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第二部 第五章 母のこと

 クラスマッチが終わると、学校は実質、冬休みに入る。私は殆ど家の中にこもって、何をするでもなく日々を送っていた。

 こんなことではいけないという気持ちが焦りと共にせりあがってくる。しかし、一体何処へ進んでいけばよいのか。重い鎖が身体に巻きついて離れてくれない。学校に行っている間は、それでも、なんとかバランスを保っていられたのだ。

 私はあの時から生きてはいけない人生を、ただ過ごしている。涼子や加奈の面影がよぎると、じっとしていられなくなる。私はそこから逃げる為に、思考と離れたところでぼんやり漂っているのだった。

 草木に水をやるのが好きだ。じょうろから放射状に降っていく水は、私の手の動きに合わせて柔らかく揺れる。葉っぱは次々に潤い、まるで私に話しかけるようにきらりと光った。

 私はしゃがみ込んで、夕日が暖めている一角に手の甲をあてる。ふと青い匂いが鼻をかすめて、子供の頃を思い出す。葉っぱを石で潰して緑の団子を作ったり。雑草をいくつも押し花にしてみたり。全部、祖母に教えてもらった遊びだった。

 玄関の門を開ける音がした。建てつけの悪い門は要領を得ないと大きな音をたてる。玄関をそっとうかがうと私の胸は大きく波立った。

 そこに佐木の姿があったからだ。

 引き戸が開いて、彼の顔が驚いた風に見えたのは、私が目の前に突っ立っていたからだろう。

「おう」

「こんにちは」

 私たちは挨拶をかわして、一瞬黙る。

「クリスマスパーティやるんやけど。来る?」

 佐木は唐突にそういって、坊主頭を掌で撫でた。

 私は、「クリスマスパーティ?」と小声で繰り返し、なんだか佐木と不似合いな言葉に思わず笑った。

「あ。クラスでやるやつ」

 急いで付け足して、私に紙を差し出した。手作りのクリスマスパーティのしおりだった。

「これ。佐木君が配ってるの?」

 佐木は封筒を脇に抱えている。

「うん。部活やってるやつには学校で配ったんやけど」

 しおりは、女子が作ったのだろう。かわいいイラストも添えられている。数人の幹事の中に「川瀬奈緒」の名前を見つけて、あぁと納得した。

「家、遠い人もいるでしょう?」

「いや。手分けして配ってるから。香川さんち、オレのとこと近いんや」

 彼の家が近いことは知っていた。何度か前を通り過ぎたことがある。一階で果物屋を営み、二階に住まいを構えている。住宅街にぽつんとある店先には籠盛りにされた蜜柑が並んでいる。陽射しの暖かい午後には、おそらく彼の祖母であろう、老婆が椅子に腰掛けて新聞を読んでいた。看板を兼ねたビニール製の屋根は長年の土ぼこりですっかり薄汚れている。印刷された「佐木商店」という白抜きの文字を見るたびに寂しい気持ちになるのは、ある貧しさを思わせるからかもしれない。

 しかし、二階のベランダに佐木の野球のユニフォームを見つけると、不意に胸が熱くなる。私はそんな気持ちを封じ込むように急ぎ足で通り過ぎるのだった。

「私、行けないと、思う」

 私は謝罪を込めて、ゆっくり答えた。

「うん」

 佐木は、あっさり頷いて、

「気ぃ向いたら、来て。適当に騒いで、飲み食いするだけやから」

と笑った。

「ごめんね。いつも誘ってもらうのに」

 私が目を落とすと、

「そんなん、別に気にせんでええよ」

 と、また頭を掌で撫でた。

「これから、まだたくさん配るの?」

 私の問いに、佐木は腕時計を見た。

「もう遅いしなぁ。今日はやめとこかな」

「じゃあ、少しあがっていかない?」

 重ねるように誘った自分の言葉に、私自身驚いていた。特に話すこともないじゃない。迷惑だよ、きっと。

 自分から誘っておいて戸惑っている私をよそに、彼はけろっとした調子で、ええの?と靴を脱ぎ始めた。

 大柄な佐木が歩くと、廊下はぎしぎしと音をたてた。

「うちよりだいぶ広いなぁ」

 感心したようにあちこち見回して、台所に祖母の背中が見えると、

「お邪魔します」

と頭を下げた。

 祖母は、きょとんとしたまま私と佐木を見比べた。

「おなじクラスの人」

 私が早口で紹介すると、あわてて、まぁ、どうぞ、どうぞとこたつの方に手を差し出した。

 こたつの前にきちんと正座した彼の姿は、少しばかり滑稽に見えた。

「そんなかしこまらないで。こたつに足入れてくれていいから」

 笑いながら私が言うと、佐木は、ほっとしたようにテーブルの上の蜜柑をひとつ手にとった。

「有田の蜜柑も、今年はあんまり出来がようないですね」

 と、果物屋の息子らしいことを祖母に話しかけた。

「佐木君ちは果物屋さんだものね」

 私の言葉に、祖母がさっと強張った表情を佐木に向けた。

「あの佐木てゆうたら。佐木先生のとこの」

 祖母が彼の顔をまじまじと見つめた。

「僕の。叔父にあたります」

 佐木も祖母もそれきり黙りこんだ。

「お元気でいらっしゃるの?」

 近所といえるほどでもないが、狭い街のことだ。旧い付き合いがあるのかもしれない。

 佐木はいつになく神妙な面持ちで、

「僕もずいぶん会っていませんから。だけどなんとかやってると思います」

 と答えて、俯いた。

 祖母は辛そうに顔を歪めて立ち上がり炊事場に向かった。背中は丸く、震えているように見えた。

「どうしたの?」

 硬い空気が流れて、私は佐木の顔を覗き込んだ。

 彼は私の方に「ごめん」と頭を下げた。

「ね。どうして?」

 玄関先で、靴紐を結んでいる佐木に問いかけた。

「香川さん。知らされてなかったんや」

 彼らしくない伏目がちの視線だった。

「何?なんのこと?」

「俺…。無神経やったな」 

 と聞こえないくらいの声でつぶやいた。

 ふとある予感が脳裏をかすめた。母の死と係わっている?

 彼の遠ざかる足音が、私の気持ちを冷たくしていった。

「佐木君のこと、知ってるの?」

 祖母は背中を向けたまま、何も答えない。

「答えてよ。お母さんが死んだことと、なんか関係があるの?」

 私の口調は次第にきつくなっていく。

 理由なんかどうでもよかった。佐木と向き合った時の穏やかな気持ち。柔らかな気持ちが、もうなくなってしまう。やっと見つけた小さな光を遮られた悲しみは抑えようがなかった。


 母は、もう死んでしまっているので本当のことなどきっとわからない。

 私はずっとそう考えてきたので祖母から話を聞かされても、なにか絵空事のような気がしてならない。

 母は幼い頃に両親を亡くし、親戚に育てられた。父と見合いをしたのは高校を卒業して地元の建築会社に勤めていた頃だ。その時、母は二十歳。父はもう三十半ばを越えていたから、親子ほども年の違う二人だった。

「今になって考えると十以上も離れた連れ合いと一緒になって、ウチら年寄りと暮らしてたら、さぞ気の浮かん暮らしやったやろ。路子さんは親がいてへんかったさかい、帰る実家もあれへんかったし」

 祖母の口調は懐かしむようでもあった。が、話の内容は私をただ黙らせた。

 結婚してまもなく私を身ごもり、妊娠中は母も穏やかに暮らしていた。しかし産後、上手くいかない育児に次第にふさぎこむようになり、外出も出来ない状態になっていった。枕元におむつを畳んで山のように積み上げたり、哺乳瓶を四六時中洗っていたり、母は完全に精神のバランスを崩していた。そんな状態で正常な子育てなど出来る筈もない。

「あの時、無理でもあんたを路子さんに任しといたらよかったんや」

 私と触れ合えないことで、母はますます自信を失くしていったのだろう。困り果てた祖母は、母を病院に連れて行くことになる。その主治医が、佐木雄三。朋樹の叔父だった。

 母の不安定な心は、雪崩れ込むように主治医の佐木の元に流れていった。夢遊病者のように繰り返し、佐木の自宅へまで訪ねていったという。

 佐木雄三はまだ若く、医師として未熟だった。母の扱いに苦しみ、他の病院に紹介しようとした、その夜。

 母は自らの命を絶った。

 母の自殺の原因は、父以外に愛する男性がいたことだと、それは幼い頃、大人たちから漏れ聞こえる話で知っていた。眉をひそめて話す親戚たちを眺めながら、自分のことを悪く言われている気がしてじっと耐えていたのを憶えている。

「お母さんは、どういう死に方をしたの?薬?それとも飛び降り?」

 私はわざと乱暴にそういう聞き方をした。母の死へ向かう気持ちが、あまりに切なかったからだ。哀しかったからだ。

 祖母は皺の深い目尻から涙を流した。血管の浮き出た手はきつく組み合わされて、結い上げた白髪が小刻みに震えた。

 私のしたことが、どれだけこの人を苦しめただろう。

 祖父が他界してから、ひとりで暮らしてきた。時折、電話で話すこともあったが、私たちの暮らしに遠慮して殆ど連絡をよこすことはなかった。母が自殺した時、自分を責めたこともあっただろう。時と共にようやく傷も癒え、静かな暮らしだったのに。

 年老いた祖母の痛みが私の胸を締めつける。

「ごめん」

 私は祖母の肩に手を置いて何度か撫でた。


 ようやく見つけた小さな光は幻だったのだ。佐木が私に見せた親しみは何なのだろう。大嫌いな同情?

 他愛ない心のふれあいだと信じていた。私にも普通の高校生と同じように淡い想いを抱けるのだと。

 笑っちゃうよ。笑っちゃうよね?

 私は涼子と加奈に問いかけた。ふたりはいつだって笑ってくれない。無表情のまま私をぼんやり見つめているだけだ。



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