第一章 池の中
第一章 池の中
吹き上げる風を制服のスカートにはらませながら非常階段を駆け上がる。合間から下の景色が見え隠れして、ふと足を引きずり込まれるような一瞬がある。思わず鉄の手すりに手を置くと、ひやりと冷たい。私はそんな危うさが好きで、加奈の部屋に行くときはいつも非常階段を使う。
制服の胸の辺りから冷たさが忍び込んでくる。襟ぐりが大きく開いたセーラー服は、角度によってその隙間から胸の谷間がのぞく。自分の身体が外気の冷たさとは別にじっとりと潤んでいるような気がして、私は掌で胸元を押さえた。
一九八〇年、初冬のことだ。
学生鞄を膝にはさんで、顔にかかる長い髪を無造作にゴムで縛った。
マンションの分厚いドアを掌でばんばんと叩く。ビートルズの曲がドアの外にまで漏れ聞こえて、私はそれに合わせて軽く口ずさんだ。
インターホンごしの声が小さく聞こえる。
「沙羅?」
「どしたの?早く開けてよ」
「近くに誰もいない?」
「いないよ、誰も」
私は、辺りを見回して首を傾げた。
ドアの鍵が外れる音がして、加奈が顔を出した。ドアを開けた瞬間、私はあまりの音量の大きさに耳を塞いだ。
「ちょっと、音、大きいんじゃない。近所から苦情くるよ」
親指を下に向けて音量を下げるように言った。
「もう来たよ」
加奈が下を指さした。
「下のおばさん?」
「うん。何度も」
「だろうね、だから、ドア開けられなかったんだ」
私はステレオに足早に駆け寄って音量を下げた。
ベッドに寝そべっていた涼子がむくりと顔を上げる。
「なんで、下げるのお」
「当たり前でしょ、あんたんちじゃないのよ」
「そうだよ、あたしの立場も考えてよね」
私の言葉に助けられたように、加奈が続ける。
「ジョンの声が聞こえるなんて、ありがたいと思ってもらいたい」
涼子はそう言いながらも、身体をベッドに沈めた。
加奈が、私にホットミルクを手渡して時計を見る。
「今日、いつもより早いんじゃない」
「うん。六限目、サボリ」
「なんだっけ」
「数学」
「イエイエックス プラス イエイワイ イコール いやんなっちゃうイエイ君か」
涼子は数学の教師の口真似をして、きゃははと笑った。その教師はなぜか、エックスやワイの前にイエイという言葉をつけるので、イエイ君、と呼ばれている。イエイ君は私たち三人のクラス担任でもある。
「イエイ君も涼子たちのこと心配してるよ。あたし、何度も職員室に呼ばれたんだから」
私はミルクで両手を温めながら、畳の上に座りこんだ。
「心配なんて、余計なお世話よ」
テープの曲がちょうど途絶えて、涼子の乾いた声が部屋に響いた。
加奈は膝を抱えてその上に顎を乗せている。
「あたしたち、このままでいいのかなあ」
私は加奈の問いには答えずに、ベッドに寝そべっている涼子の方に目を向ける。
「このままでいいのかなあって、あんたはどうしたいの」
涼子はそう言いながら、ゆっくりと身体を起こした。
「どうしたいって訳じゃないけど、なんとなく」
「なんとなく、何なの」
「このままずっと、学校行かなくていいのかなって」
加奈の声が消え入りそうに小さくなる。
「じゃあ、行けばいいじゃない」
涼子は、時々こういう突き放した言い方をする。
「でも、行きたくないんだもん」
私は加奈の方に、軽くぬいぐるみを投げた。
「学校なんて行ったっておもしろくもなんともないよ」
私の言葉に二人とも何も答えない。
「加奈の言ってることはさ、池の中の鯉が、この池が枯れちゃったらどうしよう、って心配してるのと同じことよ」
そう言って、涼子は勢いよく身体をベッドに沈めた。
「涼子んちはお金持ちだからいいけど」
加奈の少し非難めいた口調は、激しい音楽にたちまちかき消されてしまう。
加奈の父親は早くに他界し、母親が看護婦をしながら加奈と二つ年上の兄を育ててきた。
「お兄ちゃん、最近、帰ってきた?」
加奈にたずねると、顎を膝の上に乗せたまま首を振った。
「どこで暮らしてんの」
「わかんない。仲間んとこじゃない」
「お金とか、どうしてんだろ」
「時々、お母さんが夜勤の時、盗みにくる」
「ふうん」
私は、なんと返答していいのかわからぬまま黙り込んだ。
幼い頃、よく遊んでもらった優しいお兄ちゃんだった。それが次第に険しい目つきになり近寄り難くなっていったのは、私たちが中学に入った頃のことだ。
「そんな奴、もう兄貴なんかじゃないよ」
ベッドに横たわったまま、涼子がつぶやいた。
「来たって、部屋の中に入れなきゃいいじゃん」
「そんなことないよ。やっぱりお兄ちゃんだもん」
「お金、盗みにくるような奴のどこがお兄ちゃん?」
「だってね」
加奈は、そこで一呼吸おき、
「いろいろ教えてくれるんだ」
そう言って、膝の間に顔を埋めた。
「シンナーの吸い方とか?」
涼子の皮肉な言葉に、加奈は唇を尖らして黙り込んだ。
「言い過ぎだよ」
私の言葉に少し間をあけて、ばっかみたい、と涼子は言った。