73話 誰か為に鐘は鳴る
聖騎士団との激突から一夜が明けた。
ルナリスのギルド宿舎。
木造の廊下を渡る朝の空気はひんやりとしていて、窓から差し込む光が床に長い影を落としている。昨夜までの張り詰めた気配が、嘘のように静かだった。
今まで書いてきたメモを見返す。これが最後かもしれないな、と。
「皆、おはよう。朝食、作っといたよ」
勇希の声と同時に、湯気の立つ香りが鼻をくすぐる。
食堂の卓に並んでいたのは、炊きたての白いご飯、味噌汁、そして目玉焼き。
特別な料理じゃない。
派手さもない、どこにでもある朝食だ。
――だからこそ、胸に来た。
「……ありがとう、勇希」
善は椅子に腰を下ろし、箸を取る。
「当たり前の朝食って感じだな」
味噌汁を一口含むと、身体の奥までじんわりと温かさが染み込んでいく。
昨夜の戦いで削れた神経が、少しずつほどけていくのが分かった。
「負けられないね」
天が、目玉焼きを切りながら言った。
「ああ」
衛も短く頷く。
「……絶対に勝つ」
それ以上、言葉はいらなかった。
四人は黙々と食べ、静かに腹を満たした。
朝食を終えると、自然と立ち上がる。
目指す場所は一つ。
神の居る場所――聖山エーテリオン、その山頂にある“聖域”。
宿舎を出ると、澄んだ空が広がっていた。
「善、力貸して」
天が振り返る。
「わかった」
天の地の精霊による重力操作。
善の風の精霊による天空支配。
二つの力が噛み合い、空間にひとつの“流れ”が生まれる。
「衛、勇希。手、繋いで」
善が言う。
「着くまでは一応な。手を離しても飛べるけど……バラバラになると面倒だ」
「了解」
「うん」
四人の手が繋がれた瞬間、身体がふっと軽くなる。
地面が遠ざかり、街並みが下へ流れていく。
風が頬を打ち、マントと衣服がはためく。
(……よし。空中の罠はなし)
善は周囲を警戒しながら、静かに判断する。
雲を抜け、山の稜線が近づく。
空気が変わる。澄み切った、張り詰めた気配。
そして――
聖山エーテリオン山頂、“聖域”。
そこは、音が遠く、世界が切り離されたような場所だった。
四人は足を下ろし、前を見据える。
ついに辿り着いた。
ここで、神――ハーヴィーと相対する。
誰も口を開かない。
ただ、それぞれが胸の奥で、覚悟を確かめていた。
――この先へ進むために。
♢
聖域――
聖山エーテリオンの山頂は、音を拒むように静まり返っていた。
風は吹いているはずなのに、葉擦れの音すら聞こえない。
空は澄み切り、雲一つない。
まるで世界そのものが、ここだけを切り離して見下ろしているかのようだった。
そこで――
ついに“神”と相対した。
「……来たか」
低く、掠れた声。
燕尾服に身を包み、髪はきっちりとオールバック。
尖った耳を見れば、彼がエルフであることは一目で分かる。
身なりは完璧だが、目の下には濃い隈が刻まれ、長い年月の重圧と疲弊を隠しきれていなかった。
それが、神――ハーヴィー。
「丁度……欠員が出たところだ」
淡々とした口調。
まるで壊れた歯車を交換するような軽さで、彼は言った。
「支配の力で、補充するとしようか」
ハーヴィーが手をかざす。
その瞬間、空気が歪んだ。
見えない波が、じわりと押し寄せてくる。
「支配波紋」
「――仮面解放!!」
善たちは反射的に叫ぶ。
精霊から聞いていた。仮面には洗脳を防ぐ効果があると。
だが――
嫌な音がした。
ひび割れるような、砕けるような音。
それは外からではない。
内側から、仮面が崩壊していく感覚だった。
視界が白く弾ける。
【四精霊による精神感応通信】
「……遂に、この時が来たわね」
スカイアの声が、風のように届く。
「人は、人との関わりの中で“仮面”を被るの」
アクエリアが静かに語る。
「弱い自分、本心、恐れ。
それらを隠すことで、ようやく自分を保っている」
「でもね」
テラの声は、柔らかく、しかし重い。
「もし、隠す必要もないくらい――
自分を確立し、肯定できていたら?」
「支配や洗脳はね」
アクエリアが続ける。
「迷っている心、弱っている心、
自信を失った人間にこそ、忍び寄る」
「だからこそだ」
アルドパーンの声が、芯を打つ。
「“超自我”――
『自分は自分だ』と断言できる心こそが、最大の防御だ」
「仮初めの仮面は、ここまで」
スカイアが告げる。
「頼んだわよ。――運命の四英傑」
視界が、現実へ戻る。
【聖域】
仮面は、もうない。
ハーヴィーは小さく頷いた。
「防御の仮面は……破れたようだな」
一歩、また一歩。
神が、善へ近づいてくる。
「手始めに――」
冷たい声。
「そこの女を、殺せ」
その瞬間。
善の懐で、“呪いの本”が脈打つように光った。
「……っざけんな!!!」
言葉になる前に、身体が動いていた。
拳が、一直線に振り抜かれる。
――衝撃。
乾いた音。
肉を打つ感触。
拳に伝わる、生々しい抵抗。
ハーヴィーの身体が、僅かによろめいた。
数百年ぶりだった。
痛みを感じたのは。
血の感触を、知覚したのは。
「……そうか」
ハーヴィーは、自身の唇に滲んだ赤を見つめる。
「その本……」
ゆっくりと、理解するように。
「お前と、その本が――
この“楽園”にとっての『知恵の実』というわけか」
表情が歪む。
「この楽園を、壊させるわけにはいかない」
だが、その思考に――
微かなノイズが走った。
――そもそも。
何のために、楽園を作った?
問いは、神自身の中で揺れる。
だが、もう遅い。
俺たちに、迷いはない。
拳を下ろした善の背に、仲間たちの気配が重なる。
恐れも、躊躇も、ここにはない。
生きるために、神を超える。
ラストバトルのゴングは、
確かに――鳴り響いた。
善のメモ
T
ハーヴィーに勝つ




