第二部 第一章 片方の靴下
雨粒が、くもり硝子をつたって流れていく。
そのむこうに桜の樹があった。薄桃色の花をほころばせるのは、まだずいぶん先だ。枝先を針のように細くして、ただ寒さに耐えている。その実、あの硬い幹の内には生々しい匂いがじっとりと潜んでいるのだ。私は空に浮かぶように咲く無数の花々を思い浮かべた。
テスト用紙は殆ど埋まらない。私はその上にそっと頬を乗せた。ひんやりとしてほのかにインクの匂いがする。
雨は陰鬱な姿だけを浮き彫りにしてしまう。ひび割れた校舎の壁、校庭の隅のひしゃげた牛乳パック。そして制服から漂うくぐもった匂い。それらが仮面を剥ぎ捨てたように浮きでてきて、ここには華やぐものなど何一つないような気がしてくる。
雨樋から流れ落ちるぴしゃんぴしゃんという音を聞きながら、そのままぼんやりと窓の外を見ている。身体ごとすっぽり雨に包まれてしまうようだ。
一九八一年も、まもなく暮れようとしている。この春に、私は高校三年生になる。
終業のチャイムが響いて途端に騒がしくなった。二学期末試験も今日で終わる。
私はテスト用紙を前列に手渡すと、再び突っ伏して机に耳を付けた。様々な音が振動と共に私の身体に伝わってくる。テスト勉強などいくらもしなかった私だが、終わったという解放感は確かに感じる。
私は、ゆっくり帰り支度を始めた。
ふと顔をあげると佐木朋樹と視線が合った。鞄を肩ごしに持って、机に腰掛けている。
「朋樹、先、行くぞ」
同じ野球部員に声をかけられて、おう、と手を上げた。
机から軽く飛び降りると、大柄な背中が揺れるように教室を出ていく。
私は急いで彼の後を追った。
「佐木君」
と呼びかけようとして、口をつぐんだ。廊下には、女生徒のグループがいくつも集まっていたからだった。
私がためらっている間に、佐木は大股でずんずん歩いて行ってしまった。
私はため息をついて教室に戻った。鞄から紙袋を取り出して佐木の机の中にそっとしまった。片方だけの靴下が入っている。
昨日の出来事は、私の心の中をほんの少し騒がせただけで、あっけなく冷えきってしまう。この靴下も同じことだ。佐木の手に渡る時には、私のぬくもりなどひとかけらも残らない。
それでいい、と私は思った。
体育館の前には野球部員が集まっていた。ひときわ大きい佐木の背中が、すんなりと私の心に忍び込む。
私は傘を深めにさして、彼らの前を足早に通り過ぎた。
昨日、日直だった私は、誰もいない教室で学級日誌を書いていた。
日付の所に十二月九日と記す。私は、それを指で何度もなぞった。この日付は、決して忘れることが出来ないだろう。
一年前のことを思い出して、私は思わず目を閉じた。
涼子と加奈が、私の目の前から消えた瞬間が瞼の裏に蘇る。突然、わっと叫びだしそうになって両手を頬にあてがった。感情を伴わない涙が次々に溢れた。悲しいとか苦しいとか、感情に届く前に涙や震えが私に襲ってくるのだ。私は制服の袖で涙を繰り返しぬぐった。
その時、廊下を走る足音が聞こえた。勢いよく教室の扉が開けられて、ユニフォーム姿の佐木朋樹が息を切らして入ってきた。
私に気がつくと驚いたように立ち止まった。
「まだ、帰れへんの」
部活から、そのまま持ってきたような大声が教室に響きわたる。
うん、と私は小さな声で答えた。
歩く度にがたがたとスパイクの音がする。机の中からスーパーのビニール袋を取り出して、あった、あった、と満足げに呟いた。
中には靴下が入っていた。何度か首を傾げて匂いをかいでいる。
「ちょっと臭いなあ」
私に笑いかけようとして、急いで引っ込めた。
「あの、どうしたん?」
片手に靴下を持ったまま私の泣きはらした顔を見つめた。
「いろいろ言う奴いてるけど、気にせんほうがええで」
遠慮がちな佐木の声が私の心にしみ入ってきて、また涙がこみ上げた。
「ありがとう。でも違うの。なんか言われた訳じゃない」
「それやったら、ええけど」
それでも佐木は、去りにくそうに靴下で机を軽く叩いた。
「大丈夫だから、部活行って」
「うん。コーチ、うるさいよって」
「そうだよ、早く行かないと叱られちゃうよ」
佐木は靴下をお尻のポケットに乱暴に突っ込んだ。
「明日でテスト、終わりやな」
「うん」
「俺らは部活、しんどなるけど」
「でも、試験よりはいいよね」
「おう」
佐木はひと言ひと言話す度に、後ろ向きに扉に近付いていく。
「ほんな、行くわ」
片手を上げて背中を向けた。背番号のないユニフォームは、佐木をひとまわり大きく見せた。
次第に小さくなっていくスパイクの音を聞きながら、私は少しだけ穏やかな気持ちになっていた。
日誌をようやく書き上げて教室をを出ようとすると、扉の間に靴下が挟まっている。佐木が落としていったに違いない。気付かずに行ってしまった佐木のおおらかさを微笑ましく思った。
私は靴下を拾い上げた。踵とつま先が黒ずんでいて、使い古したものだとわかる。
私はポケットからハンカチを取り出して、靴下をそれにくるんだ。
鍵を所定の場所に置き、日誌を教師の所に持っていった。
「ごくろうさん。戸締りしてくれた?」
「はい」
担任は、五十すぎの数学の教師だ。白髪まじりの頭髪はすっかり薄くなり、眼鏡の奥の瞳は優しいのかずるいのか判別がつかない。
「試験、できたか」
「いいえ、あまり」
「そうか。まあ、あせることないわな」
あたりさわりのない言い方をして、目尻を下げて笑った。
「じゃあ、帰ります」
「はい、おつかれさん」
机の上には、テスト用紙が山積みになっている。今日の数学の問題を思い出し、いつまでもこうしてはいられないと、心の何処かで思った。
教員室を出て階段を降りると、踊り場の窓からグランドが見える。灰色の雲が分厚く重なり合い、今にも雨が降りそうだった。
私は窓を開けて窓枠に頬杖をついた。冷たい空気が顔を撫でて、制服の胸元に流れ込んでくる。
期末試験中の為、練習しているのは野球部だけだった。いつもならサッカー部と二分しているグランド全体に、広々と部員が散らばっている。目を閉じると、ボールを打つ金属音と間延びした掛け声が私の身体の中で響き合った。
グランドの隅で、ピッチャーの球を受けている佐木の姿を見つけた。一球一球受ける度に、ナイスボールとか、ちょっと高いぞ、とか言葉をかけている。しなやかな腕の振りとか、ごつい腰まわりが、私の中に生きているという感動を呼び起こす。佐木の立ったり座ったりする姿だけが視界にくっきりと浮かび上がった。
私は靴下を野球部の部室に届けることも出来ず、そのまま持って帰った。風呂場で靴下を洗っていると、佐木の姿が脳裏に浮かぶ。がんじがらめになった私の心が少しずつほどけていくような気がした。
私は力をこめて何度も洗った。汚れが落ちていくように私の心の闇も消えてくれればいいのに、と思った。でも次の瞬間には、昨年の出来事がいたずらのように蘇り、私は膝を強く抱えて目を閉じる。
私の気持ちは、どこをどんなふうに撫でてみても、結局あの時に戻ってしまう。