私を虐めてきた義弟に復讐します
人生は出会いと別れの繰り返しだ。
付き合いの無くなった人間のことなんて意外にもあっさり忘れていく。
だから、もう一度会いたいと切望する人間なんて、よっぽど ——
——恩返しをしたい人間か、復讐したい人間くらいしかいないものだ。
「姉さん、なんで……こんなところに」
五年ぶりに再会した義弟——ルカ・ヴァロワの声は、私の記憶よりずっと低くなっていた。
それでも、私を睨みつけるサファイアのような藍色の瞳も、意地悪く歪んだ口元も、あの頃と何ひとつ変わっていない。
——ああ、ようやくこの時が来た。
「なぜって」
王宮の広い法廷。その証言台から、私はルカににっこりと微笑みかけた。
「貴方の証人として来たんじゃない」
ヴァロワ伯爵家は、かねてより他国との密輸行為を繰り返しており、莫大な富を築いていた。隠す気があったとは思えないほど散財を繰り返していたから、発覚するのも時間の問題だった。
本当に愚かなことである。
そうして、ヴァロワ伯爵家の人間である父も義母も——そして、義弟であるルカも、裁判にかけられることになったのだ。
「だから、なんで姉さんが証人なんだって聞いているんです」
切羽詰まったようなルカの言葉が、静かな法廷に響く。
ルカが驚くのも無理はない。
だって家を追い出された私は、この事件には無関係なのだ。
だから決して、呼び出されるなんてことは起き得ない。
私は自分の意思で、証人として名乗りを上げた。
だって、義弟のルカは私にとって「もう一度会いたいと切望する人間」で——
「——それはね、貴方に復讐するためよ」
ルカが、嫌な予感を察したように顔を強張らせる。 とてもいい顔だ。これだけで胸のすく思いがする。
「証言の前に、少しお時間をください。裁判長」
裁判長は怪訝な顔をしながらも、頷いてくれた。
私は、一度たりとも忘れたことなどなかった。あの屋敷で散々虐めてきた、この義弟のことを。
◇◆◇
父であるヴァロワ伯爵が私を引き取ったのは、私が16歳の時だった。母が病で逝って、半年も経たないうちのことだ。
私、エリーズは愛人の娘だった。
父は母に十分な金を送り続けてはいたけれど、顔を見せることはなかった。正妻と息子がいる手前、それだけは譲れなかったのだろう。それが母の死を機に変わって、体裁のためか、後ろめたさのためか、父は突然私を屋敷へ呼び寄せた。
私を迎えに来た馬車は立派なものだったけれど、屋敷に着いた瞬間、私を迎えたのは異様な空気だった。
「へえ、貴方が例の子」
父の正妻——つまり義母に当たる人は、私の顔を見るなり目を細めた。
「あの人にそっくりだこと」
笑顔を貼り付けたまま、義母はそう呟いた。
亡くなった母に似ていると、使用人たちがこそこそ囁いている声が聞こえる。どうやら『あの人』というのは、母のことらしかった。
そして、義母の隣に立っていたのが、息子のルカだった。
当時14歳だったはずだけれど、背が高く、義母によく似た切れ長の目をしていた。女性にも見えるほどの綺麗な顔立ちで、私をひと目見て、それきり視線を外した。
興味もない、というふうに。
私が屋敷中に挨拶を済ませてすぐ、義母がお茶に呼んだ。
「さあ、座って。家族になったんだもの、仲良くしましょう」
「お気遣い、ありがとうございます」
義母は、目を細めてにこやかに微笑みかけた。 私は彼女の向かいに腰掛ける。
「あなたのお母様は、本当に綺麗だったらしいわね。それはもう、旦那様がずっと忘れられないくらいに」
カップを傾けながら、義母は続けた。
私の母は、踊り子だった。
相当な美貌の持ち主で、様々な男に言い寄られては困っていたと聞いたことがあった。
「でも所詮は平民の愛人よ。その子どもが伯爵家に引き取られるなんて、使用人たちも驚いているでしょう。わたくしだって、正直なところ……ねえ?」
首を傾けて、くすりと笑う。
そこで私は気が付いたのだ。義母は私のことを馬鹿にしているのだと。
「だから、貴方は分をわきまえて生きることね。ここは貴方のいた犬小屋じゃないんだから」
「い、犬小屋って……」
私が顔を歪めた、その時だった。
義母はポットの取っ手を掴むと、ゆらりと立ち上がった。湯気の立つ注ぎ口が、まっすぐ私の顔へ向けられる。
(……っ!)
このままじゃ、単なる火傷どころじゃすまない。顔に大きな傷跡を負ってしまう。
義母の手を離れてしまえば、もう避けることも難しいだろう。
熱湯が迫る、その刹那。
びしゃり、と音がして、冷たい感覚が右半身に走る。横合いから冷たい水がかかったのだ。
目を開けると、空になったピッチャーを持った義理の弟——ルカが立っていた。義母が口を開く前に、ルカは私を一瞥して言った。
「犬がお母様に口答えしないでもらえますか」
「あらぁ、ルカぁ、お母様のことを大切に思ってくれているの?」
「……もちろんです」
義母は手にしたポットをテーブルに置いて、ルカを抱きしめた。どうやら、ルカはこの義母から相当溺愛されているようだ。
それから、ルカは一切表情を変えずに、私に冷たく言い放った。
「さっさと着替えてきたらどうですか。汚らしい」
それだけ言うと、義母と二人でさっさと部屋を出ていった。あまりに、最悪すぎる初日である。
使用人たちの白けた視線を受けながら、全身びちゃびちゃになったまま、私は自分の部屋へ戻っていった。
——拝啓、お母様。
どうやら私の生活は前途多難そうです。
◇
そうして、私の屋敷での日々が始まった。
義母からの嫌がらせは、最初は小さなものだった。
挨拶を無視される。食事の席では大声で悪口を言われる。
私に割り当てられた部屋は日当たりが悪く、家具もがたついたものばかり。
それだけなら良かったのだが、嫌がらせはエスカレートしていって、ついには私の暮らしは使用人以下になってしまった。
贅沢品は全て処分を求められて、衣服はペラペラの麻でできたワンピースだけ。
掃除に洗濯、薪割りまで押し付けられたけれど、それでもなんとか耐えられたのは、首元に母の形見のネックレスがあったからだ。
『辛いことがあったら、お母さんのルビーを握りなさいね。きっと誰かが、貴方を守ってくれるから』
その言葉を信じて、冷たい廊下を雑巾がけしながら、ふとそれに触れる。
細い金色の鎖の先の、小さな深紅の石。母の瞳と同じ色で、母が大切にしていたものだ。 これがあれば、まだ大丈夫だと思えた。
そんなある日のことだった。
「あら、まだエリーズはこんなもの持ってたの」
義母が私を呼んだかと思えば、ネックレスに目を止めて、すっと手を伸ばしてきた。
「えっ……!」
反射的に両手で義母の手首を掴んだ。けれど義母は私の手など意に介さず、ネックレスの鎖をぐっと引っ張った。
首の後ろに痛みが走って、細い金具がぷつりと切れる音がした。
「それは、母の形見なんです……! 返してください、お願いします……!」
「ふうん、あの女の」
ちぎれた鎖ごと、義母はそれをポケットの中へしまい込んだ。
「返してください……! それだけは……!」
「うるさいわね!」
義母は私を一瞥して、そのまま廊下を歩いていった。
慌てて追いかけようとして、足がもつれた。
私は結局どうすることもできず、廊下の隅にへたり込んで、声を殺してぐずぐずと泣いた。
(ごめんなさい、お母様。大切なものなのに……)
私はあまりに無力すぎる。何もできないから、心の中で情けなく声を上げることしかできなかった。
けれど、この家では私は泣くことすら許されない。
「あら、こんなところで何をしているのですか」
たまたま通りかかった侍女が私を見下ろして眉をひそめた。
「仕事はどうしたのですか。サボりは許されませんよ」
「……すみません」
「泣くなら自分の部屋でやってください。廊下が汚れますから」
侍女は吐き捨てるようにそう言って、行ってしまった。
この屋敷では、侍女の方が私より立場が上らしい。
でも、ここで生き延びるためには、いつまでも泣いてはいられない。
目を拭って、立ち上がる。雑巾を絞り直して、また廊下を磨き始めた。
◇◆◇
「あまりに酷い扱いですな」
裁判長が苦しげにそう絞り出した。
「——そうです。これは、紛れもなく、私が伯爵家で受けた扱いです」
法廷が、しんと静まり返っていた。
傍聴席にいる人たちが、被告席の義母とルカへ冷ややかな視線を送る。義母は扇で口元を隠したまま、つんとそっぽを向いていた。
ルカは——何も言わずに、ただ俯いていた。
でもね、ルカ。本題はここからよ。
「裁判長、続けます。形見のネックレスを奪われた直後の話です」
私は息を吸って、また記憶の扉を開いた。
◇◆◇
形見のルビーを義母に奪われて、諦めて廊下を磨いていた時のことだった。
私は、ルカの部屋の扉が少し開いているのに気づいた。中から声が聞こえてくるものだから、嫌でも気になってしまう。
「また間違えましたね。何度説明すれば理解できるのですか!」
大声を上げているのは、ルカの家庭教師だった。
「やはり、伯爵家の血が入っていないからですか? 本当に嫌だわ」
馬鹿にしたような声に、ルカからの反論はない。
「伯爵家の血が入っていない」という言葉に引っかかって、私はようやく合点がいった。
ルカは、義母には似ているが父には全く似ていないのだ。
そういえば、正妻である義母は父の後妻であると、使用人たちが話しているのを聞いたことがあったけれど。
(ルカってお義母様の連れ子、だったんだ)
思い返してみれば、実子にしては使用人たちの態度もなんとなく素っ気なかったように思う。
「……もう一度、やります」
ルカの怯えたような声色は、追い詰められた草食動物のようで。
「このままでは、奥様にご報告差し上げるしかないですよ」
「そっ、それだけは! 母は僕が当主になれないと、きっと……!」
「そうですよね。奥様にがっかりされたくはないでしょう? あの方が貴方に何を期待しているか、よく考えてみることです」
(……ああ)
ルカは義母に溺愛されているのだとばかり思っていた。
でもきっと、義母がルカを大切にしているのは、当主になれる可能性があるからだ。
もし、あの父親が別の愛人との間に男子を儲けたとして、その子が優秀だったら?
ルカは義母にとって不要な子になってしまう。伯爵の血を引いている私を、義母とルカが異様なほど嫌う理由もよく分かった。
しばらくして、家庭教師が「少し席を外します」と言う声がして、廊下に足音が遠ざかった。 扉の小窓から覗いてみれば、ルカは泣きそうな顔で机と向き合っている。
私は少し迷ってから、扉を押した。
ルカは私が入ってきたことに気づいて、顔を上げる。
「なんの用ですか」
「……それ、計算式の順番が違いますよ」
机の上の問題用紙を見て、私は言った。14歳のルカが解く問題にしては、随分と難しいものである。
私の母は、教育に関しては厳しい人だった。
「勉強は誰よりも一番になりなさい」と言って私塾に通わせてくれたから、それなりに知識はあるつもりだった。
「その式は一旦置いておいて、こっちを先に解いてください。そうしたら合うと思います」
ルカは、私に言われるがままにペンを動かし始めた。
ルカはとても飲み込みが早くて、あの家庭教師の教え方が悪いだけなのだろうと勝手に察する。
本当に優秀な人間は、他人を馬鹿にしたりせずに誰にでもわかりやすく教えるものなのに。
しばらくすると、正しい答えが出た。
「ほら、合いましたよ!」
私は、ルカに嫌われていることも忘れて、思わずはしゃいだ顔でそう言ってしまってから──これはまずいと固まった。
偉そうに教えてしまったから、きっと、ルカは文句を言ってくるはずだとそう思ったのに。
ルカの切れ長の目がじわじわと丸くなって、硬く結んでいた口元がわずかに緩んだ。まるで、初めて外の世界を見た子どもみたいな、驚いた顔で私を見つめている。
(どうしたのかしら……)
文句を言われるわけでもなく、嫌な顔を向けられるわけでもない。しばらくルカは私に視線を向けていたけれど、やがて怪訝な顔をした。
「……泣いたんですか」
あまりに私を凝視していたから、どうやら私の目が赤いままだったことに気がついてしまったらしい。
「別に大したことでは」
「貴方ごときが隠しごとですか」
白けた目で続きを促されたので、私はおずおずと本当のことを答える。
「……母の形見のネックレスを、お義母様に回収されてしまいまして。贅沢をした私が悪いんですが」
「ふーん、そうですか」
自分から聞いたくせに、興味は無かったらしい。
そうこうしているうちに、家庭教師の足音が戻ってくる気配がして、私は扉に向かった。
「エリーズ姉さん」
背中にルカの声がかかった。
思いのほか柔らかい呼びかけに、ひょっとすると感謝の言葉でも貰えるかと思っていたのだけれど。
「勘違いしないでくださいね。僕は勉強を教えてくださいなんて頼んでいないので」
「えっ」
「ああ、それと」
もう一度、声がかかった。
「敬語やめてもらえませんか。仮にも義理の姉なのに、気持ち悪いので」
「わ、わかったわ……」
ぎこちなくそう返したあと、私はそのまま部屋を出た。
◇
それから数日後、珍しくルカが私の部屋を訪ねてきた。
無言で差し出されたのは、母の形見のネックレスだった。その上、ちぎれたはずの鎖が新しくなっている。
「これって……」
「ああ、お母様がくれました」
ルカがさらりと言ってのける。けれどその指先が白くなるほど強く箱を握っていて、よく見れば彼の手は震えていた。
「売り払って小遣いにでもしようと思いましたが、紛い物で何の価値もありませんでした」
「えっ」
「姉さんには、偽物の石がお似合いです」
ぐいっと押し付けるようにネックレスを渡したルカは、ああ、と思い出したように付け足した。
「今後は服の中にしまっておいた方がいいですよ。ギラギラして目障りなので」
それだけ言って、ルカは引き返していった。
(確かに、私が着けてたら目障りでしょうけど!)
でも、服の外に出しておくのは、また義母を刺激してしまうかもしれない。
意味合いは違うだろうけれど、ルカの言葉にも一理あるなと思いながら、私はネックレスを抱きしめた。
◇
私の食事はと言えば、父や義母、ルカのものと同じメニューのはずなのに、私の前に置かれるのはいつも量が少なくて、16歳の私には明らかに足りなかった。
お腹が空いた、とは誰にも言えなかった。言ったところでどうにもならないのは、わかっていたから。
ところが、ある日から食事が変わった。
食事の見た目が地味になったのだ。
全体的に茶色っぽくて、見栄えはかなり悪い。でも豆のスープには野菜がたっぷり入っていて、必ず底に肉が沈んでいる。しかも、味も悪くなかった。
変だな、と思った。
義母が私の食事を良くする理由など、どこにもない。
翌日、思い切って厨房を覗いてみた。料理長が忙しそうに立ち回っているところへ声をかける。
「あの、少し聞いてもいいですか。最近私の食事が変わったんですが、何かご指示があったんでしょうか」
料理長は手を止めて、私を見た。
それから、何かを思案するように少し間を置いた。
「……さあ、私どもは言われた通りに作るだけですので」
「誰かから、指示が?」
「それは、その……とある方からのご意向というか、なんというか」
歯切れが悪くて、目が泳いでいる。
「とある方?」
義母やルカが私の食事を改善するよう指示するなんて、どう考えてもありえない。かと言って、ずっと出かけたまま帰ってこない父親のはずもない。
「あの、料理長」
「私は何も知りませんのでね。今日は牛肉を柔らかく煮込んでくれなんて指示は受けておりませんからね!」
そう言って、料理長はそそくさと鍋の方へ戻ってしまった。
結局、何もわからなかったけれど、その日の牛肉は本当にホロホロで美味しかった。
「そんな気持ち悪い色の食事、よく食べられますね。姉さん」
「本当に気持ち悪い子。しかも、ニヤニヤしながら食べるなんて」
夕食にくすくすと笑い声をあげる二人は、私の食事の味を知らない。 見た目が悪いのは、本当にありがたいことだと思う。
「あ、そういえばエリーズ」
「……なんでしょうか、お義母様」
私がカトラリーを置いて義母を見つめれば、鼻で笑いながら彼女は言い放った。
「貴方の嫁ぎ先が決まったから」
「……えっ!?」
声を上げたのは私ではなく、ルカだった。カランとカトラリーを床に落として、目を白黒させている。
「あら、ルカどうしたの」
「こんな淑女の教育もしていない平民を我が家から出すのかと、頭が痛くなりまして」
「ルカったらぁ、我が家のことを考えてくれているのねぇ」
義母はにっこりと笑ってルカに告げる。
「……でも、大丈夫よ。エリーズが嫁ぐのは、若ければ礼儀なんて関係無い好色家のベローヌ辺境伯だから」
「……っ」
次の瞬間、ガタン、と大きな音がした。
ルカが椅子ごと、真後ろへ倒れたのだ。
「ルカ! ルカ、大丈夫!?」
義母が悲鳴を上げて駆け寄って、侍女たちがわらわらと集まってくる。
私はその騒ぎを、ぼんやりと眺めていた。
ベローヌ辺境伯は、幼い頃に母の職場で一度だけ会ったことがある。
父よりもずっと年上で、幼い私を見るなり、ねっとりとした目を向けてきた男だ。
「いやあ、初々しい」と言いながら私の手を取って、なかなか離さなかった。あの手の感触を、今でも思い出せる。
ああ。食欲が、すっかりなくなってしまった。
さっきまであんなにおいしかった牛肉なのに、全然味がしなくなってしまって、料理長に心の中で「ごめんなさい」と謝るのだった。
◇
そうして季節は流れ、秋の終わりに、私とベローヌ辺境伯の婚約パーティーが執り行われることになった。
義母が私のために用意したドレスを侍女に見せてもらったのは、パーティーの前日のことだった。
(……なに、これ)
色褪せた生地に、時代遅れのデザイン。 全く、どこから調達したのか、もはや感心してしまうほどである。
周囲に笑われようがどうでも良くなっていた私は、ドレスをクローゼットに入れて、ガタガタと揺れる固いソファに腰掛けた。
しばらくして、部屋の扉がノックされた。
(こんな時間に、誰だろう?)
恐る恐る扉を開けると、なんとそこにはルカが立っていた。目線を逸らしながら、大きくて立派な箱を押し付けてくる。
「着ていくものがないんでしょう。母と僕が恥をかくのは困りますから」
「さっき、お義母様にいただいたから大丈夫よ」
「準備してしまったので貰ってください。ゴミを僕に返すつもりですか」
そう冷たく言い放って、ルカは行ってしまった。まあ、受け取ってしまったものは仕方ないと箱を開けると、そこには薄い水色のドレスが入っていた。
義母の押し付けてきたドレスとは比べ物にならないほどツヤツヤと輝いていて、手触りが良い。
水色のドレスのアクセントになるように深い赤色のリボンがあしらわれており、動かすたびにひらひらと揺れた。
可愛いものを前にすると、思わず笑みが零れる。こんなにみすぼらしい私でも、やはり女子なのだ。
ふと、ドレスの入っていた箱の底の方に、何か固い感触があった。
(これは……?)
取り出してみると、それは小さな化粧箱だった。
恐る恐ると開けてみれば、そこにはなんと、イヤリングが入っていた。
菱形が連なった可愛らしいデザインで、何よりも。
……そのルビーは、母の形見であるネックレスの石と、同じ色だったのだ。
偶然にしては——。
お揃いのようなイヤリングに、そんな気持ちが湧いてこなかったかと言えば、嘘になる。
もしかしたらルカは、私のためにこれを準備してくれたのではないかと、自意識過剰な考えが頭を過ぎった。
でも、ルカは私のことが嫌いなはず。きっと家の体裁のために、責任を持って用意したのだ。そうに決まっている。うんうん、きっとそうだ。
それでも。
(こんなに素敵なもの、貰ったことが無いから)
私を嫌っている義弟からとはいえ、綺麗なドレスも、イヤリングも。
嬉しくて仕方がないと思う私はなんて単純なんだろう。
◇
そうして、パーティーの日はやってきた。
会場に着いてしばらくしないうちに、婚約者になるベローヌ辺境伯が私を見つけた。
むっちりとした体型を揺らしながら、ニヤニヤしながら近づいてきたかと思うと、私の頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくりと眺め回す。
「いやあ、素晴らしい。母親似というのは本当だね。踊り子の娘にしては上出来だ」
それから、ぐっと顔を近づけてきた。
「早く嫁においで。ずっと待っていたよ。色々と仕込み甲斐がありそうだ」
そのまま腰に手を回されて、胸元をじろじろと見つめられる。
(……最悪、だ)
今の屋敷での生活には、いつか終わりがある。
私はいずれ、政略結婚で嫁がされるからだ。
でもベローヌ辺境伯と結婚してしまったら——出口の見えない地獄というのは、きっと想像以上に辛い。
でも、私にはこの結婚を受け入れるしかない。
両目をつぶって彼の手を取ろうとした、その時だった。
「……こんな結婚なんて願い下げでしょう」
私たちの間に一人の人物が割って入る。
視線の先にいたのは、なんとルカだった。辺境伯を真っ直ぐ見据えたまま、一瞬だけ息を整える。
「辺境伯は、女性をモノとしか思っていないでしょう。先日貴方に嫁いだモンフォール子爵令嬢は、精神を病まれたそうじゃないですか」
たまたま、近くにいたモンフォール子爵家の夫人がルカの言葉を聞いて泣き崩れた。夫人の背中を子爵が肩を震わせながらさすっている。
(そんなことがあったんだ……)
よく考えたら、権力を持った好色家の中年貴族が独身な方がおかしい。
きっと女の人を、使い捨てのように扱ってきたんだろう。
「モンフォール子爵令嬢が病んだから、代わりに姉さんを引き取る? そんな都合の良い話、ありませんよ」
子爵家の夫妻はよく言ってくれた、と言わんばかりに、ルカのことを尊敬の眼差しで見つめている。
ルカはじっと辺境伯を睨んだ。
「辺境伯——婚約破棄を申し入れます」
嘘、だ。
私はルカを見上げた。
私を庇ったところで、彼にメリットなんて何もないのに。
ルカはまだ14歳なのに、堂々としていて私なんかよりもずっと大人っぽい。
もしかしたら、私は彼のことをずっと誤解して——。
「……と、姉が申しておりました」
「え」
わ、私!?
もちろんそんなことをルカに言った覚えは無い。
「あーあ、なんて酷い姉さんなんだ! 婚約者となる辺境伯のことを侮辱するなんて……!」
ルカは、先ほどよりも声のトーンを一段階上げる。
そのせいで、この騒ぎに気が付いていなかったモンフォール子爵家以外の視線が一斉に集まってくる。
涙を拭うように目元を押さえるルカの表情は明らかに演技なのだが、騙された貴族たちは私の方を見てヒソヒソと声を上げた。
ベローヌ辺境伯の顔がたちまち真っ赤になって、今にも爆発しそうである。
(あ、終わった)
この義弟はいつもそうだ。
良い人かもしれないと思うと、すぐに手のひらを返すのだ。
女性を見下しており、プライドが高いベローヌ辺境伯が、これを聞いてどう思うかなんて明白じゃないか。
「な……無礼な女め! この縁談、白紙に戻させてもらう!」
辺境伯は踵を返して、会場を出て行った。
「エリーズ!」
騒ぎを聞きつけた義母が血相を変えてやってきた。そして大衆の前で、パチンと平手打ちをした。
「あなた、辺境伯に何を言ったの!」
「私は何も——」
「言い訳は不要よ!」
義母の声がわなわなと震えていた。
怒りなのか、焦りなのか、わからない。
「なんて恥ずかしい子なの! あなたのせいで縁談が!」
「お母様」
ルカが口を開いた。
「姉さんを全寮制学院に入れてはいかがですか。淑女として仕上げてから嫁がせれば、次の縁談も上手くいくでしょう」
えっ、と私は驚いてルカを見つめた。
全寮制学院は、平民から貴族まで開かれた高度な教育を学べる学校だ。かなり厳しいと噂されているけれど、勉強が好きな私からすればなんてことはない。
「それに、僕は姉さんの顔をもう二度と見たくありませんし」
ゾッとするほど冷たい瞳を私に向けたルカは、ねだるような顔で義母を見つめた。
「ああ、ルカ。貴方はいつだって我が家のことを考えてくれるわねぇ」
義母はルカを抱き寄せながら、私のことをゴミを見るような目で見つめる。
「じゃあ来週中に出発しなさい。それまで私の前に顔を出さないで!」
すたすたと歩いていく二人の背中を見送って、私は長い息を吐いた。
私の評判は完全に地の底に落ちたが、気持ち悪い辺境伯との結婚は無くなったし、晴れてヴァロワ伯爵家も脱出できる。
(終わり良ければ、全てよし……なのかな)
——拝啓、お母様。
私の人生は思ったより、上手く転がっていきそうです。
◇
パーティーから帰宅して、私は自室のソファでまどろんでいた。
本当にせわしない一日で、疲れて着替える気が起きなかったし、もう二度とこんなドレスを着ることもないと思うと、脱ぐのも名残惜しくて、気が付けば深夜になっていたのだ。
すると、部屋をノックする音が響いた。
「失礼します、エリーズ姉さん。入っても?」
やってきたのはルカだった。
私が返事をすると、ズカズカと入室してきた彼も、なぜか正装のままだった。
日付も変わろうとしているというのに、彼の黒髪は綺麗に編み込んだアレンジをされたままだ。
「ここで一曲、踊ってもらえませんか」
「どうして?」
「さっきの夜会では、姉さんの無礼のせいで謝罪回りでしたから。せっかく練習したのに踊り損ねたんです」
婚約破棄は私のせいじゃなくて、貴方のせいでは。
そんな言葉をぐっと飲みこんで、私は彼を見つめた。
(私なんかじゃなくて、別の人と踊ればいいのに……)
と思ったけれど、結局、差し出された手を迷いながらも取った。
手袋越しに、柔らかく手を包まれる。月明かりの差し込む部屋で、曲は無いけれどステップを踏んだ。
(綺麗な顔ね)
ふと、ルカの横顔を見上げる。
長い睫毛が、ほんのわずかに震えているように見えたのは気のせいだろうか。
「ルカ」
「……なんですか」
「今日、ドレスとイヤリング、ありがとう」
「礼を言われる筋合いはありません。家の体裁のためです」
言葉とは裏腹に、私の腰に添えられたルカの手が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
私はステップを刻みながら、今までのことを、ひとつひとつ思い返した。
出会ってすぐに水をかけられたこと。
母の形見を突き返されたこと。
ドレスとイヤリングを贈ってくれたこと。
私の評判を落として婚約破棄させたこと。
そして、体良くこの家を追い出されること。
全部、ルカが私にやってきた虐めだ。ルカは、可愛げなんてどこにもないし、顔を合わせれば嫌味ばかり。
(……でも)
ルカの藍色の瞳は、義母によく似ているけれど、濁りがひとつもない。
きっと、本当の彼は——。
「なんですか、僕の顔をじっと見て」
「……いや、別に」
そう言えば、ルカが視線を外してふっと吹き出した。
「ふっ、変な姉さん」
その笑顔は、雲ひとつない空のように眩しくて。
心がぎゅうと締め付けられる理由を考えてみるけれど、何も言葉が思いつかなくて。
ずきずきとただ苦しい胸の鼓動の答えには——気が付きたくなくて。
ダンスが終わる頃、ルカは私から一歩離れて、深く礼をした。貴族の正式な、最上級のお辞儀だった。
「……姉さん」
「うん?」
「もう二度と、この家に帰ってこないでください」
顔を上げたルカの瞳は、ただ、まっすぐに私を見ていた。
「どうか、この家のことも忘れて、僕の視界にも入らないところで勝手に生きてください」
その時に、私がルカにかけられる言葉があれば良かったのに。
力のない私は、何もできないままこの家を出ることになった。
◇◆◇
そうして、五年の月日が経った。
学院でみっちり教育を受けたあと、私は王都の法務局へ就職した。
馬車馬のように働いてきたから、証人としての信頼度はピカイチだと上司からお墨付きをもらっている。
「裁判長。被告にいくつか確認させていただきたいことがあります」
私は深く息を吸って、被告席にいる大人になったルカを見据えた。
「ルカ。初めて会った日のこと、覚えてる?」
ルカは答えない。
「貴方は私に、水をかけたわね」
「……ええ。嫌がらせをしました。不快だったので」
堂々と言い切る姿は、まさに悪人だった。きっと傍聴席の人間たちには、彼が性悪な傲慢令息に見えていることだろう。
でもね。
「ねえ、ルカ」
——そんな貴方の悪役の仮面の下は、一体どんな顔をしているの?
「お義母様は、熱湯の入ったポットを持っていたわね」
「……」
「貴方は、お義母様が私に熱湯をかける前に、わざと水をかけて止めてくれたのよね」
「それは……たまたまでしょう」
ルカは面倒そうに溜息をついたけれど、私を見つめる瞳は、動揺したように揺れている。
「次に、食事のこと」
私は傍聴席に向き直った。
証人として呼んでおいた、ヴァロワ伯爵家の料理長が立ち上がる。
「料理長。あなたは、私の食事を作る際、誰から指示を受けていましたか」
料理長は深く頷いた。
「……ルカお坊ちゃまから、毎週ご指示を受けておりました。お嬢様の栄養を最優先に、けれど見た目は奥様に怪しまれぬよう質素にしろ、と。豆と根菜を中心に、消化の良いものを、と」
「やめてください」
ルカが焦ったように声を上げた。
「裁判長、やめさせてください。傍聴席の人間が喋っていいはずが無い」
「……一旦、聞きましょう」
ルカの進言を却下した裁判長の言葉に、料理長は涙声で続ける。
「坊ちゃまは毎週、ご自身のお小遣いをお嬢様の食材費に回しておられました! お嬢様の食事が豪華だった日は、ご自分の食事から牛肉を諦めた日でございます!」
傍聴席がどよめいた。
ガタン、と被告席で大きな音がした。 ルカの近くにいた義母が立ち上がっていた。
「ルカ……! あなた私のお金で、その女に……!?」
裏返った声が法廷に響き、騎士たちが慌てて取り押さえた。
ルカは、そんな義母の取り乱した姿も見ようとせずに、ただ俯いたまま唇を噛みしめていた。
「それから、これ」
私は胸元から、母の形見のネックレスを取り出した。深紅のルビーが、法廷の窓から差し込む光に煌めく。
「ルカ、貴方は私の母の形見を『紛い物だった』と私に返してくれたわね」
「……」
「でもね、学院で宝石学を学んだ時に、知ったの。これは正真正銘、本物のルビーだって」
ルカの目が、大きく見開かれた。
「お義母様は、本物のルビーを簡単に手放す方ではないわ。じゃあ、どうやって貴方はこれを取り返してくれたの?」
ルカは再び唇を噛んで、そっぽを向いた。
でも、聞かずとも私には答えがわかっている。
「貴方が、お義母様にねだったのよね。『ネックレスが欲しい』って」
「ちが——」
「お義母様にとって、貴方は『当主になれる可能性のある長男』だった。優秀でいる限り、愛される。失敗したら捨てられる。そんな貴方が……まだ、たったの14歳だった貴方が、お義母様に頼みごとができる回数は、きっと数えるほどしかなかったはずよ」
私はネックレスを握りしめた。
「その貴重な権利を、貴方は私のために使ってくれたのよね。自分が大切にされている、その立場をすり減らして」
「……っ」
だんだんと、私の喉が締まっていく感覚がする。
証言をしないといけないのに、鼻の奥がつんと痛くなって、私は深呼吸をした。
「ドレスとイヤリングのことも店に聞いたわ。イヤリングのルビーは、お母様のネックレスと同じ採掘地のものを、わざわざ取り寄せてくれていたのよね?」
「……やめろよ」
ボロボロと彼の悪役の仮面が剥がれていく。
ああ、いつからだろう。
ルカの虐めの正体に気が付かないふりをしていたのは。
「婚約破棄を申し入れてくれたことも! 私を家から追い出してくれたのも! 全部——」
「やめろ、もうやめてくれ……!」
それを聞いてしまうのが怖くて。
聞いてしまったところで、彼を救う力もない自分が憎くて。
でも、5年越しにやっと答え合わせができる。
「——ずっと、貴方は悪役を演じてくれていたのよね」
ルカは両手で顔を覆った。肩が小刻みに震えていた。
もう大人なのに子どもみたいにぐずぐずと泣きじゃくっている。
私は裁判長の方へ向き直って、息を吸った。
「ルカ・ヴァロワは、家族が私を虐げる中、唯一助け続けてくれた人格者です」
裁判長が大きく頷いた。
「彼は遊び歩いていた両親に代わって、執務をこなしており、密輸に加担する暇も無かったはずです。それは、モンフォール子爵が提出した証拠の通りです」
ふと傍聴席のモンフォール子爵夫妻と目が合った。
ベローヌ辺境伯との婚約パーティーの一件から、子爵はルカに恩義を感じていたそうだ。
報復を恐れて動けなかった子爵が、あのパーティーをきっかけに思い切ってベローヌ辺境伯告発したことで、彼の余罪が次々に発覚。
ベローヌ辺境伯は領地の経営権を国王に取り上げられてしまった。
今回の裁判にあたって、子爵家は様々な協力を無償で申し出てくれたのだ。
ねえ、ルカ。貴方が救ったのは、私だけじゃない。
「ルカ・ヴァロワは——」
涙で声が震えないように、深く息を吸う。
「私の愛する、大切な弟です」
ルカは顔を上げて私の方を見た。
そこには先ほどまでの意地悪な視線なんてどこにもなくって。
「なんで、庇うんだよ……」
ああ、そうだわ。やっぱり、そうよね。
貴方の本当の姿は、ずっと優しくて思いやりに溢れた、素敵な男の子で。
「姉さんは、僕たちみたいな穢れた家とは無縁に生きてくれれば良かったのに」
私は一歩、ルカの方へ歩いた。騎士が止めようとしたが、裁判長が頷いて許可を出してくれた。
「どうして……」
どうして、なんて。あまりに簡単な質問だ。
家を追い出されてから、私は一度だってルカのことを忘れた日はない。
ルカを助けることができるのなら。あの家から引っ張り上げることができるのなら。
私はいくらだって、頑張れたのだから。
「だから言ったでしょう? 復讐しに来たの。貴方が虐めだと言い張るなら、これは復讐よ」
そうきっぱりと言い切れば、ルカは、いつの日かみたいに、ふふっと可愛らしい笑い声を上げた。
「……馬鹿な姉さん」
私を見下ろした彼の瞳は、まるで愛しい恋人を見つめているのかというほど優しくて、思わず、ずきんと心臓が痛んだ。
「僕がエリーズ姉さんを助けていたのは、家族愛なんかじゃなくて、もっと邪な気持ちなのに」
ルカは自虐的に笑った。
◇
裁判の結果、一家の当主である父と義母は有罪判決が下り、牢屋行きとなった。
連行されていく義母は、最後までルカの名前を呼んでいたけれど、ルカは一度も振り返らなかった。
ルカは未成年であり関与の度合いが低いとして、領地の管理と継続的な監督を条件に、執行猶予つきの判決が下された。つまり、彼は19歳にしてヴァロワ伯爵家を継ぎ、その立て直しを余儀なくされたのだ。
法廷の外で、ルカはしばらく黙ったままだったが、やがてぽつりと言った。
「姉さん、僕に勉強を教えてくれた日のこと、覚えていますか」
「ええ」
私が頷いたあと、ルカは続けた。
「あの日、姉さんが笑いかけてくれた瞬間に、僕、決めたんです。この人だけは、絶対に、この家から守り抜こうって」
風が吹いて、ルカの前髪が揺れた。
「家族としての愛情なんかじゃありません。僕はずっと、エリーズ姉さんのことが——」
そこで言葉を切って、ルカは静かに目を伏せた。
出会った日に浴びせられた水も。
とびきり見た目の悪い、私専用の食事も。
あの日のダンスだって、きっとそうなのだろう。
ルビーのイヤリングが私の視界の端でしゃらりと揺れる。
彼がくれたものは、いつだって意地悪な包み紙にくるまれていた。
中身を確かめるのが、ずっと怖かった。
だって、開けてしまえば、その中にあるのは——
「……姉さんのことが、好きでした。ごめんなさい」
——ありったけの、愛だから。
サファイアの瞳が潤んだ後、柔らかく伏せられた。まるで、私の答えを聞きたくないと言いたげな表情で。
「僕は姉さんを守れなかった弟ですから。家族としてすら接することができなかった、最低な男ですから」
「ルカ」
「だから、忘れてください。幸せになってください」
「ルカ、待って!」
一方的に去ろうとするルカの手を取った。
「お母様にね、最期に言われたの」
胸元のルビーを、ぎゅっと握る。
「『辛いことがあったら、お母様のルビーを握りなさい。きっと誰かが、貴方を守ってくれるから』って」
ルカが、ゆっくりと顔を上げた。
「ずっと、その言葉が信じられなかった。あの屋敷で誰も助けてくれないと思っていたから。でも、ずっと隣にいてくれたのね——他の誰でもない、貴方が」
きっと、貴方は知らないんでしょう。
そのありったけの愛に、私がどれくらい救われていたのかなんて。
そのありったけの愛を抱きしめて、私がこの5年間どれほど奔走してきたのかなんて。
これはきっと恋や愛と呼ぶには、幼すぎる気持ちだけれど。
「私、ルカと一緒に領地に行くわ」
「……えっ」
「貴方の隣で、貴方の本当の姿を、もう一度ちゃんと知りたいの」
知りたくなってしまった。
好きだと伝えてきた男の子のことも、彼と一緒にいたら自分がどう変わっていくのかも。
しばらく沈黙があって、ルカがゆっくりと顔を上げて、にやりと笑った。
涙の跡が残っているその笑顔は、初めて会った日からずっと変わらない、意地悪な——けれど今は、どこか少年らしい色を帯びた自然な笑顔で。
「それは、僕のことを男として見てくれるってことですか?」
「え、ま、ま、まだそんな段階ではないんだけれど」
「じゃあ、頑張りますよ、僕。弟から抜け出せるように」
どうやって好きになってもらおうかなぁ、と呟くルカの横顔は、初夏の光の中で、見たことがないくらい優しく綻んでいた。
——拝啓、お母様。
貴方のルビーは、ちゃんと私を守ってくれました。
そして、私の「復讐」は、これで終わり。
本当の人生は、どうやらここから始まるみたいです。
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。
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