第一章
第一章
私は嘘つきだった。
嘘には様々な種類がある。雨が降っているのに「晴れている」という普遍的な嘘や、見当違いの発言をした者に向かって「お前天才だな」という皮肉的な嘘・ジョーク、また犯罪で言えば言葉巧みに相手を誘導し思惑通りの行動をさせる詐欺、現代で言えばオレオレ詐欺などがある。
嘘はその場ですぐに理解できるものもあれば、自らの不利を知って初めて、騙された、と言って技を見破るものもある。しかしその時点ですでに罠にかかってしまっている。暴力が物理力の行使であるのに対し、嘘は魔法力の行使である。虚構、実際にはない事実を粉飾する行為。相手にそれを植え付け、それを主題に置き換えさせる能力がある。すぐに嘘を理解し、暴いて得意気になっていても頭はそのことに囚われ、その後の行動・心境を縛る。それは嘘をついた者に不信を抱く、理論的な説明で反駁するなどがある。それは真実への背信という人が求めるものへの罵倒、それをやってのける相手への嫉妬などが無意識下に萌芽し、いわば惹きつけられるからである。
しかし私の嘘は、一風変わっていて相手に何ら損害を与えることなく、むしろリスクのない得のみを与える。さらに一回限りのものではなく、連続した事柄で、題目が絶えず変化し、嘘を意識させない。それ故見破られることは無い。見破られなければ魅力も感じられない。私は嘘の変種を持っていたのだ。
その論を支える根拠として有力であるのは、騙すのは厳密には相手ではなく、他ならぬ自分であるからだ。本来の性格を抑えこみ、仮の性格を繕い、それに設定された合理的な筋書き通りに行動することで、貨幣、動産の消耗という非合理的行動を選択させ、人との関係を調整し、仮の性格を自然になじませた。
ひなびた町の病院で生まれ、同町で私は生まれ育った。町の大通りには家と店とがひしめき合い、あまりにそれらが威を発するので道がおののき車を締め出し、半ば歩行者天国と化しているのが安心感を与える。人の往来が絶えず、賑わいで満ち溢れ、活況が壁に反響し、町全体を暖かく包んでいる。町外れには城下町の名残、小京都と呼ばれるほどの見事な武家屋敷があり、垣根、建築物共に黒一色に占められている。見つめていると黒が自分の顔の左右を駆け抜ける錯覚に陥り、いつの間にか黒の魔力で慇懃な気持ちにさせられる。雪の日には黒と白との照応が古くて新しい、自然と人工、その混淆の感慨を楽しませてくれる。そこを通る人力車に乗ると、時代を見間違うやも知れない。町を貫く河川の両岸には桜の品種ソメイヨシノが終りの見えないほど居並んでおり、春になると桜の花が陽の接吻を受け、川の青、土手の緑に親和して燦然と輝く。そのきらびやかさに、桜が川で川が橋という一種諧謔な風景が楽しめる。夏には曳山ぶつけの祭りがあり、町の部落ごとに山車を曳いて町に集積する。山車は大型トラックよりも大きく、山車の上には、枝ほどの細さに分けられた木を骨組みにしてその上から紙で肉付けされ、その上から顔を描かれ服を着せられた個性的な紙人形が一二体立ち構えている。山車には綱引きで使われるような綱が前後に二本ずつ尾を引いている。基本的に前の方の綱に三四十人集まり、一斉に引っ張って山車を移動させる。祭り開始の二三日後には果敢に山車同士を正面からぶつけ合って勝ち負けを競う。その際に山車の間に挟まれて大けがをする者も少なくない。それでも祭りが終わらないのはその危険を差し引いても魅力的であるからだ。先程勝敗を競うと述べたがそれはすでに決まっている、すなわち八百長なのだが、わかっていても、その存在の輝きがぶつかってより強く光を放つ様は見るものに無言を強いる圧倒感を持っている。また、山車をぶつけ合わない時間には山車の上に舞妓が三四人出てきて舞うのだ。色鮮やかな着物を着飾り、水の流れるがごとく自然に手が、体が揺らぐ。夜に見ると、空から降りる暗い帳、周囲に吊るされた提灯によるライトアップ、そして山車がステージへと様相を呈し、こちらをホールの観客に変貌させる。山車の“力”と舞妓の“技”が入り乱れる様はなんとも官能的かつ芸術的な美がある。この町は、春に桜、夏に祭り、秋冬に武家屋敷といった具合に観光客の誘致に暇がない。しかし、景観を損ねないために都会の大商店などは遠慮して来たがらなかった。
私の家は町の郊外の、山や杉の緑と田園と空に囲まれた郷曲にあり、家は祖先の無謀な増築のせいで無駄に広く、屋根は所々色がまばらで、壁面は祖父の趣味で緑や桃の色に染まって、珍奇な外見を保っていた。その家の正面右には、プレハブ小屋よりも二倍は広い父の仕事場がある。父の仕事は窯焚き屋で、小屋の中に設置されてある轆轤の上に陶土を置き、轆轤を電動で回しつつ手を陶土の外面に添えて、陶磁器の形を成していく。形が定まったら、小屋の奥に控えている釜の中にそれを入れ、蒸す。そうして出来上がった陶磁器を小屋の入り口やある旅館の店先に値札をつけて並べる。私は一家でその旅館に行った時、父の作品をしげしげと眺めたものだ。その小屋と家を囲む様々な木々は蓊鬱と繁り、私に閉塞感と雑多性を思わせた。
そのせいか、私は内気な子どもだった。友達と遊ぼうとしても欲求そのままに実現させることはせず、必ず誰かの仲介を要した。年の近い者と遊ぶ時も、親子会という地域の組合の呼びかけで子供が集まって遊び、保育園でも先生の仲介を経て女の子と戯れた。家に行って遊びに行く、なんてことは中学校に行くまでは全く無く、それ以来でも数えるほどしか無かった。誰かの家とはプライベートの塊であり、それをみだりに踏みにじることは許されないと恐怖していた。それは私自身、プライベートを重要なものと見ているからだ。個人の秘密、自由たる所以の源泉。飛行機の部品を全て見たいと言って飛行機を解体してしまったら、もう一度新たに組み立てない限り飛べない。プライベートとはそのようなものだ。それ故、私は愚図に手持ち無沙汰になって、いつの間にか一人遊びに長けた。特にブロックに熱中した。ブロックはその部品一つ一つはただの破片にすぎないのに、組み合わせることで様々な作品が出来上がり、それも何百種類以上もある。車やビルディングを造ったり、時には空想上の魔物を呼び出したりした。あまりに夢中になって怪我をしたこともある。ブロックで飛行機の形を作ってそれを高らかに掲げた右手に持って走り回っていると、足を躓き硝子戸を打ち破ってしまったのだ。その時に負った、右手の甲に漢字の一の筆記体のような傷が今も残っている。その内気な奔放にともなって、自分に課せられた義務には忠実に行った。散らかした玩具は必ず片付けたし、保育園のお遊戯会などは他の男子4人を後ろにおいて先陣を切って踊ったものだ。その反面、強制されることには不真面目だった。保育園で昼寝の時間があったのだが、私はその時ずっと目を覚ましていた。眠れないことを保母さんに訴えると
「皆眠っている。起きているのはあなただけよ。さあ眠って」
と言って取り合ってくれない。私は目を閉じたまま脳は活発に働いて一人遊びの算段を企てるのだった。
この強制されることとされないことの境界は曖昧としていて、私の気分次第だった。要するに気まぐれだったのである。だがこの時の私は素直なもので、可能なことは強制じゃない、不可能なことは強制だという分かりやすい思考回路をしていた。
善と悪、どちらにも転びやすい性格の私に対する親の教育は厳格だった。私は心を桎梏され、徹底した「正義感」を叩きこまれた。他人に迷惑をかけては駄目、我儘は駄目、不純な交友は駄目…当たり前のことだが、私には重荷だった。周りの子は進んでそれらを行うのだが私は許されない。私も進んで悪を行いたい!親の狼狽する姿を見てみたいと思った。しかしそれは心の中だけに留まり、実現に至ることはなかった。私は大学入学まで小遣いすら貰わずに慎ましく生きることとなった。
私には年子の妹がいた。年子というものは厄介で、自分が物心つかぬ内には親の情愛を奪い去る敵でしかなく、兄だ妹だなど聞かされても意味も感慨も私からは遠い場所にあった。友を作ることが苦手な私には親の情愛こそ心の柱であったのだ。それ故、事あるごとに…不肖ながら私から喧嘩を仕掛け、妹を泣かせては親の厳正な拳骨を食らっていたが、それは自然の摂理と未熟ながら認めていた。悪いことをすれば罰が当たる。正義感がインプットされていった。問題は、ある日珍しいことに妹から喧嘩を売り、それを買った私とのやりとりの最中の現場を目撃した母が問答無用に私を叱りつけたのだ。狼は石を投げる子供に腹が立って追いかけたら猟師に殺されるという悲劇、不合理、これを証明する者が実質いないという憤りが私の内から沸々と沸き上がってきた。しかしそれを解き放つ気にはならなかった。反論する術もなかった私は、説教の中、私は自分の本性を晒してきただけに、こうなった因果だ、ならば私は穏やかな、特に親の望むような、人に好かれる性格になろう、と心に抱き始めた。まあ、よくある話だろう。
保育園の時分のある日、私は戦国時代をテーマにした3DアクションのTVゲームをしていた。自分が敵武将を倒した時、相手は必ず肩を押さえて敗走するムービーが流れるのだが、私はそれを疑問に思った。何故決まって肩を押さえるのか。腕や腹、若しくは足を引きずっての退場ではいけないのか。そもそも何故生きているのだ。どう考えても逃げ場のない地形で倒したはずなのに、包囲をくぐり抜けて外見血も流さず比較的に元気に動くのはどうしたことか。
近くに居た父に聞いてみることにした。父はよく私にTVゲームを買い与え、私がプレイする様子を横から眺めるのが好きだった。父はよくアドバイスをかけ、私はそれに従った。その都度私と父の距離は縮まっていった。
この疑問はよく考えれば無駄手間省きのためのシーン統一であることは明白であるのだが、私はそんな疑問にかこつけて、疑問の解決よりも私と親とが意思疎通しているか、この事案の究明が何よりの急務に思えた。わざとかどうか言葉足らずに尋ねてみた。
「どうしてやられた時いつも肩を押さえているの」
「やられて痛いから肩を押さえているんだ」
「……」
絶望のあまり黙った。意に沿わぬ親、未熟な私、言葉を出せば続くであろう押し問答の面倒、また親も「人間」だ、人の心は読めないという現実を鑑みて、私は親に頼らず自己解決する志向を持つようになった。この事件と前の事件が、私の性格の矛盾の根底をなしていくこととなった。
それから数年もしない内に起こった今度の事件は、今でも私を悩ます脳内の二人の私の対立を生じさせた。当時、ある宗教の座談会が祖父母の主催により我が家で度々行われていたので、私は半ば強引に参加させられていた。仏壇に向かい両手に数珠を持ち、経文を唱える。それだけのことで、全く苦にはならなかった。仏壇に向かって皆で数珠を持った手を摺り合わせて経文を唱えることに一体感を得たし、荘厳、神秘的な雰囲気が私を高次元の存在へと昇華させる心持ちがしたのだ。何より、祖父母は私に優しかった。私に学校の成績について聞けば
「偉いなあ」
遊んでいる私を見れば
「めんこいなあ」
と言ってくれ、自分の存在に自信を持つことが出来ていた。そんな普通ならばよく聞く言葉だが、私にとっては宝石よりも貴重な価値があった。
そのころ私は、私にゲームを買い与えるが直接的に褒めたことなど一回もない父が、この当時仕事がうまくいっていなかったので事あるごとに嫌味を言うので参っていたのだ。私が勉強以外のことをしていると
「また勉強もせずに遊んでいるのか」
と言い、時には勉強している時でさえ
「どうせ遊んでいるんだろう」
と言い、挙句には母に向かって間接的に、それも私に聞こえるように言うのだ。そのくせ暴力的な手段には一切訴えて来なかったので、やりきれない、爆弾に引火する一歩手前で導火線の火を踏みにじられている感覚があった。自己解決の精神を培っていた私は親に直接不平不満を言わず、良い状況打開の道を模索していた。
ここで直接親に言うことが解決になることとは私は考えもしなかった。何故ならば、そうすると親の“意”に背く結果となり、親に私への不信を募らせる原因となりうるという恐怖が無意識下に存在していたからである。私自身が変わるべきか、それとも父か。こう悩んでいた私にとって、祖父母の言葉は何にも代えがたい癒しとなって、私は父母よりも祖父母の方へと傾倒しつつあった。
ある休日、私がいつものように絵…というより他愛のない落書きを紙に描いて過ごしていると、母が買い物に出かけようとしていたので、私はうねる鉛筆を止め、母の後をついていった。母は仕様がなしに私を車の助手席に同伴させ、車を町まで走らせた。車体は空色一色に染まった4WDで、後に記述する事柄のお陰で泥水に汚れがちになるので、よく自宅の水道管につながれたホースで洗車され、陽の光を反射させていた。その色を一層澄明にすべく、車内には驚くほど個性を消し、ぬいぐるみやシールの類は一切無く、窓からは無機質な生まれたままの姿を覗かせていた。
家から町へ行くまでには何通りかの道が存在するが、この日は町まで最短距離の道が選ばれた。私はのちに述べる事柄により、しばしばこの道を地獄の道と呼んでいた。
家の車庫を出て初めに訪れるのは深閑とした木立とその懐に佇む墓地である。道の左手側にそれらが見え、右手側には平坦な田園が広がっているので、道にしだれかかる木々は遮断機のようなけんのんな思いを起こさせ、傍を流れる小川が急かすように間断なく鳴り響いて、周囲の木を喜ばせる。林の中に散在する墓の中で我が家のものは林の終わり際の最後のところにあって、そのさまは私達を見送ると言うよりも、一族の存在を牢記せしめるためにあるものか。
そこを通り抜けると、コンクリートの舗装もままならない土埃の舞う荒涼たる二車線分はあるだろう道に出る。これまでと打って変わって緑が隠れ、遠くに望める開拓工事の進んだ禿げかけた山にわずかに伺えるのみとなっていた。この肌荒れ年老いた道は1キロ程もまっすぐ続いていて、その不気味な極端、最果てが霞んで見えない長延が、終わりのないトンネルにいるような錯覚に陥らせる。このトンネルは方向転換地点が存在せず、一度進んだら一旦出るまでは引き返せない。もう後戻りはできないのだ。しかし、ただのトンネルとは違い、特異な存在がその道にはなんと三つもある。それらはいずれも、人々の身近に確実に存在していながらも、誰も側に寄りたがらない類のものを取り扱っている会社である。
道すがら初めに顔を合わすのは土砂運搬作業場だ。パワーショベル、ショベルカー、大型トラックがそれぞれ常に二三台はいて、ひねもすその巨躯を駆動させ、常に砂塵を巻き上がらせている。また、大型トラックが頻繁に往来するせいか、道には大きな穴があいており、泥の水たまりがよく出来ていた。それ故そこを通る車は体が茶に染まる。トラックに運ばれていく土砂は方方に散り、それぞれ造形の基礎となることだろう。通る道のすぐ右側には一軒家ほどの大きさの事務所があったが、これは私が高校生の時に焼失してしまった。なんでも商売敵の仕業だという噂がたったが、真実のほどは定かではない。この事件の後、前の半分くらいの大きさの事務所が建った。
そこを過ぎてすぐ左手側にはゴミ処理場がある。灰色の壁のコンクリート建築で、町の市役所より何倍も大きい。3キロ離れた場所からでも確認できる煙突が象徴的で、あくびのようにその穴から時たま黒煙を吐き出す。近くから見ると、建物の脇に毎回どこで集めてくるのか、常に二三十の自転車が横たわってその錆びれた死体を晒している。一度社会科見学で内部に入ったことがあるが、窓越しに人々の生活の後が無残にプレスされ圧縮されていく様は、善人や悪人、富裕層と貧困層、その隔たりなく一つに結合する無常を思わせ、それが窓という境界のお陰で現実味のない、地獄の幻想にしか感じなかった。
更にそこを過ぎた先には、一番強烈な屎尿処理場があった。人々の生活の証、明日へ進むための犠牲、悪意と重圧の混淆、それらが内から染め上げられた黄茶げた建物に集積されている。雨の日はその醜悪な臭いが沈殿し、その道を通る者の顔を、鼻を中心に容易に歪ませる。ここだけ働く人の姿を見たことがないので、本当に人がいるのかとよく疑った。いるとすれば顔を出したまま作業服を着ているのか、あるいは宇宙服のように内と外を隔てているのか。両者は全くの正反対だが、ある一点において共通している。尋常ではない。通常外の業務を遂行する人物とはどんな徳を積んでいるのか、何を思って仕事をしているのか。動物でさえ自分の糞は隠す。それだのに他人の物へ、自らを投じるとはその精神性の驚異、素晴らしさはいかばかりか。
町に出るにはこの一本道が一番の近道だったため、自然と多く通った。私はそこを通る度に漠然と“負”を感じていた。生死、文化の礎、廃棄、排泄、これらの雑多な塊を一語で表すとしたなら、負が適当だろう。表の背面には必ず裏がある。幸福のツケ、日陰者の集積、しかし華美装飾に唾した精神性の基調を言葉にならない思いを心に培っていった。
3つの会社の奥には公道がこれまでの道と垂直につながる、いわゆるT字路になっていてそこを右に曲がった先にの老朽した橋、さらにその先にスーパーマーケットがある。私は車内の換気のために開けた窓から顔を出し、ぼんやりと風景を眺めていた。
買い物を済ませ、同じ道を通り家路につく。店から出る頃には雨が沈みかかった夕日に混じって激しく降り注がれていたため、雨粒が闇と融け合いその身を漆黒へと変えた。その様は黒く細い毛が密集した人間の頭部を思わせた。脂がからんだ暗い線が地面から生えているようで、嫌悪感が先走り、私は駐車場にある車まで素早く突っ切った。
車は雨を受けながら橋の所まで来た。この橋は長さ百メートル程で、その下には大運河が流れて、よくカヌーに乗った人が設置したポールの間を身をひねりながらくぐり抜けている所を目撃したものだが、あいにくこの天気でその光景は見られず、河は水かさを増して荒れ狂っていた。
橋の中頃に差し掛かった頃、それまで押し黙っていた母は堰を切ったように突然話を切り出した。
「じっちゃは孫には優しいけれど、昔はひどかったのよ。親の財産を使って豪遊して。昔はあった田んぼも売っちゃって今はないし。そのおかげで今は蓄えが全くない。本当どうしようもないよ。後の者達のことも考えてほしいね」
「……」
「聞いているかい?それに父さんもじっちゃの言いなりで強く言えないからなんとも頼りないこと。それに変なプライドだけはあるからそのせいで仕事がうまくいかない。あんたには頑張ってもらわないとね」
それは間違いなく愚痴だった。それも職場のことではなく、他ならぬ家族のことである。内容は、祖父が若いころ曾祖母の財産を遊んで使い果たして、もはや蓄えは雀の涙もないこと、父の仕事の状況が思わしくないこと。
母は何気なく教えたのかも知れなかったが、いかんせん時期が早すぎた。幼かった私にとって、この事実は衝撃だった。それから私が思考を停止し沈黙を守っていると、母もそれに追従し、車内には激しい雨音だけが響いた。
それから、私の家族に対する態度は変わっていった。祖父母の優しい言葉が偽りに、父母の冷たい言葉が真実に聞こえ始めた私の矛盾はどうしたものだろう。その日から私は誰にも相談できない葛藤に懊悩する次第となった。主観と客観の同居、ひとつの心の内部対立で絶えず喧嘩が起こるようになった。それは無限に繰り返されるじゃんけんにも似ていた。じゃんけんぽん、右手が勝った、じゃんけんぽん、あいこだ、じゃんけんぽん、左手が勝った、こんな具合に落ち着く所が無かった。座談会に行くことは止めた。これは、「じゃんけん」の公平を期すため、一度客観の立場から見る必要があったからだ。しかし私は親の反対もあって座談会に戻る機会を失ってしまい、祖父母も、町内にその宗教の会館が出来て座談会の場所はそこへ移ってしまったので、私を無理に誘うことはなくなった。この葛藤を最後の家族である妹に相談する気にはならなかった。妹とは自分よりも小さく幼い者で、それに話すことは母が私に愚痴を言ったことと同義であり、断じて同じ轍は踏まないと決心していた。と言っても、妹も後に母からの愚痴を受けてしまったのだが。
この出来事が私の運命を決定したろう。まず土砂運搬場、ゴミ処理場、屎尿処理場。これらが私に人の犠牲を教えてくれた。生産的な行動という言葉は聞こえはいいが、その裏には消費されたものが横たわっている。その消費された何ら魅力のないものを処理するのが彼らなのである。それこそ魅力を感じたのなら聖人と言ってもいいだろう。幼い頃から鏡を見るように車の窓越しに見ていた私には、それが私だ、と思い込んだ。犠牲を心の奥底の溜め込み、誰にも迷惑をかけずにゆっくりと処理していく。鏡がそうであるのだから、私もそうで無くてはならない。鏡の反射の法則に従わなくてはならない。原因と結果の逆転が生じてしまっていた。それに前後して聞かされた愚痴は私に犠牲を強いるような命令がそこにあった。さあ、あなたは身を捧げ、あなた以外の人間を生かすのだ。そんな言葉を、脳内を反芻していた。
そんなまとまらない頭を抱えながら、小学校に入学した。町にはなんと五つも小学校があり、ここは私の家の近くの、田舎に馴染んだ場所にあった。家から出て、蛇のように曲がりくねった道(今は舗装されて真っ直ぐになってしまった)を通り、歩道を道なりに左に曲がったり、右に曲がったりしていると学校が見えてくる。その間の風景は私の心を養った。木々や河川の囁きは何よりの音楽だったし、登下校の道の中ほどにある巨大な二本杉が、何度もそこを通る私の心に根付いて離れなくなった。二本杉とは、こういう名前でも外見は一本の木である。以前はそこに六本の巨大な杉があったのだが、雷により四本は焼失してしまった。残った二本も被害を受けて、お互いを支えるように倒れ、その二本の木の傷と傷がつながり、一本の木となったという逸話がある。私は無条件にに神秘的な思いを抱いた。自然に選ばれた二本がより屈強な一本に生まれ変わる。動物的な生命の法則が、植物によって、さらには雷、すなわち稲妻という植物に親和的な天によってなされたのだ。一種反逆的だが自然的なこの現象に、生命の偉大さを痛感せずには居られなかった。だが私はそれよりも無くなった四本の木の方へ心を遣った。もう跡形もなく、誰にも見向きもされない存在、生き残った二本の木を引き立たせるための脇役。その物哀しい存在に親近感を持った。
また、集団登校も私の精神に多大な影響を与えた。部落ごとに小学生が一列になって学校まで歩いていくもので、先頭と殿には年長者が配置され、中央は、前から若い順に並ぶ。一人で勝手に寄り道をすることは許されず、私が迷惑をかけると一も二もなく矯正された。私はそれが息苦しくしてしょうがなかった。間違いなく社会生活の皮切りとも言うべきこの制度が受け入れられないのならば、それは欠落者の烙印を押されているのであり、私の未来を暗くさせた。
小学校の周りは果てしなく田園が続いて、空が落ちてきそうなほど支えるものが何もなく、私の虚無主義に拍車をかけた。なにもないものほど怖いものはない。白い紙の上に一つ点があればそればかりが主張されるが、何も描かれていないとその無という存在自体が見るものを圧倒し、驚きにも似た感覚で思考を奪う。
小学校に入学しても、私は一人だった。同級生といてもどこか退屈で、いつも机に座って紙に落書きをして遊んでいた。当時は無自覚だったが、描いている落書きに人間の姿はなかった。描くものは主にロボットや自動車などで、力強く機動する無生物、自然への背反、あの汚れた生と絶対的な死と次元を異にする世界、それらの非人間的な手が届かない夢想を抱いていた。人が月や太陽を拝むことと似ている。星々は人の目を惹きつけ、湖面にその姿を顕現するも、つかもうと飛び込んでも波紋とともに乱れて掻き消えてしまうが、激情が収まる頃にはまた出現する。対して無生物の幻影を求める要因は生の醜さへの憎悪、忌まわしい思い出への決別、先に待ち受けて手招きしている死からの逃亡が孕んでいた。決して叶わないことを知りながら。
小学校低学年では、無自覚に何百枚もその手の落書きを産み落としていった。それこそ毎日である。絵の向上などは目指さず、ただ取り憑かれたように下手な絵を描き上げることを欲望のはけ口にしていた。いつしか描かなければならない、描かなければ何者かに追いつかれるという強迫観念が頭の内を占めた。描いて無生物になるんだ、なりきるんだ。生の目を誤魔化すんだ。そうしなければあの終わりのない矛盾の生活に立ち戻ってしまう。私は逃げに逃げた。
しかし悪魔の追求は私を許してはくれなかった。この頃の私は体が弱く、風邪ばかり引いていた。その度に家の二階の寝室に匿われ寝ることを「強いられた」。体全体が毒に侵食されたように苦しくて、下着が汗ばんで、頭が中から鐘が響いてとても寝るどころではなかった。それでも仕方無しに寝ると決まって風邪が治るので私の意思に疑問を持たざるを得なかった。ある日、私は左頬だけのおたふく風邪にかかった。休んでいる間、病気が悪化するといけないので、余計な行動も許されなかった。TVも駄目、落書きも駄目、許可されたものは決まった時間の食事のみである。その時の欠席期間は、私の体内時計で二ヶ月にも感じられた。多感な幼年期に、何も刺激を受けることを許されず一室に監禁される。これほどの拷問があるだろうか。私は生を憎んだ。ただ漠然とこの囚われの、生老病死に囚われた体を憎んだ。治って学校に行った時は休んでから一週間しか経ってないと知った時は悪魔にコケにされたと思い込んだ。
物心のつきはじめた小学校高学年、私はいじめられるようになった。交流を怠り続けたツケか、私の異質を悟られてか、抗体が抗原を追い出すかのような自浄作用がクラスで働いたのかもしれない。絵ばかり描く素性の知れない輩は気味が悪く映ったのだろう。それに加えてクラスメートも日々の不満が募って、そのやり場を比較的弱者の私に向けたのだろう。弱者とは、強者が害を与えても応報が自分に及ばないと思い込んでいる相手のことである。事実、そうであった。私は親に言いつける事もせずにされるがままのサンドバックになっていた。例として、私が提出した宿題が隠されたり、二時間目の休み時間に行われるジョギングの時間では後ろから押されてよく肘や膝をすりむいたりした。
私は毎日が苦痛だった。家でも、学校でも心の休まるときはなかった。家にいては母の愚痴、父の罵倒、母の呪縛によって形成された祖父母の偽りにあい、学校ではいることが罪のような、消えてしまいたい破滅志向が頭をもたげた。私はいつしか沈黙が習慣となっていた。自分が認められないのなら、その存在を極限まで消すしかない。しかしそれは逆効果であった。普段口を開かない分、開いた時の言葉の重みは相当なもので、一つ珍奇な発言をすれば人々の物笑いの種となった。昼休みなんぞは、耐え切れずに誰かとのかくれんぼのふりをして用具入れに息を潜めていたこともあった。このままではいけない、私の自己矛盾の特徴である、一方の側の力がこの時働き、解決へと体を動かした。
家にいる間は心を鉄にして、学校にいる間は水のように変化させることに努めた。家での親は目上の存在であり、自分を養ってくれる保護者であるので、その機嫌を左右するようなことは許されない畏敬の念があった。それ故閉口して言いつけをよく守っていた。学校では、罵倒にあった時は受け流して、発言すべき時は進んで行った。女子の中では、私への態度は和らいだものがあったが、男子はその分激を増した。駄目だ、これだけではインパクトが足りない。この手法は私の印象を覆すような決定打ではなかったのだ。
だがある日、私は問題解決の糸口を見つけた。ヒントとなったのはある日の授業、保健体育の教科書に載ってあった性情報である。これだ!性に関して人は皆大なり小なり関心や知識がある。なぜなら性を持って生まれないものはいない、自分に直結した問題だからである。第二次性徴も起こり始め、食欲、睡眠欲に続き新たな性欲がその存在を露わにする。それ故性に対して過敏に反応するようになる。私は万人に受け入れられるピエロとなり、私が皆の心の声を代弁することで皆のフラストレーションを解消し、私の個性を確立、認知せしめる手段を見出した。
私は誰かの言葉の揚げ足を取り下劣極まる駄洒落を吐いたり、ノートに低俗知欠な絵を描き、それを人に見せたりした。それを受けてクラスメートは大いに顔を緩ませた。その時からか、私が無生物の絵を描くことを止めたのは…
結果は半分ほど成功したが、いじめは完全に無くなることはなかった。いつの日からか、
「ほら、いつもスケベなこと言いやがって」
そうクラスの男子が囃し立てる。
「ははは、参ったな」
軽く否定の意を表しても、
「ほら、もう一丁!」
そう言って軽い小突きや蹴りで攻撃されることが日常と化していた。言葉での罵りはなくなったが、コミュニケーションのつもりの肉体言語は以前よりも若干増したかと思われる。また、執拗に付きまとわれるようにもなった。この中に後々まで私に遺恨を抱かせた高田という男がいる。小突くことは少なかったが、付きまとう執拗さは群を抜いていた。休み時間は常に付きまとい、トイレでさえも付いてきて、時には私が用を足している時にそこを覗こうとさえしてきた。また、圧迫も凄まじかった。彼は私を下僕のように扱い、自分の趣味を私に押し付けてきた。彼はTVゲームを山のように持っていて、それでゲーム、特に格闘ゲームで私を隷属させたがった。格闘ゲームは二人の技を競い合って初めて面白くなるので、その相手役が彼は必要だったのだろう。私を打ち負かし、自分の優位性を証明しようというのか。あるものの優位性を証明することは、あるものの劣等性を証明することに等しい。私の趣味を消し去り、彼の趣味に馴染むことはまさしくそれだった。私は征服されるがままになった。もしかしたら彼の友好の証だったのかもしれないが、そう考える余裕は私にはなかった。すべてが敵。信じられるものは己のみ。親族さえ信じられないのに、この確証のない行動に全幅の信頼を寄せることなど出来ようはずがない。負がさらなる負を呼び、私は人への、自らの運命への憎しみを増大させていった。
それを一時救ってくれたのは担任の女性の教師であった。昼休みに私がタコ殴りされている現場を目撃した彼女は、決然と制止したのだ。それから相談にのると言ってくれた。私は彼女を信仰した。言わずとも心を理解し、進むべき道を提示してくれる彼女に神を見たのだ。たとえ正義感からでなく仕事からくる行動であったとしても、私の心が救われたことは事実である。たとえ後者なら、個人の正義感よりも偉大である。行動の内に潜む無意識の心の救済は陰徳と似た快さがある。要するに、彼女の行動を肯定的に捉えたのだ。彼女がやれと言った事柄は進んでやろう、そして期待に答えよう。
しかし間もなく幻想は破られた。ある日、漢字の書き取りテストがあって、答案ができ次第彼女に提出し、その場で判定するという授業があった。その問題の中で「専」という字が出てきて、私はそれをそのまま書いたのだが、教師はそれを「博」のように右上に一画が要ると言ってきた…ただそれだけのことだが、私にとってこの失望は如何ばかりだっただろうか。もしあなたが神を信仰しているとして、その神がくだらない、明らかな失言をしたらどう思うか。もはや家族に精神的向上点を見いだせなくなった私は、父と母以上の役割を兼ねた教師を唯一神として崇めていたのだ。その対象が間違いを犯すなどあってはならない。私が求めて得られない理想を押し付け、相手はそれに答える義務があり、私はそれを受ける権利がある。義務が放棄されることは、権利に唾吐くことと同義、それ故、私は否定されたのだ。…と言っても詰まるところ、私は相手に完璧を求めすぎたのだ。悪意、欠点に敏感になりすぎた私は、それと無縁な人物のみに心から依存することが出来、それによって生きる意味を得ようとしていたのである。
また、親に私の奇行が露見してしまった。親が何とはなしに開いた私の連絡帳のページの隅に下品な落書きが描かれていたのだ。親の叱責はまさに雷だった。雷鳴が耳の中で暴れ回り、耳孔内の壁を蹴飛ばし、地団駄を踏んで迫ってきた。雷の威力は、空を裂きその周りの木々を燃やし連ならせ、地面を苦しませ、私の頭にたんこぶを作った。親の説教は延々と続いた。私は自分の行動を悔いた。だが一方で私の心中の半分は別の所に泳がせてあった。あの二本杉である。この露見は四本の杉だ。雷で余分なものが削られ、生き残った者同士を結びつけ新たな生命の誕生が起こる、と夢想したのだった。私の関心は生への積極的行動により四本の杉から二本杉へと移行していった。
それ以来、親とは冷えきった関係になった。親は自分達の教育方針が悪かったのだと自らを責め、私は親の意に背いてしまったと後悔し、それを後々まで引きずっていくこととなった。
こうして、小学校時代は誰一人信頼出来る者が現れなかった。私はただ暗く深く沈んでいた。そう、まるで深海魚のようだった。グロテスクな外見をして、自分の姿を見ることができるのは他の魚の目に映る時のみであるが、浅瀬に乗り上げれば皆すぐに逃げてしまい、残るのは例えようもない孤独、環境に適応できずにやがて訪れる死だった。
私はこの頃に明確に恥を知り、自粛を覚えた。だが小学校にいる間、恥を忘れさせる者は居なかった。皆、エロティシズムに溢れた私を解放された私であると錯覚し、それが私の本性であるかのように接してきた。とんでもない誤解だ。私の性格はお前たちのためにしてやったことであるのに、それを認識せず私をけなすとはなんて恩知らず達だ。私は自他を冷笑した。
卒業式にもなんの感慨も沸かず、時間の無駄だとさえ思っていた。体育館の壁伝いにある赤と白の華美装飾も、色を無くして見えた。校歌は長い暗号、式中の着席起立はなんの拷問かと疑った。