第二部 第十二章 ヒトリナ人種
「オレが初めて話しかけた時。憶えてる?」
「うん」
「あの時、お前がじめじめ身の上話始めるようなら、大麻でも売りつけてやろうかと思ってたんだ」
クリスマスの夜のことを思い出す。当たり前だが、そんなこと考えてたなんて想像もつかなかった。
「あっさり否定するから、アテはずれ。自殺し損ねた奴が転校してくるって、オレ、知ってたから」
自殺し損ねた…。以前だったら、その言葉に痛んだだろうな。いや、沢村だから聞き流せるのかもしれない。
「じゃあ、ライブに誘ってくれた時も?なんとか引きずりこんでやろうって?」
懸命に記憶の中の沢村の表情を探していた。そんな素振りがあっただろうか。深い闇の底に落ちていくような脱力感が襲ってくる。
沢村はふぅっと大きく息を吐いた。
「いや。そんなつもり、もうなかった」
私は、ぼんやりと沢村の顔を見上げる。青白く照らされた彼の表情から気持ちを推し量ろうとする。だけど、きつく結ばれた口元と床を見つめる瞳は何をも語らない。
「ビートルズが好きなやつに歌を聴いて欲しかった。それに…」
沢村はそこで言葉を切った。
「おまえ、佐木にハマりそうだったからな」
「佐木君?」
「そう、あいつの助けたいパワーにやられてた」
沢村の皮肉な言い方に軽く反発をおぼえた。
「佐木君は、いい人だよ」
「あいつはさ、困ってるやつを放っておけないんだ。だけど本当に溺れてるやつを助けるってことが、よく分かってない」
「溺れてるって、あたしのこと?」
「そう」
確かにあの頃の私は溺れていたといってもいいかもしれない。
「一緒に沈む覚悟もないのに、助けたがるんだ」
佐木の温かさに、私は間違いなく助けられていた。佐木の朗らかな表情が浮かぶ。しかし、それはとても遠く、私を見てはいない。
「私が一方的に頼ってしまってたんだと思う」
「ふうん。ま、俺には関係ないけどね。ただ、コイツ、ぼろぼろになるだろうな、と思っただけだよ」
「そんな切羽つまってた?あたし」
「まぁね」
そうかもしれない。藁にもすがる思いで、私は佐木の親切にすがりついていた。
「だけどさぁ。そんなあたしに大麻売りつけてやろうなんて、溺れてるやつの顔を水の中に押し込むようなもんじゃない」
私がなじると、沢村は乾いた声で笑った。
「なんか、じめじめ身の上話でも始めたくなっちゃったな。あたしをこんなとこ連れてきて、聞く義務があるよ。彰人は」
私が笑って言うと、
「いいよ」
沢村は、聞いてやるよ、とでも言いたげに身体を起こした。
「あたしが言い出したの、死のうって。なのに涼子と加奈だけが死んじゃった」
「飛び降り?」
「うん」
「おまえだけ飛び降りなかったの?せーの、とか言って、自分だけ残っちゃった?」
沢村がいつにも増して饒舌なのは、多分、私の中では、いまだ重い記憶として残っていると察しているからだろうと思う。
私は床の上に指で丸を書いた。埃が深く溜まっていて、ぼんやりした灯かりにくっきり浮かび上がる。
丸を三つ、書いた。
「真ん中が加奈。こっちが涼子。反対があたし。手をつないで一緒に飛ぼうとしたの。なのにあたし。怖くなって、加奈の手を離して、しまった」
たちまちあの時の記憶が蘇ってきて、怖かったこととか、いや怖いというより、自分が一気に縮んでいくような感覚、が思い出された。吸い込まれそうなコンクリートの灰色。涼子の薄い微笑み。加奈の短い悲鳴。一瞬後の鈍い物音。身震いと共に、胃がぎゅっと痛んだ。
「それって、順番決まってた訳?」
緊張感のない沢村の声が、私を引き戻す。
「順番?」
「ほら、加奈って人が真ん中ってさ、決まってた訳?」
私は首を振って、ふと考えた。そう、あの並び順はどうしてあんな風になったんだろう。私が真ん中でもよかったはずだ。涼子が真ん中でも。
はっとする。そうしたら私は間違いなく落ちていた。彼女たちと一緒に死んでいたのだった。
「決まってた訳じゃないけど…」
口にしてから、思う。決まってた訳ではないけれど、並び順はあれ以外に考えられなかったと。加奈は、どうやっても真ん中だった。いつだって真ん中だった。そう考えてみると、私たちは三人で過ごしていたようでいて、結局、私ひとりだったんじゃないか、というような気がしてくる。
「結局、沙羅は、独りな人種なんだよ。しょうがないよ。オレもそうだし」
「ヒトリナ人種?」
「そうそう。誰かと一緒に死のうなんてさ。性に合ってなかったんだよ。オレらみたいなのはさ、独りでサビシィく死ぬんだよ。死んだ後、誰にも気付かれなくてさ、あぁ、そういう人、いたっけね?お気の毒に、って」
「ふうん。ヒトリナ人種か。そうかぁ」
私は、沢村の簡単なひと言で、自分の今生きている意味を言い当てられた気がして、気持ちが落ち着いていった。
「おまえ、オレのこと好きかもしんないけど」
沢村は私をふっと見つめて、やっぱ笑っちゃうな、こういう話、とくっくっと笑った。
「おまえもオレも独りな人種だからさ、一緒にいちゃうと駄目な訳。わかる?」
そこに関しては、私は少し首を傾げた。分かるような気もしたけれど。
「ヒトリナ人種同士だから、うまく生きてけるんじゃないの?」
「駄目駄目。そんなにオレら、枯れてないから。二人でいるからには分かり合わなきゃとかなんとか、出来もしないくせに必死になって、疲れ果てて別れるよ。きっと。もっと年とってさ、そういう無駄な努力しなくて済むようになったら。結婚でもするか」
結婚、というところに力をいれて、可笑しそうに笑った。
「年とるって、何歳くらい?」
「さぁ、四十くらい?」
「よんじゅう?年とりすぎっ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。その頃には、あたし、子供の一人や二人引き連れて、ヒトリナ人種になんか、つきあってらんない」
ばかみたいに言葉を繋げて、あぁ。こんなこと以前にもあったなぁ。いつだっけ。そうだ、あの日だ。ジョンが死んだ日。涼子と加奈と私。三人だった。
笑ってなどいられない状況の中で、とりあえずあれこれ口にする。目を上げると、ぼんやり緑の植物が無機質なガラスの中で、もこもこと繁殖しているのだった。
「どうしてそんな急いで学校辞めるの?」
「ちょっとヤバくてさ。早いとこ逃げようと思って」
「これのこと?」
ガラス容器を指差すと、まあね、と曖昧に頷いた。
「つかまりそうなの?」
「警察もそうだけど、ね」
「もっとヤバい、人?」
沢村は、何も答えない。
「どうして、こんなこと」
こういうことの裏には、暗闇の世界があることは私にも分かる。
沢村の掌が私の頬を撫でて唇が近づいた。冷たく、柔らかい感触が私の唇を覆い、そっと離れる。さきほどとは違う感覚で彼の唇を受け入れた。彼の胸に耳をあてると、心臓の音が大きく波打っている。身体が全部溶けてしまって彼のところに流れていくようだ。もう一度、唇を合わせる。
泣きたいのに涙が出ない時みたいに、感情だけがこみ上げてくる。
彼が突然、私の身体から離れた。苦しそうな表情で目を閉じている。激しい呼吸を静めるように自分の胸にこぶしをあてた。
「彰人?」
訊ねると、ごめん、と小さく言った。
沢村は激しい呼吸を繰り返して天井を仰いだ。全身が震えていた。なんとかして彼の震えを止めてあげたかった。私は彼の丸めた背中にそっと頬をあてた。
それからしばらく私は彼の身体を抱きしめていた。
「みっともないな、オレ」
私はゆっくり首を振って、もう明日のことなんてどうでもいい。今この時さえ、彼が安心していてくれれば、と思った。