第二部 第四章 バスケットボール
体育館は、女子の応援する声とバスケットボールの床を叩く音が響いている。
私のクラスの男子の試合だった。
女子は早くに敗退していたので、制服に着替えて男子の応援をしている。
大声を上げたり拍手したりしている彼女たちを見ながら、私は相変わらず少し離れた場所で膝を抱えている。
右へ左へと流れていくボールの中心には、佐木朋樹の姿があった。軽やかなパス回し、力強いドリブル。ディフェンスをかわす身体の柔らかさ。ランニングシュートがきまって、チームメイトとハイタッチをする。
試合は一進一退の緊迫したものだった。試合終了まであとわずか。あと一回、シュートが決まれば。
佐木はドリブルをしながら、敵の動きを牽制している。一瞬の隙をつく。そのすばやさに私は固唾を飲んだ。
彼の身体が柔らかく宙に浮き、ボールがゴールネットに吸い込まれた。
ゲームセット。歓声があがった。
佐木はそれに応えるようにコート内を駆け回り、派手にガッツポーズをしてみせたりした。チームメイトに頭や背中を殴られ、ふざけ合う。その無邪気な姿に、私からいろんなことが消えていく。もう長いこと忘れていた温かい感情が私の心を浮き立たせた。
彼は私の視線に気付き、満面の笑みで親指を立てた。私は小さく拍手を送り、同じように親指を立てて見せた。
瞬間の心の交流が、こんなにも嬉しいものだったなんて。
体育館の出口で、クラスの川瀬奈緒が佐木にタオルを渡している。佐木は手渡されたタオルで汗を拭き、シュートの真似をしておどけている。彼らはもう長く付き合っているらしい。ふたりだけにわかる無言の会話が、それを物語っていた。佐木は無造作にタオルを彼女に返して男子たちの集団に紛れていく。 タオルを丁寧に畳んで、スキップしながら友人の中に戻っていく川瀬奈緒の姿に胸が小さく痛んだ。
おそらく私の一方的な想いに終わるだろう。そんな諦めに似た気持ちを超えて、私を覆い尽くしてしまいそうな予感。
私は、確実に佐木朋樹に惹かれて行く。
誰もいない教室は、学期末特有の開放的な雰囲気が漂っている。歪んだ机の列。開け放たれた窓。机の上に脱ぎ捨てられた制服。黒板の隅の落書き。
日に日に暮れるのが早くなっていく。窓から差し込む陽射しは、もう橙色がかって晩秋の気配を思わせる。
私は、机の中に入れっぱなしだった物を鞄に詰める。家に殆ど持って帰ることもなかったノート、教科書。鞄に入りきらないかもしれない。
賑やかな話し声と足音が近づき、佐木たちが教室に入ってきた。彼は私に気付くと、
「もう、帰んの?」
と大きな声で話しかけた。
私が頷くと、
「これからクラスで打ち上げやろって話があるんやけど、香川さんも来えへん?」
他の三人は、自分の荷物を片しながら黙っている。
「おい。お前らも誘えや」
佐木が他の男子にも問いかけると、彼らのひとりが、
「女子も殆ど来るから、おいでよ」
と、遠慮がちに私の方を見た。
私は嬉しかった。嬉しかったのだけれど、とても合流する自信がなかった。
「ありがとう。でも」
私には、どうしても破れない殻があった。
「やっぱり帰るね」
佐木は、「そっかぁ」と明るい調子で返してくれる。
彼のこのおおらかさは、どこから来るのだろう。今まで私の周りにはなかったものだ。
私が、教科書などを無理やり鞄に詰め込んでいると、四人の男子は机の上に座って私の方を見ている。
「あの、何?」
私が訊ねると、
「別に俺らはええんやけどね。服、着替えてもええかなぁ」
あ。私がいるから着替えられないんだ。私は熱くなる頬を押さえて、ごめん、ごめんと繰り返した。
詰められない分を脇に抱えて出て行こうとすると、
「香川さん、もうちょっと家で勉強せなあかんでぇ」
おどけた調子で、佐木が声をかけた。私は振り向いて、うん、と頷く。
じゃあ、と手をあげると、みんな手をあげてくれる。
教室を出ると、私の心は舞い上がるように軽くなっていた。
もしかしたら、何かが変わっていくかもしれない。抜け出せるかもしれない。
ふと心の表面に現れた思いは、しかし、一瞬のことだ。
自転車にまたがると、何を浮き足立っているのか、と諭すような冷たい風が容赦なく私に吹き付けた。