第二部 第六章 クリスマス
川瀬奈緒から誘いの電話があったのは、クリスマスの三日前。
「クリスマス、香川さんもおいでよ」
川瀬の声は高くておっとりしている。遠慮することないよ、というような内容のことを、彼女はゆっくり話した。
私は、佐木君に頼まれたの?という言葉をようやく飲み込み、うん。ありがとう。とだけ言った。
ものすごく疲れていた。
佐木と川瀬の無邪気な心遣いが、私を一層苦しめる。
目を閉じて涼子の顔を思い浮かべた。懐かしい声が私をなじる。
「だからあの時、一緒に飛べばよかったのに」
だけど私は飛べなかったのだ。
「優しくされて辛いなんてさ。初めてだよ」
私は口にだして呟いた。
そんな歪んだ考えは、佐木に対する特別な感情に起因しているのだと気付いている。
なんでもないことだと思おうとした。死の淵まで行ってしまった私には、淡い気持ちなど無縁なのだと。
しかし淡いというには、私の気持ちは膨らみすぎていた。果たして似通っていないだろうか。担当医に救いを求めた母の哀しさに。
いけない、と私は思った。
街を歩くと、クリスマスの飾り付けが華やかだった。
昨年は外に出ることも出来なかったっけ。音も光も全て、辛いことに結びついた。一年後、こんな風に街を歩けるなんて考えもしなかったな。
そんな自分がひどくくすんで見える。私は涼子や加奈のように純粋になれなかったんだ。濁っているんだ。情けなくても生きていかなくちゃなんないんだな。
楽しそうに歩く人々がいた。私はチカチカと点滅するツリーの電飾を喫茶店の窓から眺めている。案外、他人の目から見たら、私だって楽しそうに見えるのかもしれない。
狭い街なので、知った顔がいくつか通り過ぎる。同級生のグループを見つけて、私は視線を下げた。
みんなでプレゼント交換するから、なんか用意してきてね。と、川瀬奈緒は言った。
私は結局、クリスマスパーティに参加することにしたのだった。考えられない行動をすることで、自分の中の何かを壊したかったのかもしれない。
みんなの輪の中に入るのは苦手だった。昔からそうだった。東京にいる時は涼子や加奈がいたから、どうにか安心していたのだろう。だけど無理すれば表面上は上手くやれるような気もする。
クリスマスプレゼントには、白くてふかふかした羊のぬいぐるみを選んだ。手触りが柔らかで愛くるしい瞳をしている。
「ったく、沙羅らしいよ。あんた、自分がそれもらっても、嬉しくないでしょ?」
涼子の声が聞こえてきそうだった。
「そんなことないよ。かわいいじゃん。この子」
白い毛並みを撫でながら、きっと加奈は、こんな風に私を慰めてくれる。
決してけなされることのない白い羊。どうしたって当たり障りのない生き方しか出来ないんだな、私は。
幾分諦めに似た気持ちを抱きながら、同級生たちの背中を見送っていた。
パーティの会場は、クラスの沢村彰人の下宿だった。パーティというより、「クリスマス会」といった方がいいかもしれない。
沢村は実家がひどく遠いので、そこで一人暮らしをしていると聞いた。下宿といっても一軒家で、二階建ての全てを彼が使っていた。高校生ひとりに家を貸すというのも物騒だが、場所が高校の正門の前ということが大家を安心させる理由だろう。
沢村は、つまらない授業になるとよくいなくなった。家に帰ってしまうのだ。教師たちはそういうことが分かっているので、時々、彼を呼びに行ったりした。寝ぼけ眼で連れてこられる沢村は、悪びれるでもなく飄々と自分の席につく。
ひとりで暮らしているせいか、制服はいつもくたびれていて、女子にいつも汚い、臭いとからかわれていた。それでも何食わぬ顔をして、菓子パンを頬張っている。
東京から転校してきてまもなく、秋の文化祭があった。
文化祭など殆ど参加しなかった私だが、ひとりでいられるという理由で、体育館で催される演劇や音楽をずっと見ていた。
おせじにも上手とは言えないそれらの出し物を、ぼんやり眺めていると、突然人が集まり始めた。どうやら目当てのものがあるらしい。
舞台にドラムやアンプがもちこまれて、コンサートが始まるということを知った。これだけ人が集まるのは、校内では知られたバンドなのだろう。
見もしなかったプログラムを開くと、
『Twist And Shout』
という曲名が目に飛び込んできた。
バンド名は「Something」。
ビートルズのコピーバンドであることは間違いない。ここに座って聴いていられるだろうか。次第に鼓動が激しくなったのを覚えている。
音あわせが始まって、やがて照明がおちた。私は目を閉じた。
聴きなれた、いや、心に染み付いたイントロとともに、
Well shake it up baby now
Twist and shout
決して美声ではなかった。が、圧倒的な声量が体育館に響き渡る。今まで散漫だった雰囲気が突然、同じ方向に流れていく。
きつく閉ざした目を舞台にそっと向けると、スタンドマイクをにぎっているのは沢村だった。
泣き叫ぶような叩きつける歌い方だった。
私はそっと席を立ち、歓声で湧き上がっている体育館を出て、裏手にある階段に腰をおろした。
音はリズムと共に漏れていたが、遠くに聞こえることで、かえって落ち着いた。私は、久しぶりにビートルズの音楽を耳にしたのだった。
それからだ。それとなく沢村のことを気に留めるようになったのは。彼も私と同じように、ビートルズに染まって暮らしていたのだろうか。
沢村の家の前には、数十人集まっていた。
なんとなく佐木の姿を探したが見つからない。やはり帰ろうか。どんな風に入っていけばよいのか分からなかった。
その時、集まりの中心にいた川瀬奈緒と視線が合った。
あ。と彼女は口を押さえて、私の方に駆け寄ってきた。
「きてくれたんやね。香川さん。こっちおいでよ」
彼女に手を引かれていくと、驚いた顔と気まずい雰囲気に包まれた。
川瀬は、仲のいい女子ふたりに、「さそったら来てくれてんなぁ」と私に大袈裟に身体を斜めにして見せた。
「うん」
いたたまれない沈黙が一瞬。それを打ち破ろうと川瀬が私の持っている紙袋を覗き込んだ。
「プレゼント、用意してくれたん?」
彼女の顔は小さくて、それが瞳の大きさを強調する。かわいい女の子だな…。私はそんなことを思いながら、意識して笑顔を作った。
遠くから幹事を呼ぶ声がして、あ、ごめんね、と言い残して走っていく。
私は親しくない同級生たちに囲まれて、彼女たちの話になんとかとっかかりを見つけようとした。だけど、着ているセーターは何処で買っただとか、何々君は来るんだろうか、とか、どうやっても私にはついていけない話題らしかった。
気付かれないように集まりからそっと離れた。玄関先の植え込みにしばらく座っていると、用意が整ったようで集団がぞろぞろと入っていく。
家の中は案外広くて、土間に大きなテーブルがひとつ。繋がった和室はおそらく十畳以上はあると思われた。机は何人かで持ち寄ったのだろう。ちぐはぐに2列。その上にはフライドチキンやスナック菓子の皿が並んでいた。
突然、電気が消えて、部屋の中が静かになる。
「Merry Christmas!」
マイクを通した声。
電気が点くと同時に、クラッカーの音が重なって響いた。わっと歓声があがり拍手がおこる。
あの声は佐木だ。マイクを握っているのは、おそらく彼だ。私は大きく深呼吸をして部屋の奥に目をやった。
クリスマスツリーの横で、佐木が男子たちに囲まれて笑っている。胸が熱くなった。
あんなことがあって、彼はもう、私に笑いかけてくれないかもしれない。
私は一番隅に座った。紙コップが回ってきてシャンパンが注がれる。向いに座っている男子数人は名前も知らない。女子たちは仲間内で盛り上がっていて、やはり私は、はみ出しているようだった。
壁に背を預けて、ビールやワインをひとりで注ぎながら飲んでいる。
そういえば和歌山で暮らし始めてから、アルコールに逃げる癖は消えていた。知らず知らずのうちに私の精神は安定してきているのだろう。
つい追ってしまう視線の先には佐木の姿があった。なんだか惨めだな、私。
眠くなって立てた膝の上に頬を乗せる。目を閉じると周りのざわめきも誰かの歌も、遠くに聞こえた。
「来てくれたんや」
人の気配がして、目を薄く開けると佐木が私の横に座っている。
「うん」
彼の顔が涙でぼやけた。アルコールで涙もろくなっているのかもしれない。
「この前は、ごめん」
「何が?」
「俺、無神経やったから」
彼は私の涙に気付いてうつむいた。涙は堰を切ったように溢れて、目尻から膝にこぼれ落ちた。
「私が転校してきた時から知ってたの?」
「うん」
「そっか…」
だから優しくしてくれたんだね?
「ごめん」
彼は私の涙を勘違いしている。
「別に佐木君が謝ることじゃないよ」
私は母のことなんか忘れていたかった。そんなこと、どうでもよかった。
佐木の向こうに川瀬奈緒の顔が見えた。そっと彼に近づいて、
「そろそろ、プレゼントの交換やるから」
と小声で囁いた。佐木は頷いて、わかった、と答えた。川瀬の大きな瞳が私を心配そうに見つめる。大丈夫?と小さく聞く。彼女は知っているのだろう。私の母のことを。
佐木と川瀬の後姿を眺めながら、加奈のことを思い出していた。涼子が家を出て、ヒロユキの部屋にいることを知った日。私は加奈に、つらいね。って言った。
ようやくわかる。加奈の気持ち。
「今から、プレゼント交換やります。持ってきたプレゼントを手に持ってください」
川瀬が仕切っていた。
彼女の歌に合わせて、隣に次々手渡していく。
「真っ赤なお鼻のトナカイさんは、いっつもみんなの笑いもの…」
あんな風に歌える彼女だから、いいんだなぁ。私だったら絶対できないもの。
様々なプレゼントを隣に流しながら、ぼんやりそんなことを考えた。
歌が終わって手元に残ったのは、小さい箱だった。なんだろう。振るとコトコトと音がした。
てのひらに収まるオレンジ色の石。
「オレンジ・カルサイト」
気持ちを明るく前向きにして元気付けてくれると言われています。
小さなブックレットには、そう書いてある。表面が磨かれていて美しいオレンジ色。私はその感触を味わうように、きつく握ったり、頬にあてたりした。これを選んだ人は誰なんだろう。そして私が選んだ白い羊は誰の手に渡ったのだろう。ぐるっと見回すと、頭の上に羊を乗せてふざけている男子がいる。男子に当たるとは思わなかった。当たり障りのない白い羊は、おそらく彼の鞄の中で黒ずんでいくのだろう。
オレンジカルサイトをそっと胸に当ててみる。温かいものが伝わってくるような気がした。誰が選んだ物なのか分からないほうがいい、と私は思った。
アルコールに慣れていない女子が、やたらハイになって笑い続けている。周りの連中は、退き気味になりながらも、からかって遊んでいる。玄関先で煙草を吸っている人。見つめ合って世界を作っているふたり。相変わらずカラオケを歌っている人。
考えてみると、こういう集まりに参加したのは小学校以来かもしれない。ずいぶん長い間、涼子と加奈と三人きりで過ごしていたんだなぁ。今、たった一人なんて信じられない。
言い出したのは私だった。「死」を一番先に口にしたのは、他ならない私なのだった。それなのに私だけが飛べなかった。
私はそのことを、実はまだ誰にも言えずにいる。もし私が言い出さなければ、涼子も加奈もまだ生きていたかもしれない?
彼女たちが生きるはずだった数十年を奪い、私はのうのうと、こうして生きている。
人差し指を思い切り噛んだ。つらいことを思い出した時、そうすることが癖になっていた。身体の痛みで紛らわそうとする。卑怯な癖。
音楽が流れて、ぴくりとした。これは、ジョンの声だ。
どんなに遠くで聴こえても、はっとする声。
『Happy Xmas』
これを聴きながら三人で過ごしたクリスマス。狭い部屋で膝を抱えてたっけ。私たちは、クリスマスなんてね?とうそぶきながら、特別な日みたいに、『Happy Xmas』をエンドレスで流してた。
あの頃の私は明日のことなど、考えていたんだろうか。
照明が落ちて、キャンドルがあちこちで揺れた。佐木と川瀬がひとつのキャンドルを見つめている。ほのかな灯かりが二人の穏やかな表情を照らしていた。
帰ろう。
私は音をたてないように玄関を出た。
寒かった。酔いで熱くなった頬が、きゅっと冷めていく。
A very Merry Xmas
And a happy New Year
小さく口ずさんだ。誰もいない。
足元が少しふらつくのは、やはりまだ酔っているらしい。
後ろから足音が近づいてくる。私を追ってきてる?誰?
「香川さん」
沢村彰人だった。
私は驚いて立ち止まる。
「前から聞きたいと思ってたんだけど」
「うん」
沢村の切れ長の目が私を見る。心の中を窺うような視線に私は軽い警戒心を抱いた。
「何?」
「ジョンが死んだ日。自殺しようとしたって…。ほんと?」
私は思わず、首を横に振った。
「違うの?」
小さく頷く。
「なんだ。ただの噂か」
「残念そうだね?」
「別に。ただ、一緒に死のうと思う人ってどんな気持ちだったんだろうって」
私は、彼の顔をじっと見つめた。
「ヘンなこと聞いて悪かった」
じゃ、と手を上げて、さっさと帰っていく。
あっさりした人。
私もあっさり歩き始める。
A very Merry Xmas
And a happy New Year
次第に空に向かって歌い上げた。
ゆらゆら歩いていると、猫が一匹、通りを横切っていった。