大好きだった。だから婚約を壊した
星が明るく輝く夏の夜。
王宮では大舞踏会が開かれていた。
輝くシャンデリア、磨き上げられた大理石の床、会場は賑わっていた。
「ローザリンデ、この場を借りてお前を断罪する」
会場が静まり返った。
声の主を、皆が見る。
そこにいたのはエドワード・シュトゥック第一王子。
公爵令嬢ローザリンデ・アルデンブルクの婚約者。
エドワードの傍には、一人の男爵令嬢がいた。
「ローザリンデ、お前はユーディットに嫌がらせをしていた。教科書を破いたり、階段から突き落としたりと、さまざまな嫌がらせをしていただろう」
エドワードはユーディットの肩を抱き寄せる。ユーディットが強張る。
それを無視して、エドワードはローザリンデのことを指差す。
「まさか、ローザリンデ様がそんなことをされるはずないだろう」
「いや、息子から聞いたところによると、学園は険悪な雰囲気になっているらしい」
「そうなのか。では、本当に……?」
ローザリンデといえば、扇子の下でニヤリと笑っていた。
「お前のような性格の女と結婚するのは懲り懲りだ! 婚約を破棄する!」
ざわめきが大きくなる。
(まだだめよ。まだ笑っちゃだめ)
「ここに宣言する。私は真実の愛を見つけた! その者と結婚する」
(勝った)
ローザリンデの世界の色彩は、一気に鮮やかになった。
シャンデリアの輝きは強まり、大理石の光沢は滑らかになり、参加者の着るドレスは美しさを増した。
その時、エドワードが高らかに笑った。
「……と、僕が本当に言うと思ったか? そんなことで婚約破棄を認めると思ったか?」
その瞬間、ローザリンデの笑顔が凍りつく。
「ローザリンデ。僕は絶対に、君との婚約を破棄しない。僕は君を愛している」
ローザリンデの瞳から、涙が一筋流れ落ちた。
♦︎
ローザリンデとエドワードが婚約したのは、十歳の時だった。
王宮の一室。バルコニーの見える部屋。
両親同士が難しい顔で挨拶をしているのを横目に、ローザリンデは言いつけの通りに大人しく座っていた。
立派に整えられた服を着て、ちょこんと座る。
退屈だな。そんなことを思いながらも、今日は大人しくしなさいという両親の言いつけを守る。
両親の言うことを聞く真面目で、少し引っ込み思案な少女。それがローザリンデだった。
今日も両親の言うままに大人しく座っている。それがすべきこと。そう思い込んでいた。
「ねえ、一緒に抜け出さない?」
だから、突然耳元でそう言われた時、ローザリンデは驚いて一瞬固まってしまった。
声のする方を見てみると、目の前には、太陽のような笑顔を浮かべた一人の少年がいた。
「え、え?」
「いいから、行こ!」
そう言って少年は、ローザリンデの手を取って駆け出した。光の差す庭の方に、彼は走って行く。
どうしたらいいのかわからないまま、ローザリンデも手を引かれて走り出す。
「あ、こら待ちなさい!」
そんな声が後ろから聞こえる。
「やだ〜」
そう言って目の前の少年は走り続ける。
息があがる。肺が痛い。
けど、なぜだろう。それ以上に心臓が熱い。
バルコニーに出た。
暖かな風が顔に吹き付ける。緑の匂いが鼻をくすぐる。
色とりどりの花が二人を出迎えた。
その日、灰色だったローザリンデの日常は、終わりを告げた。
そして、ローザリンデはエドワードの婚約者になった。
エドワードはじゃじゃ馬……、いや行動力がある少年だった。
「ねえ、今日は街に行きましょう!」
ローザリンデはため息をついた。こうなったら、もう止められない。
「さあ、着替えて行くわよ!」
「はいはい、わかったよ! ちょっと待って」
地味な服に着替えても、エドワードの高貴さは隠せていなかった。
「もっと地味にしなきゃ」
「……どうやって?」
ローザリンデは顎に手を当てて考えた。
「わからないわ!」
「何だよ、それ! もっとちゃんと考えて!」
「だってカッコイイのは、どうしようもないでしょ?」
エドワードが顔を下に向ける。
「君はすぐそうやって……」
エドワードはローザリンデの手を取ると、すぐにくるりと後ろを向いた。
そのままローザリンデの手を引っ張るエドワードの頬は薄ら赤くなっていた。
「ほら、エドワード、これ綺麗じゃない?」
「先週も似たようなの買ってなかった?」
「全部違うの! もう、エドワードは女心がわかってない!」
頬を膨らませるローザリンデ。買い物はいつも、こんな感じだった。
「あ、これ似合うと思うな」
そう言ってエドワードが手に取ったのは、貝殻でできたブレスレットだった。
「ほら、どう?」
そう言ってローザリンデの手首に当ててみる。
「やっぱり似合う」
そう言って太陽のような笑顔を浮かべた。
ただの政略結婚。でも、ローザリンデはエドワードに恋していた。
二人で色々なところに出かけた。
ちょっとジメジメしている路地裏。景色の綺麗な塔のてっぺん。そばに行くだけで冷たく感じる河岸。
彼といると、どこでも輝いた。
意外だったのは彼が本を好きだと言うことだろう。
出かけて疲れた翌日は、よく一緒に図書室に篭った。
ちょっとかびっぽい空気、高い天井から差し込む光、奥から二番目の席。
ページを真剣にめくるエドワードの横顔。
落ち着いた、ゆっくりと流れて行く時間が、ローザリンデは好きだった。
「夢があるんだ」
エドワードが呟くように言った。
いつになく真剣な調子だった。
ローザリンデはページをめくる手を止めて、エドワードの方を見た。
「色々なところに行って、それを元に本を書くんだ。心躍る冒険譚をね。きっと最高の物語になる」
「応援するわ」
そう言ってまた本をめくろうとすると、エドワードの非難するような視線を感じた。
エドワードが膨れっ面をしていた。
「何言っているんだ。ローズも一緒に行って、一緒に本を書くんだ!」
そう言ってエドワードはローザリンデの方に顔を近づけた。
鼻先が触れそうな距離で、真剣な目でローザリンデのことを見つめる。
「約束!」
そこには冗談は混じっていなかった。
「ええ、約束する」
「うん」
そう言って、エドワードはにっこりと笑った。
成長して、十三歳になり貴族の通う王立学園に入学しても、エドワードとローザリンデはずっと一緒にいた。
「ローズ、今日もまた、放課後待ってるね」
日が優しく差し込むクラスで、エドワードはローザリンデに声をかけた。
「ええ、わかったわ。エド。生徒会の活動があるから、少し遅れるわ」
「わかった。それなら、少し図書室で本を読んでから帰るよ」
「待っててくれて、ありがとね」
そう言ってローザリンデはにっこりと笑った。
いつも一緒にいて、一緒に帰る二人は、いつの間にかおしどり夫婦として学園で有名になっていた。
それはローザリンデのちょっとした自慢だった。
けど、二年生になってすぐのことだった。
ローザリンデはいつものように、生徒会室で仕事をしていた。いつもの時間だった。ノートに書き込むペンの音、少し赤色が混ざっている太陽の光。
ガラガラという音がして、乱暴にドアが開いた。
「ローザリンデ様、いらっしゃいますか?」
ローザリンデは非難げな目で、声をかけてきた生徒を見る。
公的な場なのに礼儀知らずな。
「エドワード殿下が倒れました」
ローザリンデは慌てて立ち上がった。
「エドが倒れたの?」
書類を慌ててまとめ、筆記用具を仕舞おうとする。うまく入らない。
「はい、今保健室で治療を受けているはずです。ちょうど呼びに……」
最後まで聞こえなかった。
荷物は諦めて、そのままにした。椅子を引いて駆け出した。
生徒会長が何か言ったがした気がしたが、振り向かなかった。
廊下を駆け抜ける。廊下を歩いている生徒の視線が集まる。
構うものか。
「エド!」
保健室の扉を乱暴に開けて中に入る。
「どうしたの、ローズ」
エドワードは枕にもたれて半身を起こして、中央のベッドにいた。
顔色は悪くない。血色だっていつも通りだ。
いつもの制服姿だ。包帯を巻いたりしているわけではないし、どこも怪我しているわけではなさそうだ。
エドワードはローザリンデの取り乱した様子を見てクスクスと笑った。
「無事なんだね……よかった」
ローザリンデは思わず力が抜けて、開きかかった扉にもたれる。
「ちょっとふらついただけさ。この通り、元気さ」
そう言ってエドワードは、ベッドにいたままにっこりと笑って力こぶを作った。
「一応この後王宮の専門医にも診てもらう予定。でもきっと、どうってことないさ」
「……ちゃんと結果教えてね」
「わかったー」
軽い返事だった。
その日の夜、ローザリンデに王宮から使者が来た。
緊急の呼び出しだった。
嫌な予感がした。
王宮に到着すると、王宮の端にある一室に案内された。
重い扉が閉じられる。部屋の中では蝋燭の炎がゆらゆらと不安げに揺れている。
部屋の中央に、白衣を着た王宮医が座っていた。
人払いがされた後、王宮医が口を開いた。
「単刀直入にいいます。エドワード殿下に嫌われてください」
「は?」
何を言っているのだ。そんなことできるわけがない。
エドワードを愛しているし、エドワードは——。
「エドワード殿下は心蝕病です」
蝋燭の炎が揺れた。
「珍しい病気です。魔力器官を損傷する病気で、特定の感情により、症状が進行します。仕組みとしては、特定の感情が魔力器官を過剰に励起して、それが器官自体を焼くのです。殿下の場合このままだと死に至ります」
死に至る。その言葉がローザリンデの頭の中で繰り返された。
「……その感情とは?」
「エドワード殿下の場合、愛のようです」
空気が一層重たくなり、夜の闇が深くなった気がした。
「この場合の愛は恋愛感情ですね。エドワード殿下の場合、あなたの話をするときに魔力器官が悪化しました。早いところ治療しないと、近いうちに亡くなられるでしょう」
ローザリンデは手元に視線を落とした。拳を握りしめる。
けど、うまく力が入らなかった。指が震える。
「どうすれば治るのですか?」
「あなたへの愛情を失えば、徐々に回復するでしょう。回復しきれば、基本的に再発しません」
いつの間にか、雨が降っていた。
雨粒が地面を打つ音が聞こえる。
「そんなこと、信じられるとでも?」
ローザリンデは声を荒げ、立ち上がって机を叩いた。
「私だけでなく、複数の医師が確認済みです。診断に間違いはありません」
「……エドは。エドワードはそんなこと望むはずがない」
ローザリンデは再び座り込み、手元に視線を落とした。
手のひらから血が滲んでいた。
「そうでしょうね。だからこそ、陛下より伝言があります。『国のためだ。迷惑をかける』と」
愛するのなら、愛されてはいけない。殺したくないのなら、愛されてはいけない。
単純だ。簡単だ。言うのは。
雨が強くなって行くのがわかった。
遠くで雷が鳴っている。
「あなたにできることは、エドワード殿下に嫌われることです。あなたがエドワード殿下のことを愛しているなら、あなたの手で実行してください」
そこまでいうと、王宮医は立ち上がった。
「この件は他言無用です。では、この辺で失礼します」
そう言って王宮医は扉を開け、部屋から出ていった。
蝋燭から蝋が溶けて落ちていくのが見えた。
立ち上がることは、できなかった。
「昨日はごめんね。今日は一緒に帰れるよ」
王宮に呼び出された翌日の放課後、エドワードが謝りに来た。
いつもと変わらない笑顔。
いつもと変わらない仕草。
思わず決意が鈍る。
けど、決めたの。私、決めたの。だから……。
「ごめん、今日は少し用事があるの」
「何があるの?」
エドワードが不思議そうな顔をする。
「……ごめん、でも一緒に帰れない」
「そう。まあ、わかった」
エドワードが優しく、にっこりと笑った。
「じゃあ、また明日な!」
「ええ」
そうして、その日は一人で帰った。
馬車に乗る。
いつもだったら、エドワードが目の前に座っている。
そして、生徒会のことだとか授業のこととか、最近あった面白いことなんかの話が始まる。
そうして、彼の話し声と笑い声で溢れる。
空っぽの席を見る。
馬車が石畳の上を走る音が、なぜか大きく響く。
ローザリンデは思わず、空の席に手を伸ばす。
手が空を切る。
戻ろう。そう御者に言おうとした時、ローザリンデの頭の中に王宮医の声が響いた。
——あなたがエドワード殿下のことを愛しているなら、あなたの手で実行してください
まるで切り裂かれた傷口から血が流れるように、太陽の赤い光が差し込んでいる。
ローザリンデはそっと開きかけた口を閉じた。そして、そっとカーテンを閉めた。
次の日も、そしてその次の日も、ローザリンデは一人で馬車に乗った。
毎日のように、エドワードに「今日は一緒に帰ろう」と言われた。
拒否した。
(もう言ってこないで。私のことを嫌って)
けど、そんなことをエドワードは気にしなかった。
だから他の男の子と出かけることにした。
「で、なんで僕たちがエドワード殿下を差し置いてデートに誘われているわけ?」
侯爵家の馬車の中、目の前には幼馴染の子爵令息アルモンドと、こっそりついてきてもらった幼馴染の男爵令嬢ユーディットがいた。
「ごめん、理由は言えない」
ユーディットとアルモンドは非難するような目で見た。
「あのさあ、本当に勘弁してほしいんだけど。殿下の取り巻きから、絶対この後チクチク聞かれるんだけど」
「本当にごめん。なんでもするから、許して」
「本当に信じられない。殿下、悲しんでるよ。殿下から睨まれる僕の身にもなってよ」
悲しんでる。たった一言だ。でも、胸がどうしようもなく痛んだ。
「突然、教室で『一緒に買い物に行かない?』って言われた時、思わず耳を疑ったよ。殿下もいたのに」
アルモンドが困った顔で言う。
「しょうがなかったの。あそこで言うしかなかったの」
「殿下の顔見た? あれ絶対怒っているし悲しんでいるよ。ローザリンデにも何か事情があると思ったから来たけど、理由を教えてくれないし、完全に貧乏くじじゃないか」
「……ごめんなさい」
ユーディットの方を見ると、腕を組んでトントンと片腕を指で叩いていた。
アルモンドは眉を八の字にして、眉間に深い皺を作っている。
「……本当にごめんなさい。けど事情があるの」
「ならその事情を話しなさい」
「それは言えないわ。」
大きなため息をユーディットがついた。
「まあ、何かしら事情があるのは分かったよ。貸しひとつだからね」
「ええ、わかってるわ。……ありがとう」
「そしたら、今日はパーっと買い物しましょ!」
アルモンドとユーディットはにっこりと笑った。
ローザリンデもつられて笑った。
(これで噂が広がってくれたらいいんだけど)
そんな願いは虚しく、エドワードは諦めなかった。
「ねね、ローズ! 今日こそ帰ろう。話したいことが、たくさんあるんだ!」
いつもの光景。教室に寂しい夕暮れの光が差し込んでいた。
雲は切り裂かれたかのように、まばらに浮かんでいる。
「ごめん、用事があるの」
「いっつも君はそう言う! じゃあいつならいいの」
「それはわからない」
ローザリンデは無表情のまま告げた。腕を組むエドワード。
「ねえ、いい加減にしてくれないかな。……なんで避けているのかくらい、教えてよ」
ついに聞かれてしまった。
教室中が聞き耳を立てているのがわかる。
「避けてなんかない。気のせいでしょ」
「気のせいじゃない! 避けてる!」
「気のせい!」
「気のせいじゃない!」
「うるさい、倒れるような軟弱な癖して! こっちは婚約しているのも嫌なの! ただの政略結婚なのに恋人気取りしないで!」
貴族として健康な男と結婚したい。そう言った瞬間、エドワードは黙った。
そして、視線を下に落とした。
「そう。ごめん」
エドワードはにっこりと笑った。
(お願い、そんな顔しないで)
「今までうるさく言ってごめん。もうやめるね」
そう言ってエドワードは教室の扉を開けて出ていった。
ローザリンデは追いかけなかった。だってそんな資格がないから。彼を傷つけたのは自分だと分かっていたから。
ただ黙って、その場に立ち尽くすだけだった。
それからエドワードはローザリンデに話さなくなった。
望んだ通りの結果が出た。
けれど、どうしてだろう。
なぜ、こんなにも世界が色褪せるのだろう。
なぜ、こんなにも涙が止まらないのだろう。
♦︎
そして一ヶ月が経った時、王宮から再び使者が来た。
案内されたのは、前回と同じ部屋。
今回は昼だったので、柔らかい陽の光が、部屋に差し込んでいた。
前回とは違う王宮医と、そして数人の魔術師らしき人間が座っていた。
人払いの後、王宮医が口を開いた。
「ローザリンデ殿」
「はい」
王宮医がまっすぐローザリンデを見た。
「率直に告げます。エドワード殿下の症状は悪化しています」
ローザリンデは頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「そ、そんな馬鹿な」
「事実です」
ローザリンデは立ち上がって、そして何かを言いかけた。
口を開いたけど、言葉が出ない。
ローザリンデは再び座った。
部屋の中の影が一層強くなった。
「あなたのやったことは報告を受けています」
「では、なぜ……!」
「それくらい、エドワード殿下はあなたのことを、好いているのでしょうな」
ローザリンデは一瞬喜んだ。
そしてすぐ、喜んだ自分を恥じた。
じっと下を向く。
「……それでは、どうすればいいのですか?」
「それを話に来ました」
そう言って王宮医は、隣にいた魔術師に目で合図をする。
そっと銀の細い杖が差し出された。杖の先に、曇った乳白色の石が付いている。
「これは……?」
「記憶を失わせる魔具です」
そこにあるのは、国宝になっている魔道具だった。
「……これで、どうするのですか?」
「殿下の中にある、あなたに関する記憶を消します」
部屋の中の影が、さらに強くなった。
暖かな陽が差しているはずなのに、気温が下がった。
「これは温情です。我々がやってもいい」
そう言って王宮医は杖を差し出して、ローザリンデの方をじっと見た。
「……できません」
「では、我々がやります」
「それは……!」
王宮医は片眉をあげた。
ローザリンデは震える声を抑えながら、言葉を絞り出した。
「……最後のチャンスをください。婚約破棄してみせます。それが受け入れられたら、私のことを忘れようとしているのかもしれませんから」
「……いつまでですか?」
ローザリンデは俯いた。無限に時間はない。そんなことは当たり前だった。
「……次の大舞踏会までには」
「……陛下に確認します」
ローザリンデは銀色の杖を横目に、立ち上がった。
そして、振り向いて出口から出ていった。
その夜、王宮から再び使者が来た。
許可が下りたことを使者は告げた。
そして、一本の杖を差し出した。
そこには王宮で見た、銀色の杖があった。
使者の言葉はなかった。けど、意味はわかった。
震える手で受け取る。
冷たい。
「確かに」
使者は頷いた。そして、闇夜に紛れるように静かに去っていった。
その晩、ローザリンデは眠ることができなかった。
杖を取り出し、そっと持つ。
「失敗はできないわ」
そんな呟きが夜の闇に溶けていった。
月が輝き、光が窓から差し込んでいた。
それからローザリンデは徹底的に工作した。
殿下にはっきり見えるように、たくさん嫌な女を演じた。
ユーディットにはたくさん迷惑をかけた。
アルモンドにも協力してもらった。
そして、舞踏会の日。
星が明るく輝く夏の夜。
「ローザリンデ、この場を借りてお前を断罪する」
そう言われた時、ローザリンデは笑みを浮かべた。
けど、だめだったみたい。
「ローザリンデ。僕は絶対に君とは婚約破棄しない。僕は君を愛している」
嘘。そんな。完璧だったはずなのに。
ローザリンデは目を見開く。
エドワードはそれを見て、苦笑いをする。
「あなたは嘘をつく時、左目をうっすら細める。あなたはやりたくないことをする時、左頬をよくかく」
——見抜かれていた。全て。だから、エドワードは治らなかった。
ローザリンデはそれがわかってしまった。
エドワードの瞳には、涙が薄らと宿っていた。
「君が嘘をついてまで僕を遠ざけようとした理由はわかっているよ。僕が心蝕病だからだろう?」
事情を知らない貴族達の囁き声が聞こえる。
「なんと、あの病気なのか」
「何がトリガーなのか……まさか」
「僕の病の原因が君にあることも、知っている。けど、婚約破棄なんて許さない。僕には君しかいない」
そう言ってエドワードは言葉を切った。
そして、涙ぐみながらにっこりと笑った。
「王子失格かもしれない。けどこのまま死のうとも、君と一緒にいたい」
そして、ローザリンデの方を見た。
ローザリンデの頬を一筋の涙が伝った。
ローザリンデは思わず、エドワードから視線を逸らした。
パチパチ。
どこからともなく、拍手が聞こえてきた。
「美しい話」
「なんて強い愛なの」
事情を知らない貴族たちが称賛していた。
その声は会場中に溢れた。
その時だった。王が二人の方に歩いてきた。
沈黙が場を支配する。
「ローザリンデ、そしてエドワード。二人で話してきなさい。お互いに、色々と言いたいことがあるだろう」
わだかまりのあった恋人たちに理解のある親。
傍目にはそう見える。
拍手が再び起こる。
二人の冷え切った関係は学園の生徒を通じて、社交界でも有名になっていた。
それが回復するいいきっかけになる。
そう思われているのだ。
けど、ローザリンデには王の真意がわかった。
胸に入れていた杖が、ずしりと重みを増した。
エドワードに手を取られバルコニーに出る。
——初めて出会った日も、このバルコニーだった。
月下美人が咲いていた。
夜にだけ咲いて、朝には枯れてしまう白い花だ。
「いいかい? 君と別れる気なんてない。死ぬまでの時間が短いとしても、君と一緒に過ごして、夢を叶えたい」
エドワードがローザリンデのことを見つめる。
その目には悲しさと愛おしさが混じっていた。
ローザリンデは目を逸らしてしまう。
(星空が綺麗)
そんなローザリンデの様子を見て、エドワードは苦笑する。
そして、エドワードも星を見る。
「あんな三文芝居まで、僕には見え透いていたよ。僕のことを本当に嫌っているなら、いくらでもやりようがあったはずだ」
「……」
「いいか、後で迷惑をかけた人たちに謝るんだぞ」
「……わかったわ」
エドワードが星空を見るのをやめ、ローザリンデの方を向いた。
ローザリンデも釣られてエドワードの方を見る。
目と目が合う。
「ごめんね、分かってあげられなくて」
「……何が?」
エドワードが切なげに微笑んだ。
「僕の病気のことだよ。王宮医から聞き出すのに時間がかかったんだ。でも、全て腑に落ちた。全て僕のためだったんだね」
エドワードがローザリンデの右手を優しく握った。
久しぶりに彼の温もりを感じる。
剣の練習でゴツゴツした手のひら、勉強を頑張っているからできたペンだこ。
エドワードのはるか後ろに、魔術師たちの姿がローザリンデに見えた。
パーティー会場を抜けて、こちらにやってくる。
「最初は傷ついたけど、でも真実を知って、やっぱり君しかいないと思った。こんなに優しい人、他にいないよ」
「……優しくなんてないわ」
「いいや、優しいよ」
エドワードは出会った時と変わらない顔で微笑んだ。
「ねえ、ローズ。好きだ」
手がぎゅっと握られる。
何故だろう、涙が溢れる。
「ごめん、変なこと言ったかな」
「……あっちを見てて。泣き顔を見られたくないわ」
「……ごめん、分かった」
手を繋いだまま、振り向くエドワード。
「ねえ、昔語り合った夢を覚えてる?」
「ええ、覚えているわ」
ローザリンデは、涙を拭うのをやめた。
そして、溢れる涙に気がつかないふりをして、そっと胸から杖を左手で取り出した。
「物語を書く夢、覚えてる?」
「ええ、もちろん」
エドワードがカラッと笑った。
ローザリンデは杖をエドワードに向けた。
けれど、手が震える。
「これから、一緒に色々なところに行こう。いつまで一緒にいられるかわからないけど。死ぬまで、一緒に」
「ええ、一緒に行きましょう」
「それで本を書くの。絶対に面白い本になるわ」
ローザリンデはそっと杖を下ろす。
繋がれた手が、離れるのを拒んでいる。
エドワードは満天の星空を見上げていた。
そこには雲一つない空が広がっていた。
「……それでさ、僕が死んじゃったらさ、続きを書いてよ。お願いしてもいいかな?」
エドワードが星空を見るのをやめ、振り向こうとする。
「まだ見ないで!」
慌てて、エドワードは振り向くのをやめた。そして、また星空を見た。
「ねえ、お願いだ」
「……分かったわ」
ローザリンデの涙は止まらなかった。
「ねえ、約束だ。ずっと一緒にいよう。死が二人を分つまで」
「ええ、約束ね。分かったわ」
魔術師の方を見ると、合図をしていた。
……分かってる。ちゃんと、分かってる。
「ローズ。ねえ久しぶりに好きって言ってよ」
限界だった。
手の震えは止まらなかった。
それでも杖をぎゅっと握りしめ、ローザリンデは再び杖を上げた。
「……エド、愛しているわ。大好きよ」
右手をぎゅっと握った。
その温かい体温を覚えた。
ゴツゴツした手のひらを覚えた。
頑張り屋の指先を覚えた。
そしてそっと繋がれた手を離すと、杖に魔力を込めた。
全て消えて。
初めて会ったバルコニーの匂いも、図書室でめくった本の手触りも、おしどり夫婦と呼ばれて揺れる馬車に乗った感触も。
全部、全部、消えて。
鈍色の煙がエドワードに向かって出た。
エドワードはびくりとした。
次の瞬間、エドワードは倒れた。
慌てて駆け寄る。
「エド! 大丈夫?」
魔術師たちが走ってくるのが聞こえる。
「エド!」
「……う、うう」
エドワードの意識が戻る。ゆっくりと目を開ける。
「すまない。倒れてしまったみたいだ」
そう言ってエドワードはゆっくりと立ち上がる。
「……エドワード様。少し混乱しているのでしょう。あちらにお付きの者がいます」
「どうもありがとう。あなたの名前は?」
「……ローザリンデです」
「そう、ありがとう。ローザリンデ嬢」
エドワードはにっこりと笑った。あの時と同じ、太陽のような笑顔で。
魔術師の集団がいつの間にか、周りに来ていた。
「エドワード殿下、少しお休みしましょう」
「そうする」
そう言ってエドワードはバルコニーから戻っていった。
ローザリンデは星を見た。
雲一つない空の中、星は孤独に輝いていた。
地面に落ちた涙に反射して、そっと。
たくさんの作品の中から、本作をお読みいただきありがとうございました。
最後まで読んでいただけたこと、とても嬉しいです。
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