかけた。
「花火?アホか、お前は。もう冬やのに」
父の返事に私は無性にうれしくなって、
「夏のんがまだ残ってたやん」
と、父の腕を引っ張った。
父は困った顔を母に向けて、なにやら目で語りかけた。
「そうね、初めて会った記念に花火しましょうか」
母はエプロンで手を拭きながら私に笑いかけた。
「よし、やるか」
父がそう言って、手をぽんと叩いた。
私は奥歯を強く噛みしめた。そうしないと涙が溢れてきそうだった。父と母の間に流れた交流がゆるぎのないものに思えた。私はこのままその流れにまかせるしかない。心の中で考えていることはこんなにたくさん限りなくあるのに、どうしようもなく私は幼いのだった。母の、細身だがしっかりと成熟した身体が私の前に立ちはだかる。私は骨張った自分の膝に頬を押し当てて目をきつく閉じた。
「おい、花火持ってこいよ」
父の言葉に何も答えず、じっとしている。こうすることが束の間の抵抗であることに充分気がついていた。
「自分から言いだしといて、なんや、お前は」
父が私の頭をくしゃくしゃに撫でた。
父は、押し入れの中に顔を突っ込んでがさがさと探し始めた。
「引き出しの中」
私は小さく呟いた。
引き出しの中、引き出しの中。私は呪文をとなえるように小さい声で繰り返した。
「どこにあるんや」
父は幾分苛立った口調で振り返った。頬が上気している。
「引き出しの中や、ゆうてるやん」
私は頬を膝に押しつけたまま、そう言った。
「それならそうと、はよ、言わんかい」
父には私の気持ちなんか分からないんだ。このまま初めて会った記念の花火なんかして、これからよろしくね、などと言われてたまるもんか。父と二人で暮らせるのを私がどんなに楽しみにしていたか。どんな思いで待っていたのか。それがこんな簡単に壊されてしまう。
父は私に花火を手渡して肩を強く掴んだ。その父の力で私の気持ちは微妙に揺れ動いた。強く結ばれているのは父と私だけなんだという安心感を感じる一方で、真由を抱き上げる父の背中が遠くに見えた。
外の空気はひんやりとしていて私は空を見上げた。薄オレンジ色から、群青色へのグラデーションの合間に三日月と一粒の星が浮かんでいる。
しばらくそうしていると、母が私に話しかけた。
「綺麗ね」
私は唇を固く閉ざして、三日月を見つめていた。
母は私の手から線香花火を一本抜き取って、その場にしゃがみこんだ。マッチをする手がほんの少し震えていた。小さな火花がぱちぱちと音をたて始めると、黙って見下ろしている私に笑顔を向けた。鼻の真ん中に皺が寄って、私は母が泣きだすのではないかと思った。
父に肩車された真由が、幾分離れた所から「ママァ」と叫んだ。父は真由の足をしっかり握りながら飛ぶように駆け寄ってくる。
「ずるいよお、先にやっちゃうなんて」
真由が母の傍らに座って小さな花火をじっと見ている。私はこの人たちと家族になるのだと思った。それはずいぶん前から決まっていたことのように、二つの背中が私の視界にすっぽりと納まった。父が私の手をそっと握りしめた。父の手はかさかさしていて冷たい。父が握る力をこめるごとに私の心は逆に遠ざかっていく。もう私だけの父ではないのだと否応なしに思い知らされた。
あれから私達四人は、それほどのいさかいもなく暮らしてきた。だからといってそれだけのことだ。
真由に母のことを好きかと聞かれる。私は、好きに決まってるじゃないと答える。
「お母さん、よくやってると思うんだよね」
真由は、自分の前髪を上目遣いにながめながらそう言った。真由の言葉が私の弱い部分をちくりと突き刺した。
「分かってるよ、そんなこと」
私は膝の上に乗せていた雑誌を閉じて、その場に寝ころがった。真由はひょうひょうと生きているようで、私の心の動きを敏感に察知している。お互いそうして今までやってきたのだった。
しんとした孤独が私の胸のなかに拡がった。
どうしてこんな思いをしてまで一緒に暮らしているんだろう。