突き出し、押し倒し
もし、もしも、だ。
恋というものが天啓の如く天から勝手に下りて来るものだとして、本人の預かり知らぬ所で勝手に進行しているってことはあるんだろうか?
水面下に置ける水鳥の努力。平穏な面持ちで水面を流れていく水鳥は、常に物凄い勢いで水かきの付いている足を動かしているのだという。
シンクロの女性たちが、腰より上を水面上に出し続ける時の足の動きにも似ている。
恋をしたい。有り余る情熱に任せて転がり落ちるように恋をしたいのだと熱望していた筈なのに、わたしはもしかして水面下で必死の努力を続け、実は虎視たんたんと浮き上がる時を待っていたんだろうか?
それは無意識での恋愛汚染。
水面下で気付かれないよう進行し、ある日突然水の上へ飛び上がる。まるで華麗にジャンプするイルカのように、その気持ちを本人に知らしめる。
そもそもわたしは自分をもっと質実剛健な人間だと思っていた。長女ということもあり、冒険の出来ない慎重な人間だとも。
確かに座右の銘はそれとは正反対の『明日できることは今日やらない』という随分いい加減なものではあるけれど、それでも仕事に対して軽い気持ちだったことは全く。いや、数えられるほどしか無い。
男女関係に至っては、クソが付いてもいいくらいに真面目な交際を基本としてきた。
加点の話をしよう。
菱谷は点数に限っていえば、十分にわたしの射程範囲内(これまた随分と偉そうではあるが)である。
ただ、彼はわたしのトラウマでもある歳上であり、その上非常に面倒臭い上司というハードルがある。
今となっては断言できる彼の着痩せするらしい体付きの良さは確かに加点対象だけれど、今朝この目で確認するまではまさかそんなことを考えもしなかった。
確かに仕事は出来る。でも、その所為で人間らしさを失っている。
身長は高い。見下ろされると圧迫感を感じ、目の前からさっさと退散したくなる程だ。部下であるわたしだって、彼と立って真っ向に向きあうことはせず、基本デスク時を狙う。
そして、優しさのボーダーラインがどんなに低くとも、彼は『優しい』と言われることは一生ないだろう。
菱谷を形容する言葉に、厳しいとか、険しいとか、鋭いという言葉はあれど、丸みを帯びた言葉にはとんと深い付き合いがない。
大体、毎日怒られる日々にどうやってときめきを感じろというのだ。
酒は人生を変えるという。
本来隠し持っていた奥底の自分を解放し、枷のない自由な自分が顔を出す。それが正しい酔っ払いの姿だ。
悲しいことが心を占める人間は泣き上戸となり、愚痴を飲み込みがちな人間は絡み酒となる。
笑い上戸になる場合は、と、これ以上語ると長くなりそうなので省くとして、どうもわたしは何かここ最近、常に何やら発散できない感情を菱谷に抱いていたらしい。
それが昨夜、最悪の状態で暴発した。昨日のわたしは、期間限定で起こりうる対象に限りのある絡み酒だ。
そう。これまで恋愛に限っていうのならばわたしは、石橋を叩いて渡らず心配で叩き壊す程かなりの慎重派であり、場に流されたりビビビと感電する様な恋に落ちる程情熱的な人間ではなかった。
昨日までは、そう思っていた。
いや、今朝彼の横で目覚めるまではそう思っていた。
もしかしたらわたしは、彼を強引に押し倒し事に及んだのかもしれない。
恐らく酒の勢いに任せて。
視線が痛い。
向けられる視線だけでもなんとなくわかる。
彼は、何かをわたしに言いたいのだ。でも、わたしは気付かない振りをして俯く。
わたしは俯いたままで先程菱谷に頼まれたばかりの書類と向き合っている。
顔をあげずとも分かる鋭く抉り取る視線は、菱谷のものだ。今現在、この部署にはわたしと彼しかいないから当たり前だ。
終業時間は既に二時間を過ぎている。
わたしの机は、残り数枚になって帰宅のカウントダウンがやっと始まった書類が重なっていた。彼の視線を全身で感じながら、忙しなくボールペンを動かす。
菱谷のデスクからも同じ音が絶えず聞こえてくるので、彼もまた仕事が溜まっているのだろう。
逆を言えば、仕事が溜まっていないという状態を見たことがないから、デスク上には決済やチェック待ちの書類で溢れ返っているのが容易に想像できる。
本日二度目の説教は、仕事に集中していない、というありがたいんだがありがたくないんだかメンタル面についてのお叱りだった。
彼の呼び出しを聞き逃すこと、四回。
提出書類の件に限っていえば、朝のミス以外はきちんとしている筈なのに、ただ声を聞き逃しただけで叱責されるこの不条理。
おい、と呼んで「何ですか」と言われたいならさっさと結婚でもして家庭でやりたいだけしていたらいいのに、どうもそういう訳にはいかないらしい。
そして結局はミスをした三門の尻拭いも、彼は全て抱え込んだ(もう一人の上司は華麗に定時帰宅だ)ようだ。
自分の尻拭いは本人にさせたらいいのに、菱谷はミスに至るまでの経緯を説明し、噛み砕いて三門へ教え込むまで必要な時間と、自分が全てやってしまう時間を秤にかけて、結局自分でやった方が楽なのだという結論に落ち着いたらしい。
そんな事をしていたら、菱谷の体はいつか限界となり、この部署の人間はいつまでたっても彼を恐れながら利用することから脱却できないだろう。
部署内の親睦を深めるという名目で開かれた昨夜のような飲み会は、四半期ごとに一回ずつ催されている。
各自、親睦会費という名目で給料とは別に納めている為に飲み会は半強制的だ。
いつもなら残業で足並みを揃えることを嫌う菱谷も、この日に限りは断ることが出来ずに一次会のみの顔出しとなった。
なあなあで挨拶の後、最初は菱谷の存在に緊張しながらの始まり。
勿論、猫用の鈴であるわたしは菱谷の隣の席を固定にされ、ただひたすらに無言で飲み食いする彼のグラスにウーロン茶(まだ仕事があると、彼は酒を辞退したのだ)を入れ続ける。
こんな時くらい、アルコールを一口でも飲んだらどうですか? 頭が柔らかくなりますよ。そうわたしが口にしたのは、飲み会が始まって四十分が経過した頃だったらしい。
その時既に、わたしの前には日本酒の注ぎこまれた枡(枡酒を飲んでいたようだ)があり、なかなかに目が座っていたようだ。
勿論、保志野と土田はすぐにわたしの前から酒をひっこめたのだという。
米川と三門に至っては、場の凍りついた間に入るなんて命知らずなことは出来ず、状況の悪化を想定してもう一人の上司の傍へと移動した。しかし、彼は既に飲み潰れていたらしいが。
菱谷は詰め寄るわたしの額に、なみなみと(わたしに)ウーロン茶が注がれたグラスを押し当て、
「飲み過ぎだ。円居」
と表情も変えずに、そろそろ無礼講になりつつあるわたしを諌めたらしい。
その後、彼は状況を見てお開きにする時刻だと勝手に判断したのか。財布から万札を二枚出し、流れるように席から立ち上がった。
その金で二次会を楽しめということだ。勿論、こんな息苦しい飲み会よりも菱谷もいないし金も出して貰える飲み会の方がいいだろう。主に米川を中心として女性陣もそんな菱谷を留めずに見送ろうとした。
が、わたしは違った。
立ち上がる菱谷の腕をひしと掴み、逃げるんですか、と一言。
珍しく言い返す言葉を失った彼を間近で覗き込み、そうやれば何とか上手くやって行けると思ったら大間違いですよ、と続いて説教。
上司と部下との線を越えた物言いに眉を上げた菱谷を見て、土田はやっとわたしの腕を掴んで押しとどめようとしたものの、わたしはそれを振り払い、立ち竦む菱谷からビジネスバッグを奪い取ろうとしたらしい。
そこで渡せ、渡さないの攻防。
結局、呆れ顔の菱谷は仁王立ちのわたしを放置してその場を去ろうとし、わたしはコートとバッグを引っ掴んでその後を追っていったらしい。
まさかその後、あんな状況でわたしが目覚める事も知らず、同僚たちはその背を見送った。
だが、出来るのなら全力でわたしを押し留めて欲しかった。
確かに男の人は下半身と上半身の神経回路が別々なのだ、というのはよく聞く話。
どんなに生真面目な人間でも、一度『据え膳食わぬは男の恥』だと思ってしまうとなかなか収まりが付かないものらしい。わたしだって子供ではないから分かっている。
でも、それは『普通』の人間の話。
菱谷の部下になって三年、彼に浮いた話は無い。良くあるどこぞの部署の誰かが菱谷を想っているなんて話も聞かないし、菱谷に至っては人間の区分けは男女ではなく、仕事に関係のある人間とそれ以外、という区分しかないんじゃないだろうか。
そうなると、ずっと考えないようにしていたけれど、気になっていることがある。
じゃあ、どうして彼はわたしを抱いたんだろう?
酔っ払いだったわたしが百歩程譲って彼に迫ったとして、何も自分の家まで連れて行って最後までいくにはいろいろと条件が足りな過ぎる。
彼もその後、酔ったのだと仮定しても、あの機械人間が前後不覚になり部下である人間を抱く程に酩酊するものだろうか。全く考えつかない。
いつもの彼ならば、説教魔となったわたしを結局は叱責して、いうことを聞かないから無理やりタクシーに押し込んでしまうのだろう。むしろ寒空に放置してもおかしくない。
彼に何が起きたのか、わたしが何を言ったのか。わからないし、思いだせない。
わたしは最後の書類を捲り終えると、机の引き出しを開け使っていたボールペンを仕舞った。
圧迫される程に感じる菱谷の視線、分かってるのに気付かない振りをまだ続ける。いつもよりも丁寧に書類を纏め、菱谷愛用のやたら固いクリップで端を止めた。
カチカチと時計の音が部屋に響き、パソコンがその熱を追い出すファンの音が物凄く大きく聞こえる。
小さな叩き付ける音は、聞き慣れた指先を机に叩き付ける音だった。
早く書類を持って来いと、彼は苛立っている。
もしかしてわたしがデスクに近付く機会を待ってるのかもしれないし、ただ単に仕事が進まないから書類が早く欲しいだけかもしれなかった。
立ち上がって、菱谷のデスクを見て、こんな時間になってもまだ残る仕事の量に彼は今日も残業をする気なのを知る。
本来であれば、昨日も飲み会に行く余裕なんてなかった。わたしは彼の部下だ。良く分かっている。
上手く仕事を配分できるのがいい上司だというのであれば、もう一人の上司の方が部下にとっていい上司であり菱谷はきっと駄目な上司なのだろう。
彼が上に立つことで、成長できない部下はいる。何でもやってくれる上司、難しい案件を譲らず全て処理してくれるのであればどれだけ下は楽が出来るだろう。
機械人間だってオーバーヒートする。どんなに仕事が出来る機械だって受け入れるだけの容量があって、それを超えるとフリーズしたりするのだ。
「遅い」
机の上を見たまま立ち止ったわたしを、菱谷は我慢できなかったらしく睨みつけた。
伸ばしてくる手にわたしは無言で書類をのせる。
あんなにヘビースモーカーだというのに、彼は仕事中には一本も煙草を吸おうとはしない。書類を捲る指を見詰め、もの寂しそうだと思った。
捲る、捲る。そのスピードはチェックしているというよりも、ただ単に捲っているだけのようにも見えて、待つ時間が息苦しい。
今日は何時まで仕事をするつもりなんだろう? 決して仕事が出来ない人間ではないのに、この量がこの時間にもまだ残っているというのは明らかな許容オーバーだ。
自分の限度を知らず、菱谷は無理をし続け、ひたすら自分に課せ続ける。彼は人にも厳しいけれど、自分にはもっと厳しい人間なのだ。だから、たまに見ていられなくなる。
酔っ払ったわたしが彼に言った言葉、それはきっとわたしの本心だろう。
「昨日は、すいませんでした」
わたしの声に、菱谷は顔を上げる。
書類を最後まで捲り終えた所で、指は宙を切った所だった。
「朝、聞いた」
彼の指がワイシャツの胸元を探り、一度止まると背広から手が出てきた。無意識に煙草を探ったということは分かった。
「灰皿、持って来ましょうか?」
勿論、そんな例外を彼が許す筈も無く、
「仕事中だ」
と厳しい声が返ってくる。
なんなんだろう、この面倒臭い人は。立派な大人だというのに、仕事だけ出来てこれじゃあ片手落ちだ。
たまに張り詰めたこの風船に、思い切り針を突き刺して空気を全部抜いてしまいたくなる。そんな気の抜けた彼をわたしは今朝、彼の部屋で見た筈だ。
わたしをデスク前に置いたまま、菱谷は仕事へ視線を戻してしまった。
コーヒーでも持ってこようか。考えて、止めた。
彼はわたしに無駄な仕事を望んでいるわけではない。わたしはこの二時間で残業代が出ても、管理職である彼はそんなものが出ないのだ。仕事を終えたのなら速やかに帰って欲しい、と菱谷は思ってるのだろう。
残ったのは雑務のようなものだ。もうわたしが手伝えることはなく、恐らく彼も今日これを全部終えてしまわなくても明日に支障はない筈なのに菱谷は仕事を止めようとはしない。
「お先に失礼します」
わたしの言葉に返事は無かった。
何か言いたげな視線。目は口ほどに物を言うっていうけれど、分かっていても心を揺さぶられる。
馬鹿な人だな、って思った。
どうしようもなく手間のかかる面倒な人だな、とも思った。