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はじまりはじまり

 人を好きになる時って、どういう順番が正解なんだろう。

 きっと人によって違うのかもしれない。

 分かっているのに今切実に、一番成功率が高い順番が知りたくて仕方がない。


 まず、どこでもいいから好きな箇所を見つけて、そこを足がかりにしてどんどん好きになったり、気になり始めたりした方が成功しやすいんだろうか。

 でもそれではもし間違った人を選んだ時、不幸のどん底に陥りやすい。例えばその人が誰かのものだったり、タイミング的に無理な人だったりとかよくあることだし。

 簡単に諦めることが出来るのならばいいけれど、そんな訳にもいかない。

 恋愛にブレーキなんてきかない。始まってしまった恋は後は加速するだけで、余程の事がなければ失速できない。狂った暴走車みたいなものだ。

 それじゃあ? と、考える。


 例えばわたしの場合だったら、恋は加点から始まるのだ。


 まずは人のものか否か。既婚や相手持ちはその時点で完全に削除、それでいて歳上も削除する(昔、歳上で手痛い失恋をしたことあるから)。

 身長がわたしよりも五センチ高い時点で加点一。優しければ加点一。それに車持ちなら加点一、仕事が有能なら加点二。顔は悪くさえなければ加点一、別に見るに耐えれるのであればプラスマイナスゼロ。筋肉質であれば加点二、筋肉質では無くても男らしい体付きであれば加点一。

 ってな具合になる。

 満点でなければ相手にしないってわけでもないけれど、出来るのなら条件のいい自分にあった人間を相手にしたい。

 だから、これはいわば、ちょっとした自分の儀式だ。

 恋をしよう、恋をしよう。条件のいい人を見つけて、加点を繰り返しながら、わたしはいつも自分に言い聞かせる。我ながらなかなかに姑息な恋愛法だ。

 転がるように恋をしたいと、たまに思う。恋は盲目、恋は闇。そんな風に転がり落ちていく恋に出会いたいとわたしだって思う。

 でも、いつもわたしはまず身構えて加点して、満足な人が現れたから恋をしよう。恋をするべきだと自分に言い聞かせて慎重に恋に踏み込むのだ。

 それが一番、失敗の少ない順番なのだと信じていた。

 そう、あの時までは。


 つい、昨日の夜までは。




 ――――――重い瞼を押し広げて、最初に見えたのは広く白い天井だった。


「……ん」

 首筋から頭に掛けて鈍痛がして、まだどことなく視界が歪んでいるような気もする。

 朝陽に透けているアイボリーのカーテンは真ん中が十センチ程開いていて、その隙間から白く射し込んで来る光が見えた。随分と寝入ってしまったらしい。

 広い壁には見慣れない絵が掛かっていた。薄いピンクと薄いベージュで描かれた抽象的な絵は、豊満な女性が腰掛けている様にも涙ぐんでいる様にも見える意味深なものだった。

 何も置かれていないコンソール前に無造作に引かれた椅子の背もたれには、コートとおぼしきものがしなだれかかっている。

 ここは、一体何処だろう?

 アルコールで怠惰になったわたしの脳味噌がやっと動き出して、一番最初に思ったことはそれだった。

 重い体を動かさず、視線だけで辺りを見回して、窓際に置かれた一人掛けのソファーに自分のバッグを見つけた。何かを探した後なのか。バッグのファスナーは開き、辺りに中身が飛び散ってしまっている。

 口紅、財布、ハンカチ、終いには近いと予測して用意していた生理ナプキンまでも散乱して酷いありさまだ。もっとついでに言えば、どうしてかわたしのブラジャーまでもがソファーの背凭れに鎮座している。


「………………」


 服。そうだ、服。

 寝転がったまま手探りで、自分の胸を触って気付いた。

 上半身は勿論、下半身すら何も身に付けていない。それどころか、何と無くどんより灼熱感のある下半身が何かの異変をわたしへ知らせて来る。

 きっと生理が近いとかそういうものではない、んだろう。勿論、それはわたしにだってすぐにわかる。でも、明確な判断をしようにも経験の乏しいわたしでは即判断することが出来ないのだ。

 意図的に見ないようにしていたわたしの横からシーツの衣擦れが聞こえて、ぎしりとベッドのスプリングが歪んだ音がした。

 思わず飛び上がって、手元にある布団を引き上げる。

「……今、何時?」

 壁に掛かる白い時計を見る。

 いつもよりもけだるげな低くかすれた声が時間を聞いてくるから、思わず普段通りに返してしまった。

「あ、はい。今、は……六時十二分です」

「そうか。ちょっと寝過ぎたな」

 ぎこちなく軋む歯車人形みたくぎしぎしと視線だけをそちらへ向けると、ベッドの端に腰かける彼の背中だけが見えた。

 いつものようにはワイシャツや背広に武装されていない剥き出しの背中が見えた。勿論、それは女性ではあり得ない。

 何が起きているのか、本来あり得ないようなことを想像してわたしの体が一気に総毛立った。

 肩から腰にかけて下に向かうと、やんわりと絞るような曲線を描いている。

 俯いているせいか、肩幅が物凄くあるように見えた。もしかして彼は着やせするタイプなのかもしれない。

 スーツ姿からこんなしっかりした裸体までは想像すらしていなかった。しかし、それも仕方ない。こんな状況に誰がなると思っていただろう。

 少なくともわたしはこれぽっちも考えてもいなかった。

 けだるそうに彼は小さく溜息をついて、ベッドサイドに置かれたテーブルからいつもの見慣れた腕時計を手首に付けて、指の間に煙草を挟んでふらふらと揺らせて見せる。

 これはサインだ。吸っても構わないか、わたしに確認しているのだ。これもまたいつも通りだった。

「……………どうぞ」

 ライターが火を噴き出す音がして、すぐにうっすらと煙の臭いがし始める。

 わたしはこの場で立ち上がってしまう(勿論全裸なので)訳にもいかず、所在投げに手元の布団を口元まで掴み上げた。まあ、ただ煙かったともいう。

 彼は、わたしが煙草の臭いが苦手だということを良く知っていた。それでも、今現在こちらに拒否権はない。


 まず、わたしはこの状況を把握するべきなのだ。


 この部屋は、状況のみで推測するに彼の自室なのだろう。

 何故この部屋にわたしがこんな状態でいるのかは考察を後にすることにして、彼は自分の家にいるだけなのだから上半身が全裸(下半身については未確認)なのは全く問題は無い。

 本来ならば、煙草だってこちらには拒否する権利など無いから、彼がわたしに了解を得る必要はない筈だ。だから気遣ってくれたのだ、ということは分かった。

 わたしはこの場の闖入者。

 しかし如何せん、こちらにはここに至るまでの記憶が全くない。それが問題だ。

 色々と『いたした』のか、『していない』のか。

 本人素っ裸で今更悩むのも馬鹿らしいけれど、ズバリそのものを本人に問い掛ける訳にもいかず、ただただ記憶を辿る。

 

 が、直ぐに諦めた。


 覚えているのは、馬鹿げたことばかりだ。

 酒浸しな脳味噌は肝心な所の記憶はさっぱりで、余計なことばかり記憶に留めているようだった。

 一番はっきりと覚えているのは、酎ハイの後に勧められた日本酒を飲んだことだ。

 純米吟醸酒だとお猪口に注がれた日本酒は、辛口なのに甘さを感じる程にすっきり飲み易くて、つい次々杯が進んだ。ワインにも似てのどごしが良く、米なのにどことなく花のような可憐な香りも気にいったから、勧められるままにどんどん飲んだ。

 重要なことは殆ど覚えていないのに、酒の味だけはよく覚えているとはどういうことだ。

 記憶を辿ると、彼の背中向こうに見えるキッチンは何と無く、記憶の奥底に残っているような気もする。

 薄いアイボリーの天然木が貼られたシステムキッチンは、独り暮らしの男の部屋にしては随分と贅沢な作りで、しこたま飲んだ酒で調子に乗っていたわたしは「この独身貴族め」とやたら毒づいた気がするようなしない様な。 

 いや、言った。確かに言った。

 背中向こうから煙が流れて来る。

 薄いグリーンとグレーで描かれたチェック模様の布団カバーに隠れて、彼の腰から下は見えない。

 大きく見える肩から腕のラインがゆっくりと動く度に、見慣れない生き物を観察しているような気分になった。

 動物園の檻の向こう、決してこっちを向こうとはしない野生の生き物を遠い外側から眺めて、自分の知識として脳味噌へ取り入れているような妙な気持ちになる。

 こういう人間もいるのだと、美しい線を辿って標本にでもしてみたくなってしまう。決して自分の横に置く人間としてではなくあくまで観察対象としてだけれど。

 まさか彼に対して、こんな気持ちを抱くとは思ってもみなかった。

 アルコールで愚鈍になった頭が冴えて来ると、やっと色々な脳味噌の稼働が可能になってくる。

 そうだ。途中、水を飲みたいのだと我儘を言ったことは覚えている。

 誰に言ったのかは全く覚えていないけれど、

「ああ、水」

 吸い途中の煙草を灰皿に置いた彼から、半分飲み終えたミネラルウォーターのペッドボトルを手渡されて、相手が直ぐに判明してしまった。そうか、彼に言ったのか。なんと図々しい。

「ありがとう……ございます」

「甘露、なんだろ?」

 背中越しに渡されたボトルを受け取ると、大きな三角の背中が揺れた。くぐもった声がしてきて、それが笑い声ということに驚く。

 本当にもうどうにかなってしまいそうだ。

 目が覚めてから、まさしく驚天動地。普段見ないものばかりを見過ぎて、知恵熱でも出してしまいそうだ。

 わたしはボトルを受け取ろうと布団から伸ばした腕から肩、そして上半身が何も身に付けていない剥き出しなままなのに改めて驚き、ボトルを奪うように引っ掴んで直ぐに体を布団へと退散させた。

 言われてみると確かに、日本酒あとの水は甘露だ、と叫んだ覚えがあるような、無い様な。

 と、いうことは多分言った。どうにも記憶喪失なこの状況、馴染めない。

 ゆっくりと煙を飲み込む様に一本、次は小刻みに煙を吐いて二本目。煙草を吸い終えた彼は、片手で乱暴に頭をかくと、

「会社……いきたくねえなぁ」

 とらしくなく、乱れた口調でぼやいた。しつこいけれど、そんな小さなことに何度でも驚けるわたし。

 何やら随分とお疲れらしい彼は、わたしが返事をすることを想定していないのか。ぼやくだけぼやくと恐らく洗面所がある方へと消えていった。

 大股で歩いて行く彼の姿まで視線で追うということはせず(万が一彼も全裸だった場合を想定して)布団内で静かに目を閉じ、聴覚のみを頼りに彼がシャワーを浴び始めた事を確認すると、わたしはベッドから勢いよく立ち上がった。


 と、そのままベッドに突っ伏した。


 どれだけ昨夜は酒を飲んだのだろう? 体の重さが半端無い。

 寝転がっている間は微かな鈍痛で済んでいた頭痛は、勢いよく起きあがった弊害で鳴り止まない除夜の鐘へ一気に進化する。

 ソファーに鎮座したブラジャーまでがやたらと遠い。しかも下半身の装備物が全く見当たらないのはどういうことか。

 シャワーを浴び終えた彼が戻って来るという危機を事前に想定して、薄い布団を保険として体に巻き付けると、ベッド辺りを這いまわる。

 頼むから、今の状況で洗面所から彼が出て来る最悪の事態だけは避けたいものだ。間抜けすぎるから。

 ブラウスとキャミソールは重なって床に落ちていた。

 だからと入念に探した床には下半身の装備は落ちていなくて、結局ベッドの布団に絡まった状態で下着とスカートは見つかった。そんなことですら、昨夜の出来事を明らかにしているようで何と無く居心地が悪く、現実を突き付けられて困惑する。

 したのか、してないのか、という問いには確実に答えは出た筈だ。ただ認めたくないだけで。

 わたしはかき集めたもろもろを順番に身につけていく。

 こんな必死に着替えをした事なんてあっただろうか? 出張の為に乗る特急に遅れそうなときだって、こんな必死に下着を身につけた事なんてない。ブラジャーに肉を入れる姿なんて、出来れば誰にも見せたくない。勿論、ストッキングを履く時(わたし的には一番間抜けな格好だと思っている)も同様だ。

 最後に散乱していたバッグの中身を拾い集めていると、彼が洗面所から出て来る前にここから逃げ出してしまえばいいのではないか、と考え付いた。


 でも、直ぐに考え直す。 


 きっと行きずりの相手だったら、後腐れなくそれで終わる事も出来たのだろう。

 一時のお楽しみの相手として(そんな経験は金輪際わたしには無いけれど)割り切って全て無かった事にでも出来るのかもしれない。

 互いに楽しんで(ちなみに何度もいうけど記憶はない)、大人なんだから、とちょっと危険な遊びをした気持ちにもなれたのかもしれない。

 でもそれは、軽いラブアフェアな相手だった場合だ。

 わたしの一夜の相手は、わたしにとって上司という存在で、しかもよりにもよって常に行動に指示を仰ぐべき直属の上司だ。毎日顔を合わせなくてはいけない人間なのだ。

 ここで逃げてしまえば後は地獄。彼がプライベートをオフィシャルに持ち込む心の狭い性格だとは思えないけれど、勝手に部屋から逃げ出した人間を広い心で見逃すとも思えない。

 どういう状況で、わたしと彼はそんな状態になってしまったのか。考えても全く分からないから、危機的状況の対処も分からない。

 何と無く雰囲気でそんな状況に陥る、なんて全くもって想像もつかない。

 極端な話、飲み潰れたわたしを介抱している内にわたしが勝手に服を脱ぎベッドに入って爆睡してしまったのだと後から彼に暴露されても、何ら疑問は持たないだろう。

 むしろ、一時の恥をかいてもいいからそうであって欲しい。

 しかし、全く覚えてません、とはっきり言っていいものなんだろうか。彼の反応をいまいち読み取れないこの状況で。

 そうこうしている内に洗面所とここを閉ざしていたドアが開いて、彼が戻ってきた。

 上半身は裸にバスタオルを肩に掛けた状態だったけれど、下半身はグレーのスウェットパンツを履いていた。

 まず、それに凄く安堵する自分が情けない。


 彼は、リビングの真ん中にあるテレビの真ん前に正座したわたしにぎょっとした顔を向けた。


 髪を洗って来たらしく、いつものぱきっと後ろに流している髪の毛ではないのが余計にわたしを緊張させた。

 視界に入る乱れたままのベッド。記憶が無いってだけで、あの場所でそんな時間を過ごしたのが自分ではない様な、そんな不思議な感覚だ。

 わたしはフォーマルな謝罪スタイルだった。

 そのものズバリ言ってつまりは、土下座だ。

「大変、ご迷惑をおかけしました」

 泥酔したわたしにそんなことが可能だったのか、という余計な疑問はひとまず片隅に追いやった。

 もし可能であったとしても、その件に限っていえば責任はフィフティーフィフティー。大人であれば状況的に合意の上だろう。

 あくまで、上司に失礼を働いた部下としての義理を果たす。

 わたしが酔っ払って暴言(何故なのか、主にキッチンについてだが)を吐いたのは事実であり、そんな完全な酔っ払いの面倒をよりにもよって上司に見させたというのは部下としても女性としてもかなりの問題行動だ。

 両手を付いた毛足の長いグリーンのラグは、一見芝生にも似ている。

 そんな牛が草でも食みそうな長閑なラグの上で、まるで切腹でもするかの勢いで土下座する部下を見て、彼は何と思ったのか分からない。

 なんか馬鹿なことを始めた、と、仕事場で失態を犯したわたしを見下す時のように、大した感情のぶれも見せず冷酷に見おろしていたのかもしれない。

 しかしこれを幸いと思うべきなのか、突っ伏したわたしには全く見えなかった。

「酒の勢いとはいえ…………いえ、わたし、言い訳はいたしません! 宣言します。今後はアルコールを一切断ちます! ですので……その…」

 昨夜のことは無かった事にして下さい。


「分かった!」


 叩き付けてくる激しい声にわたしの声は中断された。

「もう分かったから、そこをどけ。テレビのリモコンが使えない」

 なんと、残りを言う前にその件はあっさりとスピード承諾されてしまった。

 額に暢気な芝生ラグが当たり、そこへ頭を擦り付ける前に一人掛けのソファーへ腰掛ける音がする。

 しかも彼はこちらのこんな葛藤などどうでもいいことだとでも言うように、見慣れた気難しい顔でテレビの電源を入れた。

 天気予報が流れて、途端に日常が戻ってくる。

 彼は片手にいつ淹れたのか、湯気の立ち昇るコーヒーカップまで持っていた。ついでに新聞まで小脇に抱えていたから、芳しいコーヒーの香りの中、わたしはのろのろと屈んだままでラグから降りる。

 どこに行くことも出来ず、そのまま所在なげに立ちつくした。

 状況に頭が追い付かない。

 全てを無かった事にする。それはわたしの方が望んだことなのに、矛盾しているけれど自尊心を傷つけられたような、突き放されて悲しい様な気持ちになった。

 悔しいけれど仕事場の癖で、昨夜艶事を行った(らしい)女の前で暢気にふんぞり返っている上司の指示を待ってしまう。

 気持ちが泡立つ理由は分からなかった。それなのに、近くにあったクッションをその顔に叩きつけたくなる。そんな、自分にも気持ちが追い付けない。

 勿論、上司にそんな暴挙は出来ない。からぶる気持ちが一層、虚しさを呼びこむ。

 彼はそんな葛藤を知ってか知らずか、繁華街の火事のニュースから目を離さなかった。眉を微動だにもせずにコーヒーを一口飲む。

 そして、流れるようにオフィシャルな一言を口にした。

 それこそ全くどうでも良さそうに。


「仕事は遅れるなよ」


 残り半分になったカップをサイドテーブルに置き、剥き出しの体にTシャツを着ると彼はばさりと新聞を広げた。

 わたしの視界に入ってくるのは税率やら外交やら、殆ど興味も無く読みもしない小難しい新聞面。

 待っていた指示、というよりも、暗にさっさとここから出ていけ、と促された様な気がして安堵する前に、ぶわ、と何かがどこかから出てきそうになった。やっぱり、そんな自分が一番よく分からない。

「…………はい。失礼…します」

 ソファーに鎮座したままのバッグを引っ掴んで、彼を見ないようにして小さく頭を下げる。

 行きずりなんだと思い込むには如何せん、わたしの方に経験が少な過ぎて、こんなことにでも簡単に胸が揺さぶられてしまう。

 でもきっと彼にはこんなことは些細なことで、感情を揺らす事も何もなく淡々と過ぎていくいわば決済書類のようなものなのだろう。

 終わってしまえば、後はわたしだって次に回されるだけだ。

「お邪魔……、しました」

 わたし一人、余裕で寝転ぶことが出来る広さを持つ玄関で、アナウンサーの声が微かに聞こえるリビングを振り返る。

 白い壁紙とチェリー材とおぼしき濃い色のフローリングには汚れ一つ、塵一つ見当たらなかった。

 玄関のたたきにはきっちりと磨かれた革靴が鎮座していて、その横にわたしが投げ捨てたとおぼしきパンプスが片方横向きで、もう一方は大きな靴箱の下に転がっている。

 どうなんだろう、この状況。やっぱり部下としても女としても最悪最低の落第点だ。

 靴を拾おうと屈みこむ前、指を伸ばした先に見覚えのあるものを見つけた。

 フローリングに合わせているらしいチェリー材の靴箱上部の空間に、硝子細工が並んでいる。

 もしや、とそれを手にとって裏返してみれば、去年同僚と休暇を取って九州地方に旅行をした時にわたしが買って来たお土産だったことに驚いた。

 初日に何を買えばいいのか悩んで、その後最終日までそのことをすっかり忘れていた。結局思いだしたのは空港で、慌てて売店で購入したという、いわくつきのはっきり言えば誰にでも買ってくる間に合わせだ。

 こんな花形な場所に飾られると知っていたらもっといいものを選んだというのに、ちょっと歪んだ動物の顔はぶさ可愛いというよりも今改めて確認してもかなり滑稽だった。

 そんな硝子の人形は綺麗に磨かれ、切れ布を織り込んだ布に鎮座している。埃は勿論、曇り一つついていない。

 彼へ渡した時は喜んでいるのか、今すぐにゴミ箱行きなのか判別しにくい表情だったのに、こんなものを見てしまうともう少し考えて選べば良かったと何とも胸が痛んでしまう。

 リビングを振り返っても、大きな窓と外界を遮るカーテンが見えるだけで彼の姿は見えなかった。

 仕事開始まで時間も無く、きっと急いで自宅に戻る頃にはもうほんの少しの余裕も無いくらいのハードスケジュールになってしまうのだろう。急がなくてはいけない、分かっているのにグダグダと体が上手く動かない。

 観念してすっかり泥酔状態になっているパンプスを靴箱の下(勿論埃の存在はない)から引き摺り出して履くと、最後にもう一度振り返ってやっとここを出ていこうと覚悟を決めた。


 そうだ。記憶がないから、きっとわたしと彼はイーブン。

 それなのに、どうしてなのだろうか。もう既に気持ちは劣勢だ。

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