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第十章 ジョンの死

 私はその朝、どうしても学校に行く気になれなくて、近くの喫茶店で時間をつぶしていた。

 本屋も、レコード店も、デパートも、まだ開いていなくて、そんな時、私はいつもこの店でぼんやりしている。初老の店主は制服姿の私に何も聞かない。目を細めて見るだけだ。時折、天気などの話をして愉快そうに笑う。私は何が可笑しいのかわからなくて、困ったようにつられて笑う。

 彼は、私の置かれている状況。たとえば、ぎくしゃくしている家庭のこととか、友達もいない学校生活だとか、そんなことをきっと察しているのだろうな、と思う。

 加奈や涼子といるときは、ある中心の一点にむかって追い込まれていく感じ。がんじがらめになって、それでもそこに安心感を見出しているのかもしれない。

 だけど、ここにいる私は、ぼんやり浮遊している。店主は何も要求しないし押し付けもしない。多分、彼も孤独な人なんだと思う。店には彼以外の店員はいない。家族も、友達らしき人も見たことがない。だけど彼は私の何倍も生きていて。そのことが私の緊張を解いてくれる。

 昨日の朝、教室に入ると後ろの方に人が集まっていた。聞くと、Kが登校してきているという。彼を囲んで教室が騒がしくなっていたのだった。

「鼻が曲がっちゃったなんてさ。見てもよくわかんねぇじゃん。あいつ、大袈裟なんだよな」

 彼をあまりよく思わない数人の男子生徒が、こそこそと話していた。Kは、暴走族にやられた傷を武勇伝のように自慢しているようだった。

 私は、あの日の加奈の晴れ晴れとした顔を思い浮かべて、やりきれない気持ちになっていた。どうしても晴れない靄が、私の周りを覆っている。何が正しくて、何が間違っているのか。釈然としない思いが心の底から吹き上げてくる。

 教師が入ってきても、教室の中はざわざわしていた。Kのとりまきたちは、ようやく戻ってきたよりどころに空騒ぎしているようでもあった。まわりの女生徒も、落ち着かない様子でKに話しかけては、「うそぉ」などと高い声をあげた。

 私は頭の中に渦巻くいろんな感情を消化しきれず、吐き気を覚えた。授業中にも拘らずそっと教室を出た。トイレに駆け込んで嘔吐する。あるのは、憎しみよりも哀しさだった。あの教室の中では私の感覚は通用しない。

 私はそのまま早退し、加奈にも涼子にも会うことができなかった。私たちがひどく惨めな気がしたからだ。

 今朝もいつもどおり家を出たのだが、どうしてもあの教室に入りたくはなかった。かといって、ここにいつまでもいる訳にいかない。そんなことは分かっているのに、心の中では焦っているのに、私はただ、ぼんやりしている。

 店主はカウンターの中でテレビを眺めている。眺めているという表現がぴったりなほど、心が入っていなかった。彼は日々そうやって時を過ごしているのだ。

 私は不意に彼に話しかけたくなった。

「ね、おじさん。1999年に世界が滅びるって信じる?」

 店の隅で新聞を読んでいた客が、つと顔を上げた。店主はテレビから目を離さずに、さぁなぁ、と考え、

「俺は無宗教だからなぁ。先のことなんざ、考えないねぇ」

 と、答えた。

「無宗教とこのことは関係ないじゃない」

 私が言うと、さも不思議そうに私を見た。

「そうかい?関係ないかい?」

 そして、何が可笑しいのか、いつものように笑う。

「どっちにしろ、そのころオレは墓んなかだけどね」

「お墓に入るってことは、無宗教じゃないんじゃない」

 私がつっかかると、参ったなぁ。あんた、弁達者だねぇ。とまた笑った。

 その時だった。

 「ビートルズのジョン・レノン」という声に、反射的にテレビに目を向けた。

 ジョンの顔が大写しになっている。

 銃弾を受けて死んだ。ジョンが?

 私が突然立ち上がった拍子に、椅子が大きな音をたてて倒れた。足が震えた。立っていられなくて、その場にしゃがみこむ。

 店主は、どうしたの、とカウンターを出て私の方に歩み寄った。私はテレビを指差して何か話そうとしたが、唇も震えて上手く言葉にならない。

 彼も、しばらくテレビを見ながら黙って立っていた。

 ニューヨークの様子を写している画像が、オレンジがかっている。頭の中は真っ白になって訳がわからないのに、ニューヨークは寒そうだなぁ。という間延びした考えが端っこに浮かび上がる。必死で音楽を引っ張り込もうとしても、なにも思い浮かばない。

「行かなくちゃ。わたし」

 私は鞄も持たずに店を飛び出した。訳もわからず、走った。私たち三人がばらばらになってしまうような気がした。

「駄目になっちゃうよ。駄目になっちゃうよ」

 私は、そんな言葉を口にしながら地面を蹴った。

 加奈のマンションの前に立って見上げる。どうしたらいい?

 非常階段を駆け上がり、踊り場で足を止めた。あの部屋がなくなってたらどうしよう。ありえないことを考えて、テレビに映ったジョンの顔が蘇る。

 私は、ゆっくり階段を上った。足がひどく重かった。

 加奈の部屋は、何も変わらずにある。「間宮」という手書きの文字が滲んでいるのもそのままだ。私は鉄のドアをこぶしで叩いた。次第に激しく叩く。

 ドアが開いて、加奈が顔を出した。「Yellow submarin」がのんびり流れてくる。

「もう。そんなガンガン叩かないでよぉ」

 知らない。加奈はまだ知らないんだ。私は、涼子は?と力なくたずねた。

「いるけど。どうしたの?顔が青いよ」

 ベッドに寝転んで足を立てている涼子が見えた。身体の力が抜けて、靴も脱がないまま彼女たちに背中を向けて座った。

「ジョンが死んだよ」

 つぶやいた。

「え?なに?」

 加奈が私の肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。彼女の目を見つめる。

「ジョンが死んだ」

「なに言ってるの?」

「誰かに撃たれたって。テレビで。見た」

 加奈は、嘘っ、と短く叫んで、テレビをつけた。チャンネルを次々回しても、関係ない番組が流れるだけだ。加奈はぺたんと座り込み、首を何度も振った。

「信じられない。沙羅は夢でもみたんだよ。そんな訳ないもの」

「夢なんかじゃない」

 私はそう言って、冷たくなった手を頬に押し当てた。もしかしたら、この瞬間も夢を見ているのかもしれない。そうだったらどんなにかいいだろう。

「何?どしたの?」

 涼子が長い髪の毛を結びながら、ベッドから降りてくる。

「ジョンが死んだって、沙羅が言うの」

 加奈は声を震わせて、両手で顔を覆った。

「うそ」

 涼子は私を見る。私が小さく頷いても、信じられないというように瞬きを繰り返す。

「ダコタハウスの前で、誰かに撃たれたって」

 涼子は、「そんなこと…」と、その場に崩れ落ちた。

 私たちは言葉を失くし、それぞれ、そのままの姿で動けない。

 テレビの遠い音と、レコードのジョンの歌声が重なって響いていた。



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