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第二部 第八章 追いかけた影

 通夜は親戚数名と近所の人。ひっそりとしたものだった。

 菊に囲まれた祖母の写真をじっと見ている。祖母の人生って何だったんだろう。派手なことを好まず、いつだって控えめに生きていた。はしゃいだり、わがままを言ったり、泣いたり、わめいたり。そんなことあったんだろうか。そして生命ということを考える。遥か遠くから受け継がれてきた生命。私がこうして此処にいるのも祖母が存在したからだ。そんな当たり前のことを、しみじみ思う。

 参列者は、私と父に頭を下げて去っていく。虚ろな視線の遠く向こうに、ひときわ背の高い佐木の姿を見つけた。隣の男性とひと言ふた言かわして、自分だけが焼香の列に並んだ。彼が段々に近づいてくる。いつも外している詰襟のボタンをきちんと留めて心持ち俯いている。焼香を済ませて頭を下げる。数日前に学校で会ったばかりなのに、彼の顔がひどく懐かしく思えた。

 遠ざかる背中を自然に追っていると、先ほどの男性と並んで帰っていく。誰だろう。焼香もせずに帰っていく白髪の男性。

 私は父に、クラスの人だから、と声をかけて佐木を追った。

「佐木君」

 呼びかける。振り向いた表情はいつもの明るいものではなかった。

「今日はありがとう」

 私は頭を下げて、隣の男性に軽く会釈をした。

「僕の。叔父さん」

 表情が堅くなっていくのが自分でもわかる。

「朋樹からあなたのことは聞いています」

 穏やかな視線を私に向けた。

「遠くからでも、お悔やみを言いたかったものですから」

 佐木雄三は深々と頭を下げた。

 言葉が見つからなかった。この人が佐木雄三。母の愛した人。

「叔父さん、行こう」

 佐木は叔父を促して、私に「元気出せよ」と言った。

 街灯が佐木たちの影を長く伸ばして、曲がり角で消えた。

 来た道を戻りかけて、私は突然、駆け出していた。彼らの後を夢中で追いかけた。

「少し。話をしていいですか」

 息をきらした私に、佐木雄三は、ええ。と頷いた。

「オレ。先に帰っとくから」

 朋樹が私と雄三を交互に見る。頷くと、片手を軽くあげて去っていった。

 近くの寺の境内に入っていく。石の階段に腰掛けると、ひどく冷たい。

 何を話せばいいのか、見当もつかない。ただ、もやもやしたものを晴らせるかもしれない。それは今しかないのだと思う。

「あなたは、お母さんによく似ていますね」

 初めて言われる言葉だった。考えてみると、母を知っている人間と係わったことは殆どないし、親戚内では母のことは話題にのぼらない。暗黙のうちに避けている。 

「初めて言われました」

 佐木雄三は、ふと懐かしむような目を私にむけて、ポケットから煙草を取り出した。

「たくさん聞きたいことがあるようで、いざとなると思いつかないものですね」

 不思議なくらい素直に話せそうだった。

「私。母が自殺したっていうこと、幼い頃から気付いていましたけれど、実際知らされたのはつい先日なんです」

 佐木の視線はとても柔らかい。見つめるわけでもないのに深い眼差しだった。

「母は、あなたのことが好きだったんですね」

 佐木はしばらく夜空を仰いで、少し微笑んだ。

「あの時の彼女は、あなたの言う、好きという感情とは少し違っていたんじゃないかな」

「拠り所。みたいなものですか?」

 私の質問に小さく頷いて、そうだね。と答えた。

「母の、一方的な感情は、重かったですか?」

 私は、責める口調にならないように、出来るだけゆっくり訊ねた。

 佐木はそれには答えずに、煙草に灯をつけた。

「僕は医者になったばかりでした。まだ若かった。だけど」

 と、私を見て、少し笑った。

「一応、トレーニングは積んでいたんですよ。精神科というのは、不安定な患者さんと相対しますからね。それ相応の訓練は受けていたんです」

 佐木の指は細くて長い。すっと通った鼻筋が夜の闇に白く浮かんだ。

「僕の方に、感情がなければ、おそらく適切に治療できていたと思う」

 ひたひたと言葉にならない思いが私を埋めていく。まるで母が私の身体を借りて、佐木の言葉を受けているかのように。

 私は両手で顔を覆った。涙があふれた。これは私の涙じゃない。母が泣いているんだ。

 もうなにひとつ聞くことはない、と私は思った。

「今でも精神科を?」

「いや。あの時に辞めました」

 佐木の顔に刻まれた幾つもの皺が、それからの人生を物語っていた。

「ありがとうございました。お会いできてよかった」

 私は立ち上がって、そう言った。

「戻ります。父のところに」

 佐木の表情はどこまでも温かく、私がわざと口にした「父」という言葉を受け止めてくれた。

 家に向かって走った。風もなく、ただ底冷えした空気が私を包んでいく。家が見える場所で私は立ち止まり、しばらく遠くから父の姿を眺めていた。


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