あの日の顛末、これからのわたし
初めて部屋に入った時、そこが思ったよりも人間くさかったことに安堵した。
窓際に置かれた肘置き付きのソファー。
低めのAVローボードは床のカラーに合わせて渋めの色で統一されていたけれど、雑誌が数冊乱雑に置かれている。
リビングテーブルにも数冊、全て本は開きそのままになっていた。
わたしは敢えてそこを見ないようにして(色々と男性には突っ込むべき場所ではない部分もあると配慮)三色、いや四・五色の糸で織られているらしい非常に芝生めいたラグの上にひとまず自分の場所を見つけ、足を止める。
もしかして元々はあまり掃除が好きではないのか、不必要なものを完全に排除したかのようなシンプル過ぎる部屋なのに、全く似合わないやたらと暢気な色合いのラグだ。
今にも牛や羊がやって来そうな長閑な若草色のラグに、わたしは『芝生ラグ』という呼称をつけた。
彼がどんな顔でこんな爽やかでポップなカラーを選択したのか、正直見てみたい。だが、きっと真顔だから面白くも糞もないだろう。
ラグと同様、壁に掛かっている抽象画もまた彼の部屋の雰囲気に違和感を醸し出している。
それは人と言われれば人に、女だと言われれば女に、泣いているとも蹲っているとも何かを守ろうとしている生き物にも見える。見た人の感覚でそれは表現する言葉を変えるのだ。
わたしには女性に見えた。送り主は女性だ。何となく女の勘で思う。わたしが知らない菱谷の交友関係(主に女性)があるのだ。
わたしの知っている部分は仕事場だけ。自分の手に乗っていると(勝手に)思っていた上司の見えなかった部分が見えて、少し面白くないと思ってしまう。酒のせいかも知れない。
「これで満足だろう。帰るぞ」
リビングの真ん中で考え込むわたしの背中に、彼の声が突き刺さった。
なんて野暮天な男だ。わたしは先程彼に渡されたミネラルウォーターの中身を一気に煽り、口内に溢れ返る水を咽喉へと流し込んだ。
締まりのない唇の端から漏れ出した水がコートを伝い、だらだらとピクニックラグへと吸い込まれていく。
完全に制御を失った部下にどう対応していいのか見失ったらしく、いつもの冷静さはどこへやら菱谷の焦った声が、
「おい、零れてる!」
とわたしを窘めてきた。
本当だ。本人はいたって普通に飲んでいた筈なのに。
「はい! 確実に零れてます!」
「………」
零れていることにもやたらとウケまくるわたしの横を感情を剥き出しにした足音で擦り抜けて、菱谷はタオルを取りに洗面所(らしき方面)へと姿を消す。
見下ろせば、ウールコートの表面には零れた水滴が辛うじて球体となって残っていた。
そんな儚い球体が楽しくて、暢気にボトルを直接口に入れる。ふと見れば、菱谷が用意したコップもテーブルに鎮座していた。彼がこのコップに水を注ごうとしたのを奪い取って、わたしがラッパ飲みを始めたのだ。
どうしてこんな所にいるのだろう? そう、突然思う。
彼とわたしは上司と部下で、こんなプライベートな場所に入ることを許可されるような関係ではない筈だ。
怖いもの無しになったわたしが居酒屋を先に出た菱谷を追いかけ、彼にやっとのことで追い付いたのは店のすぐ前の通りを数メートル行った所だった。
何となくわたしが追いかけて来るのを察知していたのか(それなのに待つ素振りを見せず、彼は常に早足なのだ)、コートとバッグを持って全力疾走していたわたしを呆れ顔で振り返ると、彼は立ち止まる。
立ち止ってくれた、安堵するわたしの視界には備え付けの灰皿。がっかりした。もしかして、ただ煙草が吸いたかっただけなのかもしれないと思った。
訝るわたしの前で、菱谷は指にはさんだ煙草を揺らせてみせる。
バッグとコートを道路に投げ出して膝に手を置き、その上、肩で呼吸をしながらわたしは小刻みに頷いた。許可しないという選択肢はない。
「ど……う、ぞ」
了承を得る為のサインは、部下三年目にもなると簡単なものだ。
実はかなりのヘビースモーカーの彼は、仕事中は完全禁煙をモットーとしている。
職場が部署内禁煙を打ち出したのが二年前。わたしが彼の部下についた一年間は、夕方になるとデスクの灰皿に山盛りになる煙草の吸殻をどう溢さずにゴミ箱まで持って行くか(袋を持ってくるという選択肢はなし)で悩んだものだ。
禁煙になったと言っても部署内に限るのみで、廊下の休憩室には喫煙スペースがあるというのも中途半端だが、それでも彼は仕事中の禁煙を自分に課してしまった。
上司たるもの、常によき見本であれ。先陣を切るのが上司であれば、その部下が決まり事を破る訳にはいかない。少し度を越えている様にも思えるが、それが頑なな菱谷なのだ。
道路脇に灰皿があるのを確認して煙草を吸い始めた菱谷が、わたしに背を向けないことに安心してやっとコートを着込む。汗をほんのりかいている体には、寒空の中振り回していたコートは冷たかった。
流れる煙草の煙。街灯の間にまるでイルミネーションのように垂れ下がる居酒屋街の名前入り提灯の表面を縫って、真っ暗な夜空へと溶けていく。
バッグからティッシュを出して、鼻をかんだ所で丁度一本吸い終えたようだ。相変わらず一本のペースが早い。
「あんまり吸い過ぎると早死にしますよ! 部下として心配です」
わたしの言葉に、彼は煙草を揉み消していた指を一度止めた。
そして、笑ったような気がした。
「職場では常に禁煙しているようなものだからな。これ位いいだろう」
「そうやって一本一本増えていくんですよ」
説教モードオンになったわたしがうるさくなったのか、菱谷は軽く右手を上げると背を向け歩いて行ってしまった。恐らく次の煙草を探していたらしく、胸元に入った手が何も掴まずに出て来る。
「あ、逃げた。まだ話は終わってないですよ!」
運動をすると咽喉が渇く。
地下にあった居酒屋の階段を一気に上ったわたしの咽喉はすっかり干上がっていて、丁度近くにあった自動販売機で小さいボトルのポカリスエットを買った。
ふたを開けて一気飲みすると残り三分の一になったボトルをゴミ箱に捨てて、彼の背中を追い掛ける。
タイミングをみて、菱谷はわたしをタクシーに乗せるつもりだったんだろう。誤算だったのは、わたしがあれを飲んでしまったことだ。
吸収率の高い飲み物をアルコールで満たされた胃に入れてしまえば、どうなるか分かりそうなものなのにその時のわたしはそんなこと考えもしなかった。
故に、その十分後。暢気な酔っ払いが出来あがる。
突然激しいめまいに襲われて、呆れ顔の菱谷に「家まで送る」と言われた。
恐らく話の流れで菱谷の家が近いのだと聞いて、完全に酔っ払ったわたしが水が飲みたいから少しだけ家に上がらせろと叫んだのが始まりだ。
最初は頑固に拒んでいた菱谷も、タクシーは通らないしわたしは母校の校歌を斉唱し始めるしで、ご近所さんの手前(それと周りの目の問題)に耐えられなくなったのかもしれない。
結局強引に連れて来て貰った彼の部屋。
途中途中の記憶は朧げで、軽く靄がかかっている。もしかしたらわたしは明日になったら何も覚えていないのかもしれないな、と何となく思った。
それならそれで、いいとも思っていた。どうしてか、もうこんな状況は来ないような気がして。
「コート」
それこそ立っているのにまで飽きて、ラグにすっかり正座してテレビのリモコンを探し始めたわたしの前に、疲れ切った顔をした彼が屈みこむ。
手にしているタオルはフェイスタオルではなく、バスタオルだった。どうやら手頃なサイズが見当たらなかったらしい。
お気に入りのトレンチコートを彼はまだ脱いでいなかった。
そんな恰好でしゃがみ込めば、スラックスの膝が伸びてしまうのに―――なんて思う程、現在のわたしに判断力は残されていない。
リビングテーブルの上に広げられた雑誌を菱谷がさりげなく閉じたことも、閉じる瞬間その表紙には賃貸物件の文字が見えたことも、愚鈍な脳味噌でも全て分かっていた筈なのに。その時のわたしは、深く考えようとはしなかった。
ただ三畳程の芝生ラグの上に、上司と部下が抱き合いそうな程の距離でいる。
いつもは鉄壁の構えを見せる鋼鉄の上司は、わたしにペースを握られてタジタジで、無理にここから追い出すことも出来ないのだ。
それが、とても楽しくて。
目の前で忙しなく往復するタオルは、丁寧にわたしのコートの水滴を拭っていく。
水の通路となったコートよりも、到着点となった芝生ラグの方がずっと酷い状態だというのに、彼は長年愛用していい加減くたびれつつあるわたしのコートばかりを気にしている。
わたしは大人しくコートについた水滴を拭われるがままに黙っている。―――――わけもなく、わたしは手を伸ばして目の前にぶら下がるネクタイをむしゃりと乱暴に掴んだ。
濃紺の手触りのいいネクタイだった。
「……っ、危なっ!」
驚いた菱谷が体を引いたのか、手首に重い反動が来た。勿論、手は離さない。
いつも顔色が悪く、顔面のどこかかしらに皺がある。
覗き込むと、今は眉間の間に深く険しい溝があった。わたしはどうやら彼を困らせているらしい、それだけは分かる。
「……円居」
ラグに座り込んで、彼の顔を見上げた。
こんな困惑した顔を見たことがあっただろうか? アルコールに惑わされているのか、思い出すことが出来ない。いつも見てきたのは厳しい顔、険しい顔、不機嫌な顔。それがわたしの知る菱谷の表情だ。
たまにわたしの前で見せる怒髪天寸前の顔だけが、わたしの中で感情の揺らぎを見せる彼の姿だった。今日はどうだろう? こんな表情豊かな菱谷を見たのは初めてかもしれない。
このままネクタイを簡単に手離してしまおうと思えない程に、この状況が惜しかった。もっと見たくなる。
菱谷は肩をガックリと落とし、視線を逸らそうとはしないわたしの頭から顔にタオルを被せた。
「酔っ払いめ。お前を家に入れたのが間違いだった」
憎々しげな彼の声。
その声は聞こえているのに視界がタオルに覆われてしまうと、揺らぐ視界の中どうやってしゃがんでいるのか途端に分からなくなった。
繋がっているネクタイを辿って、憎まれ口を聞きながら頑なな上司の背中に腕を回す。
大きく身じろいだ体を、腕で感じた。
「驚いた」
わたしは活動停止したらしい菱谷の胸にタオル越しで顔を押し付けて、呟く。
彼の体は固く強張っていた。耳に心臓の音が飛び込んでくる。
「菱谷係長って、心臓あったんですね」
刹那、激しい衝撃が容赦なく頭頂部を襲う。
半開きだったわたしの口は衝撃で閉じ、がつっと上下の歯がぶつかる音がした。思わぬ痛みに菱谷の胸で悶絶する。
物凄く動悸が激しいのはアルコールのせいなのだと、彼が言い訳するのは不可能だ。
菱谷はずっとウーロン茶しか飲んでいなかった。酔っ払っているのはわたしだ。でも、もしかしたら自分の心臓の音と混同しているのかもしれない。
指先で探れば、随分と彼の腰は締まっているようだった。ハードワークで運動なんてしている素振りも見せないのに、何となくずるい様な気もする。わたしはここ最近ストレスで太っていくばかりだというのに。
部下になって三年。彼に初めて触れた。
言葉を選ばなくても、流れるように声が唇から飛び出していく。
「最初は菱谷係長のこと物凄く怖くて、ちょっと爬虫類みたいで苦手でした」
離れようとする彼の体を強く抱き締めた。また脳天チョップでも食らったら堪らない。
「カメレオンみたいで何となく不気味だったんですけど、今は慣れました」
「……カメレオン」
呟く菱谷の声が結構近くに聞こえる。
いつも身を隠すようにして存在を敢えて消そうとするのに、突然鋭くミスを突いてきた。
わたしには存在を消そうと消さずとも十分にその鋭過ぎる視線はわかるのに、どうも彼はそんな事には気付いていないようで最初は嫌だった。きちんとできるのか、疑われているみたいで。
今は何となくわかる。彼はミスを待っているのではなく、気遣っていたのだ。それに気がついたのは部下になって一年を過ぎた頃。
不器用でどうにもならない程に面倒な人だと気付いたのはもう少し後。
「それからは機械人間だと思ってました。たまにオーバーヒートするんで対処が大切なんですけどね」
笑ってから、
「あ、これは酒を飲んでいるんで無礼講ってことでお願いします」
と付け加えた。
明日、出勤してから機械人間だとかカメレオンだとかに小言を言われたらたまったものじゃない。
くつくつと笑う小刻みな揺れが背中からやってきて、菱谷が笑っていると分かった。
タオルが邪魔で彼の笑い顔を見れないことを惜しいと思う。もっと色んな顔が傍で見たかった。
「わたし、いい部下ですよね?」
「そうだな」
考える時間もなく、すぐに返事が戻ってくる。
嘘を言っていないのだけは分かる。でも口を開く度に彼の胸が大きく動くのが嫌だった。溜息を何度もついている。
「役に立ちますよね?」
「……ああ」
掠れ声に苛立った。まるでどうでもいいことをいい加減に返事されているみたいで、菱谷はこっちの覚悟を全く分かっていない、と思う。
最初はただ怖がるだけで何も出来なかったけれど、今は仕草からある程度までは察知することが出来ると自負している。三年間ただひたすら進化し続けてきた、この努力。
手離すのは惜しいと、彼の口から聞きたかった。
身じろぐ彼の体をわたしに縛りつけようと、強く抱きしめる。
「傍にいても大丈夫ですよね?」
何か気になることでもあるのか、菱谷は返事をせずに小さく嘆息した。決して回って来ない彼の腕が、わたしにはもどかしく苦しい。
わたしと彼は、部下と上司。それだけでしかないと、言われているみたいだ。
高い壁を勝手に乗り越えようと(もしくは壊そうと)しているわたしを、窘めようとしているみたいだ。
「わたしたち、いいコンビですよね? たまに菱谷係長の言ってることは呪文にしか聞こえないから、解読するのはわたししかいないと思うんです」
「円居」
次第に大きくなるわたしの声量をセーブしようと、腹立つほどに冷静な声が名前を呼んできた
大きくなる違和感に、過る雑誌の表紙。考えたくない、今はまだ。
「大人げないと思うことだってありますよ? それでもまぁ、当たり散らせば被害も少ないですよね」
「お前が、俺をどう思ってるのか。今日で大分分かった」
彼は肩を叩く。
トーン、トーンとまるで子供を宥めるかのようだ。声にしなくても分かる。落ち付けと言っているのだ。
柔軟剤の匂いのする柔らかいタオル。少し真ん中が濡れていても、ワイシャツが濡れてしまうのかと気遣うこともせずわたしはそのまま菱谷を抱き締めた。
こんなに近い所にいるのに、決して回らない彼の腕。
「……円居、知っているのか」
言葉少なに聞いてくる。
何を知っているというのか、わたしが今怖くて仕方がないことなら今は考えないでいたい。ただ何も言わずに首を振った。
嘆息の後、
「そうか」
と戻ってくる声が寂しそうで苦しそうに聞こえるのに、声とは正反対に体は離れていく。
もどかしさに思い切り突き倒せば、そんな力を入れていない筈なのに呆気なく菱谷の大きな体はラグへと引っ繰り返った。
片肘と片膝を立てたままの体に乗り上がってから、わたしの視界を遮っていたタオルをはぎ取ると、見開いた視線とかち合う。
驚愕、呆然、いやその全てを包括して彼は馬乗りになったわたしを見上げていた。
「捨てるっていうんですか?」
「は?」
素っ頓狂な彼の声が、隠せない彼の心境を表していたのだろう。
「駄目な部下だって見限ったんですか?」
そんな人間じゃないことは、三年間で十分理解出来ている。
彼の言い淀む論点はわたしが言った所にはないのだろう。分かるのに、飛び出してくる声が止まらない。
もうわたしは、彼がこれからわたしの上司ではなくなってしまうことを何となく察している筈だ。だからこそ、今ここで彼を手に入れなくては永遠に失ってしまう。
俯き、乱れの見えない彼の胸元にネクタイを握り締めたまま両手をつける。
「ここまでいいだけ使っておいて、突然いらなくなったんですか? 違いますよね? こんな面倒な人、わたし以外に誰が面倒見れるっていうんですか!」
叫んだ瞬間、思い切り顎を打って少し唇を噛んだ。
腕を掴まれて、そのまま引き寄せられたのを知ったのは後頭部に手の平が回ってからだ。髪の毛に指が絡んで、そのままぐしゃりとかき交ぜる。
突破した最初の壁に、泣きそうになった。
掴まれた腕が痛い。乱暴過ぎる頭を撫でる手が、それ以上移動しないことに彼のらしさを感じながら、わたしはネクタイから手を離す。
わたしたちは部下と上司。これまでそれ以上でもそれ以下でも無かった。
それでもわたしの中にはいつも傍にいる存在は大きくて、向けられる視線が見守ってくれていると気付く頃にはただの上司では無かった。その存在が失われてしまういつかを恐れてしまう程には。
トレンチコートも背広も着たままだ。ネクタイに全く緩みも見られない。これらが全て、わたしと彼を阻む壁。決して踏み越えてくれない分厚く高い最後の壁。
わたしはそれに楔を打ち込む為にゆっくりと顔を寄せた。
枕元に置かれた携帯が鳴った。
わたしは指だけを這わせてどこでもいいからボタンを押す。最近皆が持っているスマートフォンを諦めて二つ折りの携帯で済ませている何となく機械音痴のわたしは、目を瞑っていてもどこがどこのボタンなのか、何となく分かる。
「……はい」
『熱は』
声は名乗る隙を与えず、簡潔に必要事項だけを聞いてきた。
一時間前に計った時は三十八度五分を超えていた。今は節々の痛みも薄らいで、寒気も無く熱いくらいだから熱は出きってしまったのだろう。
水が飲みたいと思えば、枕元に開いてないミネラルウォーターが置いてあった。横にはあの因縁のポカリスエットもある。なんて用意のいい人だ。
『円居、回答は』
ぼんやり菱谷の部屋を見回していたら、苛立ったような声が聞こえてきた。
解答は、とはまるで教師のようだ。彼はまだ今日もわたしの上司だ。でも、もしかして肩書はもう一つ増えたのかもしれない。
「熱は……下ってきたと思います。何から何まですいません。ご迷惑を」
『早目に帰る』
その後の言葉をぶち切って、彼の電話は切れた。
あの様子からすると、誰かが近付いてきたのかもしれない。
勿論、部署で私用の通話をするような人ではないから、こそこそと会議室ででもかけたのか。あり得ない、おかし過ぎる。同僚たちはそんな不審な行動をする菱谷をどう思っているのだろう? 仕事中、会議などのホワイトボード記入用件以外に彼が席を外すのは稀なことで、あの堅物な彼には考えられないことだ。
わたしはかけられた布団をはぎ取って、ベッドから降りた。
汗のかいた足を包む、ほんのり濡れたストライプの大きなパジャマは菱谷のものだ。
下着は流石に替えは無いから今日は確実に自分の家に帰るけれども、洗濯機を少し貸して貰おうかと考える。
壁を辿りながら寝室を出ると、リビングに並べられたB6の紙にびっしり書かれた箇条書きに、心底噴き出しそうになった。
「布団から出ないように……って、これ見てる時点で出ていますって」
意外にも間の抜けているわたしの上司は、食事の件や緊急連絡先まで全てその達筆過ぎる文字で言伝ている。甲斐甲斐しいことだ。
元々、何となく風邪気味だったのかもしれないわたしの体調は、寒空の下長時間雪に覆われた所為でその限界点を突破したらしい。
菱谷の腕ですっかり気を失って、目覚めた時には彼の腕の中。肩で息をする菱谷が、玄関にわたしを抱き入れる所だった。
遠慮しても頑として聞かず、ふら付く中で着替えを出されてココアを飲んだ直後に発熱。本当にとんでもない一日だったと思う。特に菱谷が。
「……休暇届けは出してある、か。有給、もう少なかったのになぁ」
カーテンを開けると、外は白銀の世界だった。
夜の間、降り続いたらしく昨日の記憶よりも十センチ以上積もったことが、ベランダの手すりに積もった雪で分かる。
テレビ前のソファーに置かれた布団は綺麗に畳まれていて、ここで彼が昨日の夜を過ごしたことを知った。
テーブルの下に重なった雑誌はまだそこにあって、彼の移動が遠い未来ではないことを思い出すと胸が痛む。でも、それを彼は抗えない。抗う様な人間では無いことを、わたしはこの三年でよく理解している筈だ。
でも今のわたしは部下と上司である以前に、男と女だ。機械人間は進化して、わたしの大切な人になった。
携帯電話が鳴っている。
ふらつく体でも急いで寝室に戻ると、『菱谷 保(会社上司)』と画面に見えた。一体何度かけて来るつもりなのか、わたしの唇端が思わず持ちあがってしまう。
この人はかなりの過保護かもしれない。
「はい? どうしました?」
微かな沈黙の後、不機嫌そうな声で菱谷は、
『何か食べたいものがあるか? 帰りに買っていく』
と次いだ。
さて、どんなものを頼もうか。
まずは我儘で困らせてしまおうか。
「何も買って来なくてもいいから、早く帰ってきて下さいね」
無言で電話は切れて、思わず噴き出した。