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第二部 終章 夢の跡

 それっきり沢村には会っていない。

 学校はまもなく春休みに入り、下宿を訪ねても堅く鍵がかかったままだ。店にも顔を出さなくなって、バンドのメンバーにも居所を教えていないようだった。

 ひとり部屋に寝転んで天井を眺めていると、あの夜の出来事は夢だったんじゃないか。と思う。真夜中の廃屋も、うごめいていた緑の植物も。彼との触れ合いも。

 私は髪の毛をきつく縛ってバンダナを巻いた。鏡を覗いて頬をぱちんと叩く。あの場所にもう一度行ってみよう。

 ひとつひとつ思い出しながら、角を曲がる。この辺の景色は昼間と夜ではあきらかに表情が違う。大型トラックが轟音を響かせて、私の自転車の横を追い抜いていく。

 ようやくあの日、潜り抜けた金網を見つけた。その奥にひっそりと建つ廃屋は、思いのほか小さかった。闇の中、もっと大きくそびえたつように見えたのに。壁一面に枯れた蔦が覆い、窓ガラスがいくつか割れている。うす曇り空の下で、みすぼらしい姿がぽかんと浮かんでいた。

 自転車で周りを何周かして、私は辺りを見回した。人の気配はない。思い切って自転車を降りる。金網に身体をくぐらせると、慌てていたのか足を擦りむいた。血が滲んで、私は身体を小さくした。誰かに見つかると大変なことになるような気がした。

 枯れ草を踏み分けて近づいていく。私は大きく深呼吸をして、そっと玄関の扉を開ける。土を擦るかすかな音にも敏感になって、背中がひやりとした。

 あんなに不気味だった「受付」や「薬局」の札は、薄日が射してきたせいで、それほどでもなかった。私は足元にあの日の足跡が残っていやしないかと探してみたが、木の床にはそれらしいものはひとつもなかった。逆に私の足跡が残るのではないかと振り返ってみても、木の床は鈍い光さえ放っている。

 三階まで早足で駆け上り、ゆっくり廊下を歩く。心臓が服の上からでも分かるほど早く打っていた。

 一番奥の部屋の前で立ち止まる。きっと鍵がかかっている。そうだ。あの日、沢村が鍵を開けたのを思い出す。

 ドアノブに手を伸ばし、そっと回す。かちゃりと音がして薄くドアが開いた。ベッドの上に隙間なくならんだガラス容器を思い浮かべる。怪しげに光りを放っていた緑の植物。私は目をきつく閉じた。

 目をそっと開けると、窓から入る日に晒されて、がらんと古ぼけた鉄のベッドがふたつ並んでいた。暗幕で遮っていた窓には、黄ばんだ薄いカーテンが所在なげに垂れ下がっている。ただそれだけの部屋だった。

 私は息を飲んで、しばらく部屋の中を眺めていた。

 しかし私は此処へ来る前からすでに気付いていたのだった。沢村は決してなにひとつ残していないだろうということに。


 その夜、目を閉じても様々な情景が瞼の裏に浮かんできて眠りに入っていけなかった。ようやく意識が遠くなっていく途中で、ある夢を見た。


「もしもし」

「…」

「彰人?」

「うん」

「今、どこにいるの?」

「ロンドン」

「本当に?」

「うん。リバプールも行ったし。ストロベリーフィールズも見てきた」

「そう」

「そっちはどう?」

「うん。なんとか生きてる」

「そっか。ならいいや」

 何かを言おうと思うのだけれど、言葉が見つからない。

「じゃ、また」

 切れた受話器をぎゅっと握りしめても、ツーツーという音が淋しく耳に残った。


 目覚めると朝の光がカーテンの隙間から漏れている。

 沢村は、しかしロンドンにたどり着いてはいないだろう。私はある哀しい確信をもって、そんなことを考えていた。


 ライブハウスのマスターが大麻所持で捕まったのは、それからしばらくしてのことだった。

 バンドメンバーも色々聞かれたらしいので、私のところにも来るかもしれない。

「警察に聞かれたら話してもいいよ。オレ、少年院かなんかにブチこまれて、案外、反省なんかして、まっとうな道歩いちゃうかもね」

 沢村は、茶化して私にそう言った。彼の言葉は冗談なんかじゃなくて、私にそれを求めているのだろうか、とも思った。でなければ、私にあの場所を見せなくてもよかったはずだ。

 でも私はおそらく何もしゃべらないだろう、と思う。

 正義って分かってるつもりだし、法律を守らなくちゃならないことも理解してる。だけど、なにか違う次元での私が、沢村の行動を認めているのだ。どうしようもない状況からとにかく抜け出したかった彼の気持ち。

 結局、細かい事情は私には何一つ明かさなかった。

 学校には退学届けが提出されていて、下宿も引き払い、彼の存在は跡形もなく消えた。

 元々、親しい友人といえば、バンドメンバーぐらいしかいなかった。しかも彼らは、警察に聴取されたことで、沢村に係わるのをやめようと考えているようだ。

 新学期が始まった頃には、いろいろな噂が飛び交ったが、受験の雰囲気が漂いはじめた高校三年生にとって、いなくなった一人の男子生徒のことなど気分転換のひとつにしかならない。

 私は、彼の下宿の大家に実家の連絡先などを訊ねたが、実はよく知らないとのことだった。彼には父親しかいないらしいということと、その父親も行方知れずだということ。

 とにかく彼についての消息は、きれいに消えてしまっていた。

 彼は今、生きているんだろうか。思い浮かべると、その姿はいつも歌っている。叩きつけるような声が、繰り返しよみがえる。

 だけど私は大丈夫だった。静かな日常は朝起きると始まっていて、目の前の出来事を淡々と片付けていく。

 「独りな人種」という言葉が、私にぴったり寄り添って離れてくれない。

 仕方ない。あのマンションの屋上で選択してしまったのだ。私はこれからもずっと独りで生きていくのだろう。

 切れるような寂しさが身体中に拡がった。

 授業が終わり教室がざわめく。私は隣の席の女子生徒と、「眠いね」などと簡単な会話をかわし、鞄にいくつかの教科書をしまった。

 生きるために、勉強しなくてはならない。


 私の方にも変化といえそうなこともある。

 父から葉書が届いて、その送り主の所に母の名前があったことだ。

 そうか、母が戻ってきたのか。

 年月はそんな風に流れていて、いろんなことを解決(というのかどうか分からないけれど)していく。

 高校を卒業したら東京に戻ってこれないか、ということと、近々そっちに行くというような内容だった。

 電話でも話せることをわざわざ葉書で送ってきたのは、もちろん、この送り主の母の名前を見せたかったのだと思う。

 そして今日、父が帰郷することになっている。おそらく母も一緒に来るんだろう。

 肌にさわる風が心地よく感じられる。桜の花は、もう咲き終わり、地面を白い花びらが覆っている。冬の間、頑なに尖っていた枝が緑と桃色のやわらかな色に包まれている。

 幾多の人が私の中を駆け抜けていった。

 沢村彰人は、どうしているんだろう。青空を仰いでもその答えは見つからない。

 西に傾いた太陽に照らされて、駅に通じる道から三つの影が近づいてくる。

 高校を卒業したら、東京に帰ろうかと思う。ただ、もう一緒に暮らすことはないのだろう。

 私は手を大きく振って、駆け寄っていく。

「おねえちゃん、遠かったよぉ」

 真由の茶色く染めた髪がきらりと光って、父と母の姿が、幾分小さく見えた。



終わり


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