恋愛ベアハッグ
わたしだって、何となくいつかそんな日が来ると、理解はしていた。
どんなにその時を恐れていても、わたしたちはあくまでただの一社員。
どんな状況でそれが導き出されたとしても、内示が来てしまうともう抗うことはできないってことを、存分に分かってはいた。
辛かった一年を過ぎて、何となく難しい上司の扱い方が分かってきた二年目頃。
小難しい会話の流れも読んで、怒り出しそうなタイミングも雰囲気で察知できるようになって、わたしたちはチームなのだと勝手に括ってしまった。分かっている、それが敗因だ。
わたしはただ、思い込みたかった。彼にはわたしが必要なのだと。いつか来るその時を、可能な限り先延ばししていざやってきたその時には、共に、と願ってくれるのかと。
それこそ、社会人にはあるまじき考えだ。
円形と四角形は重なると無敵なのかもしれないが、あくまで別々の形なのだ。一つにはなりえない。
わたしはそんな甘ちゃんな考えを、一番嫌悪していた。
昨日までは、嫌悪していた筈だった。
「そう……なんですか」
胸にしまった菱谷の携帯電話が、わたしの腕ごとするりと滑り落ちて来た。
こんな無防備な所に剥き出しになってしまっては、彼はすぐに携帯電話を取り返してわたしを追い返すタクシーを呼んでしまう。
また隠してしまえばいい。それなのに体が、今更凍り付いたように動かない。一気に空気が冷え切った。そんな気がした。
分厚く空を覆う雲。先程まであんなに暗闇に染まっていたというのに、今はむしろ明るく感じられるほどだ。
闇から灰色に染められた空からは見上げると放射線状に雪が降ってきて、抗う術のないわたしの肩を容赦なく濡らしていく。
菱谷は、昨夜のわたしにこの話をしたんだろうか?
昨日のわたしはそれを聞いて、何を決断したのか。何を彼に決断させたというのか。
わたしの上司はもうすぐで、わたしの上司ではなくなってしまう。
背景と馴染んでいた彼の闇色のコートは浮き上がって、いつもよりもっと菱谷を大きく見せる。こんなに大きく近く見えるのに、わたしには彼が手が伸ばせないほどに遠く感じて怖い。
恐れていた苦情箱の所為なのか、それともただ単に元々彼に暗示されていた移動だったというのか。
ここから随分と遠い場所へと移動が決まったのだ、と菱谷は仁王立ちのわたしを諌めるように言った。
だから、わたしが全てをなかった事にしたいと言ったのは間違いではないのだ、と。
三年間、ただひたすらに彼の元で仕事をしてきた。
社会人であれば、それがどんな人の下であっても給料をもらっている限りはやるべきことをしなくてはいけない。菱谷ならば、立ち竦んでいるわたしにあっさりそう言うのだろう。
それこそ、これまでわたしの上司で『あった』菱谷であり、わたしの尊敬すべき『平方四辺形』だ。彼の口からはまさに正論こそがふさわしい。
でもこんな時、わたしは何を言えばいいんだろう?
大丈夫なのだと、もう彼から離れてもしっかりとやって行けるのだと、笑い飛ばしてしまえば、暢気でどうにもならない部下としての体裁が保てるのだろうか?
そうすれば彼は安心してわたしを自分の大きな傘から放出し、またたった一人孤独でもどかしく眩しい場所へと凛と立ち続けることが出来るのだろうか?
自分で選んだ場所とはいえ、あの寂しい場所に。冷たく静かな場所で凛と、背を丸める事もせず。
ただそこに、わたしはもう辿りつけない。彼の行く場所には、わたしは共に向かうことが出来ない。
じゃあ、誰が菱谷の難しい会話を解読して、上手く噛み砕いて同じ部署の人間に知らせるというのだろう。
ああ、違う。彼はきっとわたしの手など本当は必要ではないのだ。
わたしが勝手にしてあげなくてはと思い込んでいただけで、彼は歳上でわたしの上司だ。そんなこと、部下に心配されるまでも無く、勝手に自分で判断していけばいい。
鈴がなくても、猫は生きることが出来る。むしろ鈴なんて、余計なものは猫だって外して自由に行きたくもなるだろう。
わたしは、もう、お払い箱だ。
菱谷は手首についた時計を見て、僅かに眉を寄せた。
最後に時計を見てから、結構な時間がたっていた。彼がそんな反応を示すのも、当たり前だ。
「もう帰りなさい。時計を見てたのか、遅いぞ」
わたしはまるで、吊られた人形のように両腕をぶらり下ろしたままだった。
我儘っ子のように、菱谷のマフラーに守られた首から上を小さく二度振った。
もう菱谷の携帯電話を持っているか、持っていないかもわからない。むしろもうそんな携帯電話なんか、わたしが持っていたって何の意味もないことだけは分かっていたからどうでもよかった。
彼がその所有権を放置したわたしという人形が、自分で立ち上がることが出来ずにいる。
そんなことで給料を貰っているなんてよく言ったものだ。わたしは決して友達や恋人を探しに会社へ来ている給料泥棒じゃないのに、こんな弱い人間なんかじゃない筈だ。
それなのに、どうしてだろう。何かを失ってわたしは立ち竦むばかり。菱谷のように、たった一人で立つ勇気も自尊心も無いのだ。
ここにはただ衝動の赴くままに来てしまった。でも来てはみたけれど、待ちながらも何度もここにいることを後悔した。
寒くて、辛くて、心細くてただただどうにもならなくて。どうしてそんな気持ちになっているのかはっきりしたことが自分のことなのに明確に出来なくて悔しかった。
わたしは彼と、一体何になりたくてここにいるというのか。彼と恋人になりたいのか、このまま上手く噛み合った上司と部下のままでいたいのか。
でももう、片方の選択肢は消え去ってしまった。
残された選択肢をわたしが決断するには、本当にわたしを選んでくれたのか、実感も何もなくて踏み出せない。
動けないわたしの前にやってくる影。吹き付けて来る風がふと止んで、すぐ前まで彼が迫っていたことを知る。
頭の上に降り積もった雪をその手袋をはめた手で振り落とし、菱谷は叱責する様な顔を半分崩した。
「お前は本当に、……どうにもならない部下だな」
初めて笑い声を聞いて、驚愕したのは今朝のこと。三年も一緒にいて、笑い声を聞いたのは今でたった二回。
わたしは今まで何をしていたんだろうか。分かり合ってると、笑い声すら二度しか聞いていない癖にこんな状態で思えるなんてどうかしてる。
だってまだ、わたしは菱谷の傍にいるのだと思っていたのだ。三年とは言わず、四年目も五年目もまだいるのだと勝手に思い込んでいたのだ。
わたしが彼のことを一番よくわかっている限り、菱谷がわたしを手離しはしないだろうと、そんな身勝手なことを一人で思っていた。
「そんなどうにもならない部下を置いて移動してしまうのは、どこの誰ですか」
わたしを手離すのを苦にも思っていない人を、涙交じりの声が咎めた。
大きな嗚咽を上げて泣いてしまいたくなって、わたしは目の前にある恐らく高級品であろうコートの袖を掴む。
鼻でもついでにかんでやろう、そしてクリーニングで多額の支払いをしたらいい。ザマみろだ。悔し紛れに思った。
菱谷は雪を落とし終わったわたしの頭に手の平を乗せたまま、
「俺が決めたことじゃない。会社が決めたことだ」
と平気な顔で嘯く。
正論だ。余りに正しい答え過ぎて、吐き気がしそうだ。
わたしはそんな当たり前過ぎる答えを前に、また何も言い返せない。袖を掴む手をちょっと強くするだけだ。
「部屋へ、入れて下さい」
わたしの懇願に間髪いれずに菱谷は、
「駄目だ」
と答えた。
「どうしてですか? 昨日は入れてくれたのに」
言葉だけ聞いているとただ地団太踏んでいるようだ。
聞き分けのないわたしに何を言っても無駄なのだと判断したのか。
「円居、…………」
名前だけを溜息交じりに呼んで、菱谷は黙止権を発動させた。
ずるい。いつもは口うるさいのにこんな時だけ、菱谷は何も言わずに全部終わらせてしまおうとする。
まだ始まってもいない恋愛を前に、上手にフェードアウトなんか出来ない。
本当なら何かのきっかけになる筈だったベッドインだって最初から最後まで記憶は無く、こんな状況になって初めて恋心を自覚する始末だ。なんてお粗末な。
「逃げるんですか」
わたしの声に、彼は顔を顰める。
垂れ下がって寒さで強張った指から、ゆっくりと携帯電話を奪い取ると菱谷は脇に抱えたビジネスバッグの中にしまった。
勿論、わたしが帰るのを諦めたわけじゃないのだ。
「タクシーの走っている所まで行くぞ。送っていく」
立ち止まったままのわたしに、彼はあっさりと背を向けて、白く染まったアパート前の道を踏みしめていった。
きしり、と踏むごとに背中が離れていく。どんどん降り積もる雪は、その馬鹿なくらいにクソ真面目な人の足跡まで消してしまう。
もう、ほんの少しの歳の差がなんだっていうのだ。
上司が部下に感情を抱いていたとしても、わたしがより寄ってあのクソ真面目な上司に恋愛感情を抱いていたとしても、当の本人が恋愛を意識していればそれはもう既に普通の恋愛で確立する。
格好つけて、自尊心の塊みたいな人間が偉そうに、大人だからと自分を押し殺して馬鹿みたいだ。
そして、そんな彼を好きなのに気持ちが固まらないうちに抱かれてしまったせいで、成功率とか順番にこだわって、踏み切れないわたしも馬鹿だ。
わたしは菱谷に比べればまだ子供で、恋愛の酸いも甘いも上手に嗅ぎ分けられずに重なり合った花の間で右往左往するだけだ。
でもそれでも、必死だからこそわたしは恥も外聞も無く彼の足にしがみ付くことが出来る。
歳上だとか、上司だからとかはもうこの際関係ない。
彼がわたしを好きで抱いたかなんて、もうそんな確認は後にしたらいい。行き当たりばったり、無計画。それはそれで大歓迎じゃないか。
むしろそれくらいじゃなくては、こんな面倒な人を追いかけて凝り固まった角を叩き壊す事なんて出来ない。
思い切りやって、壊してやればいい。
どうせ離れていく人間だ。間違っていたのなら、笑って誤魔化してしまえばいい。その時こそ、まさにもう一度土下座をしてなかった事にしてしまえばいいのだ。
背を向けて確実に離れていく彼の後を走って追いかける。
そして、異変を何となく察知したというのか。駆けて来る足音に振り返る菱谷の胸の中に、わたしは思い切り飛び込んだ。
「……ぐふっ!」
何かが潰れたような声が菱谷の唇から飛び出した。
まさかこんなことをするなんて想像も付いてなかったのか。
幸いだったのはまさか抱き付くとまでは察知されずに、彼が飛び付く私を避けようと飛びすざらなかったことだ。わたしの行動が迅速だったともいう。
彼は飛び込んだわたしを避けられずに、あっさりとわたしの腕の中に収まった。いや、正確にはわたしが菱谷の胸の中に収まったというのが正しい。
捕獲成功。菱谷に限り容赦は禁物だ。逃げる隙を与えては彼はあっさりとわたしを引き剥がし、もう近寄らせるようなへまはしないだろう。対処は分かっている。
わたしは、マフラーを取る為に大きく開けたままのコートの中へ腕を回した。とにかく全身の力を振り絞って菱谷を強く締め付ける。
「……くっ」
腕の中の体が身じろいで逃げようとしたのか、菱谷の足が一歩引かれた。
それでも、絶対に離れてなるものか。
わたしは後ろに回った手で必死に背中を探って、掴めるものをとにかく握り締めた。握り締めたのは恐らくワイシャツだろう。
回した腕の奥に、わたしのものとは違う体温を感じて、泣きそうになる。
埋めた顔をネクタイに押し付けた。わたしの鼻が押し付けられたのは、決して緩むことのない彼の鎖であるネクタイの結び目だ。
固く盛り上がったその場所に少しくらい鼻水が付くのは勘弁してほしい。なにせわたしは考えなしの部下なのだ。
「円居!」
菱谷がわたしの行動を咎めるように、名前を叫んだ。
「何ですか!」
わたしだって負けずに、間髪いれず返事をする。
返事は社会人には大切なものだ。今日は返事をせずにくどくどと説教をされたのだ、同じ轍は踏まない。が、返事をするのと腕を離すのは全く別の話だ。
「言いたいことは分かりますが、離しません!」
わたしは彼を締める腕を緩ませることなく、胸に強く顔を押し付けた。
明日、両腕筋肉痛になるのは覚悟の上だ。勝たなくちゃいけない勝負の時に、出し惜しみする程、わたしの力は無限ではない。
菱谷を抱きしめながら、まるでプロレス技だな、と思っておかしかった。
困惑を隠せない鋭い声が降ってくる。
「お前はまたそうやって考えなしに……っ!」
額とネクタイの間に指をねじ込んで引き剥がそうとする辺り、むしろ死守したいのはネクタイの方じゃないのかと邪推してしまう。
あんなにデスクワークしかしていないのに、さすがは男の力だ。指が震えるほどに抱きしめているのに、体が少しずつ離されてしまう。
状況が緊迫してきて、
「……っ、ぐぅっ。あ、あの、す、す好きなんですっ! 菱谷係長!」
カミングアウトした。
額に押し付けられた大きな手袋から、突然力が抜ける。
勝った。やっと止んだ力の攻防戦に安堵して顔を上げると、
「お前」
菱谷の疑いの眼がわたしを覗き込んできた。
「はい! もう一度言いましょうか」
眉間のしわがより深くなる。
「また、酔っ払っているのか?」
なんと、この状況も昨夜の再来だったのだ。
酔っ払いのわたしもこうやって彼にはっきりと告白し、結局は押し倒してしまったのか。
「え、えーと」
菱谷の腰に回った腕を離さないままで、わたしは僅かに語尾を濁らせた。
「すいません。わたし、昨日の記憶がないみたいで全く覚えていません」
素直に言い訳すると、彼の堪忍袋メーターが一瞬で振り切れたらしい。容赦なく拳骨が脳天に振ってきた。
「ぐっ」
火花が散った。
思わず回した腕を離して、両手で頭を抱えしゃがみ込む。
いつの間にか真っ白になっていた道路に、わたしのコートが広がり黒いコートの裾は一気に白くなった。
「記憶がないだと?」
鬼のような形相とはこのようなことを言うのだろうか。
菱谷について丸三年、ここまで彼が怒髪天になったのを初めて見たような気がする。確かに小さいことで彼はこまごまとよくわたしを叱責して、その度に言い返したり文句を飲み込んだりした。それでもきっとここまでは怒りは頂点に達していなかったのだろう。
嘘は駄目だ。彼の言っている記憶はわたしがキッチンについて毒付いたことなどではないのだろう。わたしが彼の風船を破る程に至った何かについてだ。
覚悟を決める。
「はい」
「どこからだ」
「店の後半からです」
何か言われるかと肩を竦めても、叱責する声も拳骨も来ることは無かった。
彼はそのままわたしに背を向けて、タクシーを呼ぼうと向かう車通りの多い道へと歩いて行ってしまう。
大きく溜息を付いているのか、雪の降る中でも長く白い息だけは見えてわたしは途方に暮れた。
もう動けない、なけなしの勇気は使ってしまった。彼への気持ちも、記憶がないことも全部暴露して、わたしの持つカードは無くなってしまった。
教えて、昨日のわたし。彼をわたしへ揺らがせた大切な言葉を教えて欲しい。
それなのにわたしには何もない。昨日のわたしも確かにわたしの筈なのに、今のわたしには何も出来ない。自分で自分に嫉妬するなんて馬鹿げてる。
声が。行く先の分からない声が出てくる。
「逃げるんですか?」
頑なに止まろうとしなかった彼の足が止まった。
「そうやれば何とか上手くやって行けると思ったら大間違いですよ」
わたしにはもうこれしか言えない。米川から教えて貰ったのは、ここまでだから。
ここからわたしの記憶は途切れてしまっている。ここから後が、もしかしたら大切で上司と部下としてでしかなかったわたしたちを揺るがしたのに、それなのに思いだせない。
手にしていた筈のバッグはアパートの前に置き忘れていたらしく、わたしは何も手にしていなかった。
降り続く雪と、先程しゃがみ込んだ所為で体中濡れている。容赦なく積もる頭から水滴が落ちて、頬を垂れて来る。雪なのに物凄く温かった。むしろ熱かった。
「わたし、係長が好きです。確かにちょっと気難しいし言っていることが分からない時もあるけど、基本、好きです」
この恋がもし実らないとして、わたしはきっとそれでも忘れないだろう。
加点式とか条件のいい人とかそんなことを言ったり、そんな要領よく恋愛をしようとしていた人間がこんなあっさり恋に落ちてしまうなんて思ってもみなかった。
恋は盲目、恋は闇。憧れていたのに、いつも踏み出してしまうのが怖かった。物凄く好きな人が出来ても、その人がわたしを好きになってくれるなんて奇跡のようで。
片想いの苦しみに怯えて、一人だけでそんな苦しみを抱いて行くのが怖くて、わたしは気持ちを奥に隠してしまっていたのだ。
だって、わたしの好きな人は。
降ってくる雪。どんどん頬を濡らして、菱谷に借りたマフラーまでも濡らしてしまう。
投げ出した腕はまるでロボットみたいにだらんと落ちるだけで、濡れそぼる顔を拭おうとはしない。
「係長がどんなにわたしに八つ当たりしても、お母さんみたいなことばっかり怒っても、コーヒーのさじ加減にうるさくても好きなんです」
ショートブーツに水が滲みて足が痛い。完全に暮れた中の雪は闇にまぎれて白く浮き上がっている。
闇色のコートの主は、暗闇に馴染んでわたしの目には見えない。
もしかしたら変なことをずっと話しているわたしにとうとう愛想を尽かして、どこかに行ってしまったのかもしれなかった。
街灯が二度点滅して、わたしはとうとうその場にしゃがみこむ。
もう、本当に帰らなくちゃいけない。わたしはそして彼の後にやってくる次の上司の為に、菱谷の引き継ぎを手伝わなくてはいけないのだ。
「…………覚えてなくてごめんなさい」
「馬鹿か」
しゃがみ込んだ上から掠れた声が降ってきて、わたしは顔を上げた。
遠慮なく突き刺さる雪が目に降って来て、わたしは瞼を閉じる。
濡れた頬を温かい指が拭って、それでも拭いきれないと判断したのか大きな剥き出しの手の平で乱暴に擦られた。
腕の下に支えが入って無理やり立たされる。
目の前に立たれると、菱谷にはやっぱり圧迫感を感じた。わたしが思わず一歩後ろに下がると、彼はそれを許さずに離れようとしたわたしの体を引き寄せる。
温かい。
「逃げる、逃げると言うが」
耳に叱責が触れて来る。
優しく温かく、それなのにやっぱり厳しくて少し刺々しい。
「人がやっとのことで決意して追いかけたのに、逃げたのはお前の方だぞ。円居」
温かくて、苦しい。
だからそうやってすぐにわたしの所為にするんですね、とわたしがその場で言い返せる筈もない。
わたしの上司はもうすぐで、わたしの上司ではなくなってしまう。
でもわたしは、傍に。
わたしはなんの言葉が彼の風船を叩き割り、四角を円形に近付けたのか考えながら、優しく抱き締める彼の腕の中で気を失った。