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第二部 第七章 沙羅双樹

 よく晴れた朝だった。雨戸をあけると、思わず息を止める程寒い。

 庭の草木に霜がおりている。昨夜は布団にもぐりこんでも肩口から冷気が入ってきて、なかなか眠れなかった。

 私はいつものように、パジャマの上に綿入れを羽織って洗面所に向かう。

 いつもならば、祖母の炊事をする音が聞こえてくるのに。やけに静かだった。

 流し台の上には、ほうれん草や豆腐が無造作に出ていて、それなのに祖母の姿が見えない。 

「あれ、おばあちゃん?」

 私は呼びかけて、ひっ、と声をあげた。祖母が冷たい土間に倒れていたからだ。

 駆け寄って祖母の身体に触れた途端、私はその場から動けなくなった。

 

 震える足で、ようやく立ち上がり、電話までたどりつく。

 救急車?一一九? あ、違う、一一〇?

 わかんない。わかんないよ。どうしたらいい?

 身体が震えて止まらない。

 そうだ。父にかけよう。ダイヤルを回す。

回そうとするのだけれど、どうやっても間違える。どうして?〇三からだって。〇、三、と回すと、後が思い出せない。切って、もう一度。何度やっても、かけられない。大きく深呼吸した。手元のメモに番号を書く。ペンを握る手に力を入れないと、震えてうまく書けない。番号をゆっくり回した。

 ようやく繋がった。出て。お願い。お父さん。

 私は泣き出していた。

「もしもし」

 父の声だ。

「お…父さん?」

 私は、しゃくりあげるように泣いた。

「沙羅か?どうしたんだ?」

「おばあちゃんが」

「ばあちゃんがどうした?」

「わかんない。倒れて。つめたい」

 氷のように冷たかった頬。

 私は動揺してただ悲鳴のような泣き声をあげるばかりだ。

「しっかりしろっ」

 父は、大声で怒鳴りつけた。

「とにかく救急車を呼ぶんだ。いいね。一一九に電話するんだ」

「う、ん」

 私は電話を切って、1、1、9、とダイヤルを回した。 


 祖母が死ぬなんて、考えもしなかった。

 まわりはなんだか、ばたばたしていて夢の中みたいだ。いつもは誰もいない家の中に人がいる。近所の人とか、知らない人とか。

 父が東京からいろんなところに手配してくれたらしい。私はなんにもわからない。

「写真、ありますかね?」

 丸顔の黒い服をきた男の人。

「写真?」

「遺影にする写真を」

「ああ」

 写真なんて、あるのかな?身体がひどく重い。

 納屋の戸を開けると、きちんと整頓されている。几帳面な祖母らしいな。確かに整頓されているけれど、詰めてある蜜柑箱も醤油の箱もひどく古ぼけていた。下には新聞紙が敷かれていて、これもすっかり黄ばんでいる。

 箱の側面には細かく中身が記されていて、折れ曲がった小さい字が並んでいる。畳に座り込んでこれを書いている祖母の丸い背中が思い浮かぶ。鼻の奥がつん、と痛んだ。

 もうちょっと早く起きてたら?助けてあげられた?

 それよりなにより心配ばかりかけた。

 幼い頃を思い出すと、祖母の面影ばかりだ。幼稚園も。小学校も。手を引いてくれたのは、いつだっておばあちゃん。濃い茶色の着物を着て、草履を履いていた。

 友達のそばには、若くて綺麗なお母さんがいた。華やかな色の洋服を着て、いい匂いがしそうだった。だけど私には母がいない。

 うらやましいという気持ちは、多分なかった。だって私は母親の温もりを知らなかったから。甘える方法だって分からない。

 殆ど話さない祖父と祖母と私。そんな中でも幼い私は静かに暮らしていた。

 「写真」と書かれた箱を取り出した。黴臭さと埃にむせながら中を覗くと、古いアルバムと写真の束があった。

 私はふと見るのをためらう。母の写真が入っているからだ。自殺した理由を聞かされ、その上で母の顔を見るのは怖かった。

 平気。写真なんてカメラにむける仮の表情だもの。言い聞かせて思い切って開く。

 アルバムに貼られていない、セピア色の古い写真がばらばらと落ちた。祖父や祖母の若い頃。父の子供時代の写真などがあった。

 とりわけ大きくてカラーの写真を手にとった。父と母と祖父と祖母。父が笑っている。母はとても若い。まだ幼ささえ残る表情で髪に手をあてている。おそらく結婚したばかりの頃だ。私が生まれる前。この頃は幸せだったのかな。ね。おばあちゃん。幸せだった?よそゆきの着物を着て、髪を綺麗に結っている。

 この瞬間がなければ、私は生まれてなかったんだね。私は写真の祖母に話しかける。

 この写真にしよう。アルバムを中にしまおうとして、「沙羅」という文字が目に入った。覗き込むと、古い国語辞典だった。

「香川沙羅」

 丁寧に書いた文字や、流して書いたもの。ひらがな。ローマ字。辞典の外箱に万年筆で何度も何度も書かれている。

 筆跡は父のものではなかった。祖父でも、祖母のものでもない。あぁきっと。母の字だ。母が私の名前をこの辞典で調べてつけてくれたんだ。私はその字面を人差し指でそっと撫でた。

「沙羅」を引いてみる。「沙羅双樹」の部分に赤鉛筆の線があった。このページを、まぎれもなく母はめくったんだ。


 祗園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。

 奢れるものは久しからず、ただ、春の夜の 夢の如し


 そらで言える平家物語の冒頭部分を思い浮かべた。

 記憶の中に母親の姿はない。だけど今、初めて母に寄り添えた気がする。


「あれはいつの写真だ?」

 東京から駆けつけた父が目を細めて私に訊ねた。

「お父さんとお母さんが結婚したばかりの時。多分」

「そうか」

 写真は案外、真実を浮かび上がらせるのかもしれない。それほど祖母は穏やかな表情をしていた。

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