第二部 第三章 父の涙
涼子と加奈がいなくなってからの数ヶ月間。どんな気持ちで過ごしていたのか。実のところ、あんまりよく憶えていない。ぼんやりした中に私の姿が見えて、遠くから眺めている感じ。そういえばあの時はこんなことを考えていたっけ。というように肉体と精神を繋ぎ合わせてようやく記憶になる。
警察や教師たちの質問は、答えられないことばかりで、私は次第に何も話さなくなっていた。
「ビートルズを好きだった子たちは、いっぱいいるのよ。でも、みんな死んだりしないでしょう?」
始めは私の心を推し量るように接していた人も、苛立ちを隠せなくなっていく。
「あなたたちは、ジョン・レノンが死んだことをきっかけに、いろんな苦しいことから逃げ出したくなったんじゃないかと思うんだけれど。違う?」
私の顔を覗き込んだ細面の女性は、児童相談所の人だった。
そうかもしれないな、とも思う。だけど、あの時の私たちは、逃げたいなんて思ってなかった。行く場所はそこしかないように、引き寄せられるように死へ向かったのだった。
(能動的に死ぬ)と言った涼子の言葉が耳の奥から響いて、背中がひやりとする。
しかし私は、
「そうかもしれません」
と表情を崩さないまま、それだけ答えた。
「私に話しても、無駄だと思ってるな?」
彼女は、私の目をじっと見つめた。
「話したくなったら、いつでも来て」
彼女とはそれきり、会っていない。
周りの人たちは私に色々訊ねるけれど、答えが欲しいのは私の方だった。
なぜ私はふたりと一緒に飛べなかったのか。私が知りたいのはそのことだけだった。
父と母と私と真由。
四人の関係は修復不可能のように、ばらばらになっていった。母は実家に帰り、真由は殆ど家に帰ってこなくなった。帰ってきても自分の部屋に閉じこもったきり顔を合わすことさえない。
必然的に私が食事の仕度をして、父とふたりで食べる生活となった。
幼い頃、小さなアパートでこんなふうに暮らした日々があった。どこをどう間違えたんだろう、と思う。父が再婚したことで大きく流れは変わったには違いない。だけど断じてそれが原因ではない。少なくとも母は出来る限りのことをしてくれたのだと思う。
私の心が少しずつ歪んでいったのは、実母への決着がついていなかったからかもしれない。自殺したという実母と、それを話さない父。隠したまま新しい家庭を築くことへの不信感。そんなものがいつのまにか私をこんな方向へ流してしまったのか。
いくつもの理由は複雑に入り混じって、私にもわからない。
「学校には行っていないのか」
父の問いに私が頷くと、そうか、と答える。
父は、私の行動について深く踏み込んでくることをしなかった。死を選ぼうとしたことについても何も訊ねない。
私は一日部屋にいて、ぼんやりしたり、マンガをよんだり。涼子と加奈がいなくなったことから目をそむけているしかない。寂しさを感じる余裕もなかった。彼女たちを思い出すと、あの日のことが蘇ってパニックになる。見下ろしたコンクリートの灰色。汗ばんだ靴下。加奈の叫び声と涼子の薄い微笑み。私は大声をあげて、いろんなものをかき消そうとする。昼、夜を問わずそんなことが繰り返された。夜中、発作が起きると父は私の部屋のドアを小さく叩く。決して開けることはなかったけれど、ドアの前に長く座っていることは分かっていた。翌朝、酒を飲んだコップの跡が廊下にいくつも残っていたからだ。
「和歌山の家に少し戻るか」
事件から半年経て、父の勧めに私は素直に頷いた。このままここに暮らしていても抜け出す道は見つからない。私はすこし休みたかった。考えることも、自分を責め続けることも。
天王寺から和歌山まで阪和線のボックス席に座る。通勤帰りの客で込み合っていた車内も和歌山に近づくにつれ乗客は減っていく。窓の外のネオンもまばらになり、田舎町の風景に変わっていく。車輪の音が聞こえるほど静かになった車内を蛍光灯が寂しく照らしていた。
向かいに座った父は目を閉じていたが、眠っていない。時折、外を眺めてまた目を閉じる。私は閑散とした車内を見回して席を立った。誰もいない隣のボックス席の窓際に座る。外の風景と自分の顔が重なり、今までのいろんな出来事がまるで嘘のように落ち着いていた。
ふと向こうの窓に父の姿が映った。
父は目頭に指を押しあてて泣いていた。背中を丸め、肩を小刻みに震わせて、感情を押し殺すように泣いている。
父の涙をみるのは初めてのことだった。
紀ノ川の川面に、ちろちろと灯かりが揺れて、和歌山駅はもうすぐそこだった。