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第三章 レットイットビー

第三章 レットイットビー


 レコード店にいると時間を忘れる。様々なレコードジャケットを見ているうちに、心のあちこちに隙間があいて何かがしみ込んでくる。

 ビートルズのレコードは、涼子が全部そろえていた。私はそれをテープに録音して聞いているのだけれど、『レットイットビー』だけはどうしても欲しかった。四人の瞳が空虚なもので埋めつくされているジャケットに、たまらなく切なくなる。

 私は三枚あった『レットイットビー』を並べて、一番印刷が綺麗なものを選んだ。

 レジの前に百円玉と十円玉を並べると、店員は訝しげに私を見た。私は黙って百円玉と十円玉を十枚ずつかたまりにする。そうすると面倒くさそうに店員も数え始めた。札でも硬貨でも払うことには変わりはない。

 財布の中が軽くなって心の中まですっきりした。私はレコードを抱きしめるように持って日の暮れかけた商店街を足早に歩いた。

 このまま家に帰る気にはなれない。私の足はつい、加奈のマンションに向かってしまう。

 ベルを鳴らすと、ドアが細く開いて加奈が顔を出した。

「今、お兄ちゃんが来てるの」

 低い声で囁いて、私の顔をうかがい見た。

「やばい?」

 私がそう口真似ると、加奈は首を横に振った。

「沙羅がいいんならいいよ」

 加奈はドアを大きく開けた。

 土間には踵の踏みつぶした革靴が脱ぎ捨てられている。その先のとんがり具合が彼の今の生活をあらわしているように思った。私は彼の靴をそっとそろえて真ん中に置いた。

 ベッドに寝そべった武司の姿は、はっと息を飲むほどの変わり様だった。肌が透けている黒のシャツに、太いズボン。金のチェーンが襟元からのぞいている。なにより細く切りそろえた眉が顔の印象を大きく変えていた。

 私は唾を飲み込んで、なんでもないように話しかけた。

「武司兄ちゃん、久しぶり」

「おう」

 片手を上げて歯を見せた。前歯が二つ大きくて、ねずみみたいだと幼い頃よくからかった。私は武司の笑顔に安心して、いつもの場所に座りこんだ。

「オレ、変わったろ?」

 私は、それには答えられずに首を傾げて俯いた。

「変わった、変わった、ヤクザみたいだもん。道で会っても知らん振りしちゃうよねえ」

 加奈が台所に立って背中を向けたまま、そう言った。

「るっせえ」

 それほど怒っている風でもなく、武司はベッドにうつ伏せになって伸びをした。

「こいつ、学校行ってないんだって?」

 武司は片手を大きく上げて、加奈の方を指さした。

 私は小刻みに二、三回頷いた。

「お前、高校ぐらいちゃんと出とけよな」

 加奈は、カレーを盛った皿をテーブルの上に音をたてて置いた。

「お兄ちゃんに言われたくないよ」

「うん、確かに」

 私は間髪を入れずに同意した。

「黙れ。お前らは世の中ってもんが分かってないんだ」

「じゃあ、お兄ちゃんには分かってんの?」

 突っかかるように、加奈は武司の顔に自分の顔を近づけた。

「お前らよりはな」

 そう言って、カレーライスを頬張った。

 私はふと思いついて、買ったばかりのレコードをテーブルの上に立てた。

「これだよ、これ」

「レット・イット・ビーじゃん。買ったの?」

 加奈は、ポールの顔を人指し指で撫でた。

「なるようになるって」

 私がレット・イット・ビーの文字を指でなぞりながらそう言うと、加奈は、うん、と大きく頷いた。

「分かってる?お兄ちゃん」

「何が?」

「これだから」

 加奈は、武司の頭の上で人差し指をくるくると回した。

「なんだよ」

「レット・イット・ビー、なすがままに、って意味なの」

「へえ」

「頭、悪いんだから」

「るっせえ」

 武司はわずかに残ったカレーをスプーンですくい上げて、にやりと笑った。私があっと叫んだ時には、加奈の頭の上にカレーをこんもりと盛り付けた。

「動くと、お前、顔に垂れるぞ」

 武司は、まばたきを繰り返してそう言うと、空になった皿をスプーンでカンカンと叩いた。加奈は、いやだあ、と叫びながら、おろおろと両手を上げたり下げたりした。その間抜けな姿に私と武司は笑いころげた。

「笑ってないで、なんとかしてよう」

 加奈は、頭の上のカレーをつかんで武司に擦り付けた。

「なにすんだよ。こいつ」

 私たちは子供に戻ったみたいに、いつまでもはしゃぎ続けた。


「沙羅、この前からお金ないって言ってたくせによくレコードなんて買えたね」

 加奈が、洗ってきた髪の毛をタオルでふきながら私にたずねた。

「うん」

「あたしも欲しいなあ」

 加奈は、レコードのジャケットを愛しそうに眺めた。

「買えばいいよ」

 私は、早口にそう言った。

「買える訳ないじゃん。うち、貧乏だもん」

 加奈は、ねっ、と居眠りをはじめた武司のほうに向かってしかめっ面をした。

「親の財布から、もらったんだ」

 私は、加奈の入れてくれた紅茶のカップを頬に押し当ててそう言った。

「勝手に?」

「うん」

「それってやばいんじゃん?沙羅んちはあたしんとことは違うんだし」

 私はしばらくの間黙り込んだ。

「最近、財布の中の小銭がいつもないのよねえ、だって。はっきり言えばいいのに」

 私は母の声音を真似しながら、その時の探るような母の目つきを思い浮かべた。

「沙羅がとったんじゃないかって?」

「分かってるんなら、おこればいいじゃん」

 加奈は、一瞬考え込むような表情をした。

「お母さん、やっぱ、沙羅に気使ってるんだよ」

「もう、一緒に暮らして八年になるんだよ」

「お母さんにおこられたいの?」

 加奈は、甘えてるよ、とでも言いたげに笑みを浮かべて私の腕を指で突っ付いた。

「あたしが明らかに悪いって時でも、沙羅ちゃんはそんなことしない子よ、お母さん信じてるから、なんて言われてごらんよ。参っちゃうから」

 私は、まくしてるように言った。感情が高ぶっているのが自分でもわかった。

「シンジテルカラ、か」

 加奈は、一文字一文字を区切ってつぶやいた。

「やな言葉だね」

 加奈の言葉が部屋の底に沈んでいく。この部屋には、私と加奈、そして涼子の、心の奥に隠しているどうしようもない脆さがしみ込んでいる。

 ふと見ると、武司は眉間に皺を寄せて眠っている。私たちの知らないところで、やはり彼も苦しみを抱えているのだと思った。




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