彼的コンプライアンス
思えば、昔から面倒臭い人だと知りつつも、そういう人を放っておけないたちだった。
特に一人っきりになっていると弱い。そういう人は敢えて背を向けて強がっている癖に、たまにそんな寂しそうな背中で誘っている節がある。
そりゃあたまには自己満足で話しかけて欲しくないとか、勝手に同情されても気分が悪いとか、言われてしまったことだってある。
それでもやっぱりたった一人で場に立ち、凛とした姿を見せられるとその姿が寂しそうでも寂しそうでなくても、わたしは傍に寄っていってしまうのだ。
何に曲がらず、自分を貫く姿。
それはいっそ物凄く孤独で、置いてけぼりに見えるのかもしれない。場の雰囲気を読めずに、ひたすらに頑固な人間は周囲に疎まれるのかもしれない。
でもわたしは、もしかしたらそんな頑なな自分を持っている人たちがきっと羨ましいのだ。
誰だって、人に嫌われたり疎まれるのは苦しくて辛い。
菱谷だって、ここまでねじくれる為にはかなりの紆余曲折があっただろう。まさか入社当時からこんな複雑で面倒臭い人間ではない筈だ。
自尊心をへし折られ、努力を認められる場所を持たずにここまで来たのか。それとも長く伸びた鼻っ柱を折られずに、ここまで来てしまったのか。わたしには全くわからないし、理解しようとも思わない。
でも。
それでもだ。
菱谷が部署に入ってくるなり口を噤む同僚たちを見ると、胸が痛む。
確かに彼だって大人なのだから、頑なにならずもう少し譲歩して色々してみたらいいのに、ともわたしは思う。
でも人には向き不向きというものがあるのだ。通常の人間には可能なことでも、菱谷にとってその行為がどんなにハードルの高いことだということは理解している。
まさか今すぐ菱谷に、この部署の真ん中で同僚に混じって談笑しろ、とはさすがのわたしだって言わないし(同僚たちの苦痛を思えば)言えない。
彼は仕事に真摯で、ただひたすらに(クソ)真面目でどこまでも潔癖な人間だ。正しいことは耳に痛いのと同じように、彼のいうことは真四角で丸みを帯びず受け入れがたい。
でも一番大切なのは、彼は間違いを言っているわけではないということだ。
社会人として守るべきこと、大切なことをしつこいほど繰り返し、言い続けるから嫌がられる。さながら口うるさい母親だ。
間違っていないのに疎まれる。厳し過ぎる法令遵守が理解されないのを知ってるから、理解されようとも思わない。
彼らはきっと個別だと堂々巡りだ。誰かが緩衝材になって間に入らないといけないのだろう。わたしは彼の鈴だ。
こんな、わたし一人にしか理解できないような人を放っておくこと、出来るだろうか。
仕方ないから出来る所までは何とか付いて行ってやろう、そう思ってしまったのだ。
この気持ちが恋なのか、ずっと恋だったのか。わたしにだってわからない。
ついさっきまではこんなこと、わたしだって考えもしなかった。
アスファルトの上に投げ出した足が本格的に下から次第に冷えて来ると、わたしは彼のアパートのエントランスに入ろうか。一瞬思い悩んだ。
墨のぶちまけた空には、わたしの吐いた息だけが白く昇っていく。
星は一つも見えない。分厚い雲に覆われて、今日は結局一度も晴れなかったのだ。だからなのか、頭痛はまだ良くなったものの何となく気分が重い。
朝夜関係無しに煌々と電気の付いているエントランスは、ぱっと見、凄く温かそうだ。実際中に入れば、家の中とまでは行かないまでも、外よりはずっとましには違いない。
でも、入らなかった。面倒になってきたともいう。
考えなしだとは自分でも思う。
こんな寒空なのにもかかわらず、外で彼の帰りを待とうと思えるなんて、上司に対する感情にしては重過ぎる。正直、さっきから自分でもかなり気持ち悪い。
今日のわたしはおかしい。でも、きっと昨日の夜からずっとおかしい。
帰ろう、と寒さに震えて待ちながら、何度だってそう考えた。
指先の感触が無くなって、体中が強張って全身で震えている。奥歯は噛み合わないし、なんだか妙に心細くて泣きそうだ。
大体こんなことをして何の利点があるというのか。きっと、姿を見つけるなり菱谷に叱責されるのがオチだ。考えなくたって分かる。
わたしにはの状況に至るまでの大切な記憶がなく、菱谷と向かいあったとしても話すべき言葉なんて持ち得ない。それなのに怒られてまでこんな場所で待って、何を彼に告げるというのか。
もう何もかもがグダグダだ。グダグダだけに、もう開き直っていいのだろうか。
街灯が並ぶ向こう側の角。暗闇にも溶け込んでいる闇色のコートを着て、待ち人来たる。
彼はアパートのエントランス手前で立ちつくすわたしを、まるで亡霊でもいた様に不審げな顔をして見た。
「お前は馬鹿か」
通常運転の心底、呆れた顔だ。だが、わたしだって咎める様な口調まではなんとか想定内だ。
勿論、こんな寒空に防寒具を忘れるなんて失態を彼はする訳も無く、首にはカシミアらしきマフラー完備、革の手袋までも装着していた。この寒さは自分の失態ながら、ぬくぬくの彼を見て非常に羨ましい。
足早に歩み寄った菱谷は、わたしが強張った口を開く前に素早く自分の首からマフラーを抜き取った。
逃げようか逃げまいか悩んで、結局立ち竦んだままのわたしの首へ二重に巻き付けると、
「馬鹿か」
と二度までも言った。
思わずいつもの調子で、自分の鼻だって十分に寒くて真っ赤になっている癖に、と内心で毒づいて見せる。ほとほと可愛げのない女だと自分でも思った。
それでもほんのり煙草の匂いが混じった温かさの所為か、妙に涙もろくなってかさついた頬にも優しいマフラーの中に顔を埋める。
馬鹿か、なんて蔑んだ言葉がこんなに真っ直ぐに胸に響く。今、初めて知った。
もしかしてわたしがこんな気持ちを抱くもっと前から、彼はこんなにわたしを気遣いながら叱責していたというのか。いや、毎回と言わないまでもたまにこんな剥き出しの感情をわたしに向けたこともあったのか。
いつもの癇癪だと聞き逃し、完全に『親のカミナリ』と同列に扱っていたわたしにはその機微までは読み取れていなかった。
「今日は冷えると言っていただろう。おい、聞いているのか。円居」
寒さの所為か、呆れた所為か。溜息交じりにわたしを呼ぶ声。
彼がこんなに気持ちを押し殺さず、しかも慈愛に満ちた声でわたしの名前を呼ぶというのに、三年間もわたしはただの部下でいた。
水面下の自分はもしかして何となく気付いて、高速で水かきを繰り返し沈んだままの気持ちを大切に維持していたのかもしれない。水面上のわたしは本当に鈍感で愚かだ。
俯くと綺麗に磨かれた彼の革靴が視界に入った。几帳面な菱谷らしく、靴紐にも僅かな乱れは見られない。実に、らしいなと思う。
不安定に揺らぐ気持ちが、少しずつ形になってきているのが分かった。胸を押し開ける何かを言葉にするのは難しい。
わたしは、
「……ありがとうございます」
やっとの思いで口を開いたのに、それしか言うことが出来なかった。
こんな頑なで真四角な人を昨日のわたしはどんな琴線を揺らして、手に入れたというのか。
クソ真面目というのは誇張ではない、ここでわたしが菱谷の部屋に行きたいと言っても彼はきっと丁寧に断わって上手にわたしを追い返してしまうのだろう。
「あの」
「タクシーを呼ぼう。待っていろ」
彼はわたしの呼び掛けを無理に途切り、闇色のコートから携帯電話を取り出した。
これだ、と正しい道を見つけた時の彼は迅速かつ頑固だ。
昨日、たった一度だけ、酔っ払いのわたしが持ち得た彼の風船の針は失われてしまった。残されたのは鋼鉄製の風船。それはもう、風船ではなくただの鉄の塊だ。
どんな思いを胸に、わたしを抱こうと彼は決意したのか。
どんな言葉が彼の胸まで届いたのか。
こんなに長く、三年間も一緒にいたのに分からない。
偉そうに、菱谷攻略法なんて言って浮かれていたわたしは、こんなに真っすぐで自分を押し殺す人を見失っていた。
不器用で口下手な人だと誰よりも分かっていたのに、こんな歳上でしかも上司である人間が、わたしなんてどうにもならない使えない部下を想ってくれていたなんて考えもしなかった。
パワーハラスメントという言葉がある。
最近、セクシャルハラスメントという言葉の次に良く聞くことのある言葉で、わたしの会社でもその件では何度も取り沙汰されてきた。
メディアに面白おかしく書かれるようになって、小さいことでも物凄く大きなことのように見えてくるものだ。これまで曖昧にされていたものが、その明確な名前を持って表面に出て来ると本質を見失う。
対策として、会社が始めたのが苦情箱だ。
勿論、米川のように真実のセクハラや、他の上司からのパワハラという件で投書もされただろう。悩んで悩んで、苦しんでやっと設置された苦情箱に匿名で相談した人間もいるのかもしれない。
それでも苦情の大半は、ただの八つ当たりだ、と担当が言った。
誰彼が無理やり仕事を押し付ける。言い訳を聞かないで怒鳴り付けた。金を貰う為に働く仕事場で彼らは友達付き合いをしたいのか、それとも辛くない程度の仕事をして給料を貰おうとしているのか。
菱谷が疑問に思わなくともわたしだって思っている。もしかしたらこの脳味噌は既に彼色に染められているのかもしれない。
部署内の空気が悪いと、必然的にパワハラやセクハラを疑われる。一枚でも苦情箱に投書が入ると、会社の上から極秘に調査が入る。
わたしが怖がっていたのは、それだ。
決して彼はいい上司ではないのかもしれない。頭が固くて話は通じないし、こうと決めたら部下の意思を完全に無視して一人で突っ走る。
何度言っても、仕事を抱え込みすぐワーカーホリックになる癖は直らないし、インスタントコーヒーしかないって言っているのにわたしの淹れたコーヒーのさじ加減に文句を言う。大体、コーヒーがさじ二杯でもさじ一杯半でも大した変わりはないだろう。色だって同じだ。
すぐに気分で怒る。
彼は上司でわたしは部下だ。そんな状況もたまにならあるだろう。特に胸に抱え込み易い彼ならば、暴発するときだってあっておかしくない。いつでも冷静かつ平然としている人間なんていないから。
わたしにならいいのだ、他の人間にさえ向けないのならば。
彼は誤解されやすい人だ。
米川辺りがいつも尻拭いしてもらっているのに逆恨みして、苦情箱に何かをいれてしまうのではとわたしはいつも恐れていた。
それでいつか、彼がわたしを置いて違う部署か、もしくは違う支店へ移動してしまうのではとわたしはいつも恐れていたのだ。
どうしてそう思ったのかは分からない。
最初は彼の下に配属されて正直毎日が辛かった。存在に圧迫されて、胃が病んだ時もあった。
言ってる意味が難し過ぎて良く分からない。経済新聞から抜粋された様な彼の物言いを、理解するまで黙り込むとそれに対しても叱責された。
噛み砕いて説明するという心遣いはいつも無かった。分からないと言えば、調べろ、と返された。わたしの口調が年相応なのではないのは、恐らく三年で培った菱谷語録の所為だ。
それなのに、たまに無意識で見せる弱さや頑なさに目を背けることが出来なくて歳上なのに保護欲がそそられてしまう。
一人で立ってるその姿は潔くて、苦しくてもどかしかった。
わたしが仕事を覚え上手く回すのが難しいように、仕事ではない簡単だと思われる部分を上手くできない人間がいる。
わたしが補えばいい。それでわたしたちは完全な人間になるのだろう。円形には角がない。でも四角形には曲線がない。重なれば、無敵だ。
そう思っていたのはわたしだけかもしれない。そう思うと途端に怖くなった。
話さなくちゃいけない、そう思った。
背を向けて油断している菱谷の手から、わたしは強引に履歴の表示された携帯電話を奪い取った。
「家へ入れて下さい。寒いんです」
まるで米川から聞いたビジネスバッグの攻防戦の再来だ。
わたしは簡単に奪い取られないよう、コートの胸元にそれを抱え込む。菱谷にはそこが最適で困難な突破口だろう。
敵もさることながら、
「断る。寒いのは自己責任だろう。そのマフラーをやるから、さっさと帰りなさい」
そうやって手を伸ばしてくる。
携帯を返せと、無言でわたしに訴えて来る。立ったまま向き合うなんて、わたしには珍しいことだ。案の定、圧迫感に右足を後ろに一歩ずらした。
「逃げるんですか」
「誰からだ。話をすりかえるな」
返答が即座だ。もしかしたらこれは昨夜押し問答したことを繰り返しているだけなのか、と思わず頭に過った。
このまま、酔っ払った記憶が簡単に戻ればいい。彼のコンプライアンスを打ち崩す何かがそこに隠れている筈なのだ。頑なな鎧を脱ぎ捨てるまでにいたった魔法の言葉がそこに眠っている。
でも閉じてしまった扉は簡単に開かない。
彼はきっと自分の想いをパワハラだと判断して押し込めてしまったんだろう。わたしが彼の部屋で今朝、土下座してなかったことにして欲しいと懇願した為に菱谷は針で突き刺された穴に封をしてしまった。
まさかわたしだって、こんな気持ちが自分に眠っているなんて思いもしなかった。
それに気付いた時に、彼は気持ちを押し込めてしまうなんてお笑い草だ。
本当にわたしと彼は破れ鍋に綴じ蓋。鈍感さで言えば、似た者同士だ。
今、ここでわたしが彼の扉をこじ開けて引き摺り出さないと誰も菱谷の面倒な内面になんて気付かないだろうし、この役目はわたしにこそふさわしい。
「わたしからです。忘れたとは言わせませんよ」
実は忘れたのはわたしの方なのだが、その件には触れずにおこう。
彼の弱みは、わたしという、本来は部下である恋愛対象には程遠い人間を抱いてしまったことだ。
こんなあからさまに見える弱みに攻撃しなくてなんとする。立ってるものは上司でも使う、今度はそういう座右の銘も加えることにしよう。
黙り込む菱谷の前でわたしは偉そうに仁王立ちをしながら、内心で物凄く恐れていた。
「朝、動揺して無かったことにしたいとは確かに言いましたけど、本当の所そちらはどうなんですか」
こっちは記憶が皆無だが、そっちはそれなりに濃密な記憶が残っているだろう。
菱谷は口を開かない。それが不安を煽る。
わたしが思った通りに、本当に彼はわたしの事を想っているのか。もしかしてそんなことはただの妄想で、ただ単に勢いで抱いただけなんじゃないのか。
わたしが勝手に勘違いして、また一人で突っ走っているだけなんじゃないのか。離れたくないと、無意識にもただひたすらに動きまわっていたわたしが馬鹿だったのか。
泣きそうだ。本当は恋に順番なんてない、それはわたしが今身にしみて理解し始めている。
どんな順番だったとしても、まず始まりがあり、いつか終りが来る。それだけだ。終りの後にもしかすると幸運な人は寄り添うチャンスが来るのかもしれない。
それでも、そこに至るまで成功率なんて言うものは関係なくて、ただ素直にただ真っすぐ向かっていくだけだ。どんな理論もそこにはない。
成功なんて、死ぬときまで分からないんだから。
「円居は部下だ」
憎らしい程、顔色一つ変えず菱谷はわたしを見下ろしてくる。
手を伸ばせば抱き付けるほどなのに、誰かが通り過ぎるわたしたちを見てもそんな関係だとは気付かないのだろう。
きっと厳しい上司と、叱られている暢気な部下。彼から放出される恋愛関係とは思えない程の圧迫感がそう思わせてしまうに違いない。
それじゃあ、駄目だ。
「そんなこと、知っています。ほら、また逃げようとしてる」
彼が眉を上げた。
随分と馴れ馴れしい言い方をわたしは上司にしていると思う。本来の彼ならば、ここですぐに叱責し声を僅かに荒げるところだろう。お前は上司をなんだと思っているんだ、言われるのはそんな所か。
部下はあくまで部下だ。
上司はあくまで上司。
そのスタンスは菱谷の決まりごとであり、覆すことは難しいだろう。だからわたしは部下であるスタンスは貫き通す。でも、わたしはその固有名詞に付属する何かが知りたい。
頑なな扉を叩き壊したい。
風船が四角い鉄の塊になったのだとしたら、溶かしてプレスして丸く作り変えてしまえばいい。
三年かけて、わたしはそれだけを彼から得たのだから。