第二部 第九章 ひとり、ひとり
祖母の死後、私はひとりで暮らすことになった。父の反対も押し切った。日々の雑事でおそらく不自由するだろう。だけど父の心配はそこにはなく、ひとりにしておくとまた妙なことを考えはしないかということだった。
おそらく私は二度と自殺は図れないと思う。それは恐怖というのとは違う。うまく自分でも説明できない。あの時、加奈の手をふりほどいてしまったから、としか言えない。
簡単な朝食を済ませて制服を着る。スカートのひだがすっかり丸くなっている。昨夜、布団の下に敷いて寝るのを忘れたんだった。みっともないけれど、アイロンをかけている時間もない。仏壇に手をあわせて、三日も換えていない花の水に気付いた。
「おばあちゃん、怒って、ないよね?」
祖母の写真に語りかけて、大丈夫、大丈夫と勝手に頷いた。
そろそろ三学期も終わる。周りには受験の空気が漂い始めていて、自分の進路について考えざるをえない。適当に勉強して大学に行って結婚する。そういう当たり前の、ふざけた未来を涼子と加奈と私で笑い飛ばした。だけど、偏差値の変化に一喜一憂している同級生を見ているうちに、確かにそれもひとつの生き方なのかも、と思う。
だからといって大学に進むとしても何学部をめざすのか。それさえも分からない。私が唯一、真剣にやってきたことと言えば、ビートルズを聴くこと。しかも音楽的な知識などひとつもなく、ただ彼らの音楽に酔いしれて暮らしていただけだった。
地理の時間。憶えなくてはいけないことがたくさんある。国々の位置。首都。生産物。太い教科書をぱらぱらとめくっていると、英国の地図が目に入った。ジョンたちが生まれた国。リバプールはどの辺だろう。ぼんやりそんなことを考えていると、自分の名前を呼ばれていることに気がついた。
「香川さん。なんというお茶ですか?」
「は?」
いつもなら、「分かりません」とひと言で座るところだが、拍子抜けした質問に、つい聞き返してしまった。
「私たち日本人がよく飲むのは、何茶?」
「…」
何を聞きたいのか皆目、分からない。
「あなたが家で飲んでいるお茶は、何色?」
「黄、色…?」
くすくすと笑いがおこる。教師は苦笑いしながら、もういいと言うように、手で座るように指示した。
「私たちが飲んでいるのは、緑茶ですね?」
あぁ。その答えを求めていたんだ。
「香川さんのうちでは、黄ぃ茶を飲んでいるそうですが」
教師が気の利かない冗談を言って、教室には別の嘲笑が広がった。
沢村彰人が私の方を見て、「ばぁか」と口真似をした。私と沢村は、そういうやりとりを交わすくらい親密になっていた。
放課後、繁華街の一角にあるスタジオへ向かう。メインストリートから外れた商店街は昼間なのに薄暗い。アーケードの電気がほとんど点いていないせいだろう。毛糸屋、本屋、金物屋、と営業しているが、客の影は見当たらない。これでどうやって暮らしているのだろう。店頭で埃をかぶっている鍋や食器を眺めながら、そんなことを思う。
マジックミラーの扉を開けて、「ちわぁ」と型どおりの挨拶をした。
「もう来てる?」
バイトの滝井君に尋ねると、あぁ、さっきね、と無愛想に答える。彼はいつもこの調子なので、機嫌が悪いわけではない。
「これ」
彼は薄い緑の液体を私に差し出した。ビール会社のマークがはいったコップだ。
「あのね。一応、カクテルなんだから。もちょっと綺麗なグラスに入れて欲しい訳。でないと、ほんとの味なんてわかんないよ」
ぶつぶつ言っても、はよ、飲んで。とにこりともしない。口に少し含んだだけで、アルコールの強さが喉に焼きついた。
「うわ。これ、強いよ。滝井君」
顔をしかめると、ふぅっと溜息をついて、ほな、ええわ。とコップをひったくる。
ひょいと背中を向けて、自分で確かめるように口に含んでいる。
「ね、なんていうカクテル?」
「なんでもええやん」
「教えてよ」
「フォールンエンジェル」
「え?」
「フォールンエンジェルっ」
フォールン…。落ちた、天使?あ、堕天使のことか。私は滝井君のくたびれたトレーナーの背中を見ながら、ちょっと笑った。
彼はバーテンダーを目指していて、こうして店が始まる前にカクテルを作る練習をしているのだった。未成年の私に味見させるのはどうかと思うが。それに酒の味なんてまだよく分からない。彼が私に飲ませるのは、多分、失敗してるかなぁ、と不安な時だけだと思う。 狭い階段を降りて分厚い扉を開ける。ドラムやベース、ギターの音がばらばらに響いている。
この店で、沢村たちのバンドが週一回、ライブをやっている。地下に防音のスタジオが設置されおり、彼らの練習場所になっていた。
部屋の隅にパイプ椅子を置いて、練習を聞いている。
Come Together
しかし、イントロの部分のアレンジが変わっている。
曲が終わってから、私は沢村に声をかけた。
「ね、イントロのとこ、変えたの?」
「うん」
「どして?」
「いいじゃん。別に」
沢村が少し不機嫌そうに答えた。私は、触れてほしくなかったかな、と反省して再び椅子に座った。
何曲かを通しで練習した後、沢村は、むっつりしたまま缶コーヒーを飲んでいる。
「やっぱ、オリジナルのがいいかな」
私の横で、独り言とも、訊ねているとも取れる口ぶりでそう言った。
「あたし、難しいことわかんないから。でも、Come Togetherの、始めのとこがすごく好きなんだ」
沢村は地べたに胡坐をかいて、組み合わせた両手を自分の唇に当てた。どこかを睨んでいるような厳しい目つきだった。
「コピーばっかやってると、時々、なんとか自分の色を入れたいって思う。オリジナルの、特に好きな部分をわざと変えたくなるんだ」
沢村は、悔しそうに大きく溜息をついた。
「あたしはバンドとかやったことないから、きっと気持ちは分からないかもしれないけど。どんな曲だって、コピーだって、彰人たちじゃないと出せない音だって思うもん」
言葉を選びながらそう言ったけれど、沢村は私の頭をポンと軽くはたいて、外へ出て行ってしまった。
また私、綺麗事言っちゃったのかな。と落ち込んで、いや、と思いなおす。私は彼らの音に本当に惹かれているのだった。沢村の魂をしぼりだすような声と、それを知り尽くす音。包み込む瞬間もあり、闘ってる、と思う瞬間もある。
俯いていると、ドラムの森口が、私の肩を軽く叩いた。
「沙羅が指摘したとこ、練習前に、ちょっとモメたからな。あいつ、意地になって変えるってゆうから」
「ごめん。口はさんじゃって」
私は、部外者だったのに。
「ええって。そのうちケロッと帰ってくるから」
結局、夜のライブは、オリジナルのままのアレンジだった。
沢村は、そんなことがあったことなどすっかり忘れたように客の飲み物を運んでいる。だから私も何も言わない。
メンバーは、ライブが終わると家に帰る。なにしろ彼らには親がいて、酒場でライブをやるのは大目にみてくれるとしても、帰宅時間が遅くなると色々文句を言われるらしい。
沢村は、いつもここでバイトをしている。酒を運んだり、簡単な料理ならば作ったりもする。本当は未成年など使ってはいけないのだろうが、マスターはそういうことに寛大というか、ルーズな人だ。
滝井君に、堕天使のカクテル、もいっかい飲ませてよ、とからんでみたが、きろりと睨んだだけで、ジンジャエールを私の前に乱暴に置いた。
「今更、未成年だからとか言わないでね。味見させてるのは、そっちなんだから」
滝井君って大笑いするときなんか、あるのかな。想像しようとしても思い浮かばない。
私は今まで互いをがんじがらめにするような密接な繋がりしか知らなかった。言葉ひとつひとつに耳を澄まし、その態度に目を凝らした。
だけど、ここにいる人たちは一緒にいるのに、ひとり、ひとりだ。沢村も、メンバーも、ライブが終わると互いに干渉しない。滝井君も。そして私も。
帰り道、沢村が、めずらしく私を送ってくれるという。
もう十一時を回っているので、人通りは全くない。私と沢村は、自転車で並んで走っている。
「おまえ、進路とかどうすんの?」
「まだ考えてない」
「呑気だな」
沢村は、私のスピードに合わせる為に、車輪を逆回しにするので、カラカラと乾いた音が響いた。
「彰人は?」
「わからない」
バンドは?と聞きかけて、飲み込んだ。
「オレ、目が覚めたし」
「なにが?」
「自分の色とか、出そうと思って出すもんじゃないしね」
私の家がすぐそこに見えて、沢村は、んじゃ、と手を上げた。
背中をむけると二度と振り返ったりしない。自転車の沢村は、ひどいガニ股で、ゆらゆらと曲がりくねりながら去っていく。相変わらず、自分の言いたいことだけ言って、それっきりなんだから。私は半ば呆れながら、じゃあねっ、と大声で叫んだ。聞こえているはずなのに、そしらぬ振りで、曲がり角を曲っていく。
私をライブに初めて誘った時もそうだったっけ。放課後、突然、私の机に店のマッチをぽい、と置いた。え?と彰人の顔を見ると、
「オレら、そこでライブやってるから」
鼻を人差し指ですすりながら、早口でそれだけ言う。唐突な誘いに私が思わず頷くと、
「んじゃ」
と、すたすた教室を出て行ってしまった。今日あるのか、とか、何時からとか、細かいことはなにも聞いていないのに。私はその日、明るいうちから辺りをうろうろしながら時間を潰すしかなかった。ようやく店の前に出てきた滝井君に、ライブの時間などを教えてもらったのだった。
それから、私は練習時間から彼らと一緒に過ごすようになっていた。
沢村の家に集まって、レコードを聴いていたりもした。しかし私が以前、涼子や加奈と聴いていた風ではもちろんなく、ここのアレンジはどうとか、お前がもうちょっと上手ければこんな感じでいくのにとか、一歩間違えば喧嘩になりそうなくらい激しいものだ。
私は、圧倒されながらぼんやり座っている。食事を作る時もあったが、むろんインスタント食品である。彼らはラーメンをすすりながら音楽を語り合い、せめて、ネギくらい入れろよなーと私に文句を言ったりする。
私は彼らの真剣さとか、傍若無人さなどに触れて、前を向く、ということを思い出したのかもしれない。
今この時が、明日に続いている瞬間なのだと。