第二部 第十章 想い
佐木のことを忘れたわけではなかった。気がつくと視線が追ってしまう癖は、なかなかなくならない。
だけど、そういう感情を許している自分がいる。忘れなくてはいけないと焦っていた時期が嘘のように、心を占有することはなかった。
「ねぇ。沙羅って好きな子とかおれへんの?」
クラスで話すようになった目黒みち子が、私の目を覗き込むように訊ねた。昼休み、売店のアイスを校庭で食べるのが日課になっている。もう立春を過ぎているとはいえ、まだまだ寒い。制服の上にコートを着込んで、震えながらアイスを齧った。
「いるよ」
私は、少し笑いを含みながら答えた。
「誰?」
「言わない」
「なんで、なんで。教えてぇや」
言ってもいいか。とふと思った。
「佐木くん」
「え…」
みち子は黙り込んだ。みち子は川瀬奈緒と親しく、小学校からの付き合いらしい。
「あ。いいのいいの。片思いだから」
「佐木は、奈緒と、もう長いしな」
「わかってるって」
しょんぼりしてしまったみち子の肩を軽く揺する。
「沢村と、ようつるんでるから、アイツかと思った」
みち子は、俯いたままぼそりと言った。
「なんていうか。あたしの中で、部屋がいくつかに分かれて。その中のひとつって感じなんだよ。佐木くんのこと」
私の内にはいくつかの区切りが出来たらしい。佐木への想い。沢村彰人。クラスの友達。家族。そして、記憶の中の涼子と加奈。
「そんなん、好きとちゃうわ」
みち子は幾分、安堵の表情で私を見た。
「そう?」
「好きやったら、その人のことしか考えられへんもん」
「へえ」
私がからかうように、みち子を下から覗き込むと、彼女は紅くした頬を両手で挟んだ。
「なんでこんな話になったんやろ。もう行こ」
みち子はクラスのある男子のことが好きで、本人は隠しているつもりでも、態度を見ていればすぐ分かってしまうのだった。
佐木よりもむしろ、沢村彰人が私の心を大きく占め始めていることは確かだった。だけど、その感情はひどく落ち着いている。
午後の授業は退屈で、眠気と闘いながら、なんとか過ごしている。
「ね。体育サボっちゃうから。鍵貸して」
バンドの練習のない日は、よく授業をサボって沢村の部屋で音楽を聴いていた。
沢村は、かったるそうに私に鍵を渡して、
「ボリューム落とせよ」
と言った。高校のまん前という立地に加え、授業をサボった女子があがりこんでいるなんて、バレると面倒だ。
「わかってる」
私は鍵を受け取って、教室を出た。
校庭に出たあたりで、ジャージに着替えた佐木に声をかけられる。
「もう帰んの?」
「うん」
「沢村んとこ?」
「どうして知ってるの?」
「みんな、知ってるよ」
「そっか」
私が笑うと、佐木も笑った。
「最近、元気になった?」
佐木の問いに私が首を傾げると、元気になったよ、と繰り返した。
くしゃくしゃに丸めた体操服を抱えた沢村が、階段をたらたら降りてくる。
佐木が「お?」と、沢村の襟首を引っ張って、尻に軽く蹴りを入れた。
「痛ぇなぁ」
沢村は、憮然とした表情で佐木を蹴り返す。だけど佐木の身体は沢村よりはるかにゴツく、まったくこたえていない。ふたりは、蹴り合い、ふざけあいながら、クランドに駆け出していった。
私は声をあげて笑いながら、しばらく彼らの背中を眺めていた。
沢村の部屋は、案外片付いている。私はひんやりした畳にぺたりと座った。本棚を見る。音楽関係の本が並ぶなかに、「パワーストーン」という背表紙が、密やかに窮屈そうに収まっていた。ぎゅうぎゅうに詰められた本棚から力任せに引っ張り出した。
表紙には、深い緑の原石の写真があった。旧い本だった。ぱらぱらめくると、一ページにひとつ、写真と名前。そしてその石に秘められた力などが記されている。わたしは、はっと気付いて、鞄の奥に入れてある「オレンジカルサイト」を取り出した。本の写真と比べてみる。これだ。
クリスマスに偶然私に回ってきたプレゼント。これは沢村が選んだものだったんだ。私は大きく深呼吸をしてその場に寝転んだ。
いつもぶっきらぼうな沢村からは、とても想像できない。私の為に贈られた訳ではないけれどなぜか嬉しかった。彼が店先で選んでいる姿が思い浮かぶ。ギターを弾く細い指が石をつまみあげる。掌に乗せる。
私。やっぱり彰人のことが好きなのかもしれない。そう意識すると、不思議にずっと前から好きだったような気がしてくる。
彼がいつも過ごしている空間。カーテンを閉めているので薄暗い。部屋の壁に重なるように引っ掛けられたジーンズや、トレーナーから彼の匂いが漂ってくるような気がした。私は息苦しくなって、窓を開けて外の空気を吸った。沢村は、よく窓際で煙草を吸うらしく、畳に新しい焼け焦げを作っていた。
玄関を乱暴に開く音がした。顔を洗っているのか、水の音がしている。なぜか鼓動が早くなる。今までにこんな瞬間、何度だってあったじゃない。私は自分に起こった突然の変化に戸惑いながら、静めようと必死になっていた。
がらりとガラス戸を開けた沢村は、驚いたように私を見た。
「なにやってんの」
音楽も聴かないで、薄暗い隅っこに座り込んでいるのは確かに不思議な光景だろう。
彼の顔を見たことで幾分落ち着いた私は、
「ううん」
と、何に対してだかわからない否定をして、カーテンを開けた。
西日が部屋一杯に差し込んで、橙色に染まる。
「今日、みんな来るって?」
「多分、来ないんじゃない」
「そう」
体操服のままだったので、着替えようとする。私はそっと部屋の外へ出た。今までだって、部屋で着替えてたことがあったに違いない。だけどまるっきり記憶になかった。
気付かなかったものに触れた途端、そこからすべてが変わっていく。
インスタントコーヒーを入れて、ふたつ持っていく。音楽は「Don't Let Me Down」が流れている。
軽く口ずさみながらコーヒーをすする沢村の横顔を眺めていると、泣きたくなった。彼が見ている雑誌には、ジョンの顔が大写しになっている。 膝に額を押し付けていると、本当に涙が溢れてきた。
「は?」
沢村は、私のすすり泣きに気付いたらしく、ぽかんとした表情で私を見た。
「ジョンのことでも思い出した?」
見当外れの質問をして、また雑誌に目を移す。
「あたし、帰る」
「あ。そう」
相変わらず、そっけない返事で、なおさら泣きたくなった。ついさっき芽生えた感情なのに、もうずっと報われない気持ちを抱えてきたみたいだ。
私は手元にあった、みかんを沢村に投げつけた。沢村は怒るというよりも、なんで?といった表情で、再び「は?」と首を傾げた。
こういう時、気の利いた男の子なら慰めてくれるだろうが、沢村は、訳わかんない、とでもいうようにトイレに行ってしまう。
昂ぶった感情をぶつけるように、私は音をたてて玄関の戸を閉めた。
学校の自転車置き場は、もう暗くて私の自転車だけがぽつんと残っていた。淋しくて悲しくて、自転車のペダルを思い切り踏んだ。
沢村が後を追ってきてくれないことは、嫌になるくらい分かっていた。