58話 水の国アクエリアス③
精霊祭の喧騒が、ゆっくりと遠ざかっていく。
さっきまで人々の声と音楽で満ちていた広場には、湿った夜風とジャスミンの香りだけが残る。
水路を流れる水が、月光を受けて淡く揺れている。
勇希は、胸の奥に残る熱を感じながら、深く息を吸った。
——勝負は終わった。
けれど、自分にとっての“本当の勝負”は、まだ終わっていない。
「……アリス」
声をかけると、彼女は振り返った。
祭の余韻が残る表情。勝負師としての鋭さではなく、今はただ一人の女性の顔だ。
「君に、食べてほしい一皿があるんだ」
勇希は、慎重に包みを開いた。
立ち上る湯気。
柔らかな香り。
刺激的でも、派手でもない。
ただ、温かい匂いだった。
「これは……」
アリスの瞳が、わずかに揺れる。
「『野菜のごろごろカレー』?」
皿の上には、大きく切られた根菜と豆、角の残るじゃがいも。
濃すぎない色合い。
どこか懐かしい佇まい。
「食べてみて」
そう促すと、アリスは一口、静かに口に運んだ。
——間。
次の瞬間、彼女の動きが止まる。
「……」
スプーンを握る指が、わずかに震えた。
「……懐かしい」
声が、掠れる。
「お母さんが……作ってくれた味だ……」
その言葉と同時に、目尻から雫が落ちた。
ぽたり、と皿の縁に落ちる。
勇希は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「先代の巫女が、アリスのお母さんだと聞きました」
アリスは、何も言わずに頷いた。
「水の精霊へ捧げる料理として……
代々受け継がれてきた“母の味”こそが、一番ふさわしいと思ったんです」
空気が、静かに満ちる。
そのとき。
『……アリス』
澄んだ声が、空間に響いた。
水の精霊アクエリア。
『身体、借りるね』
「……うん」
アリスが短く答える。
次の瞬間、彼女の雰囲気が変わった。
目の焦点がわずかにずれ、呼吸が水面のように穏やかになる。
——憑依。
水の精霊は、アリスの身体を通して、もう一度カレーを味わった。
ゆっくりと。
確かめるように。
「……なるほど」
声は、アリスのものではない。
「水の本質は『生命』、代々受け継がれる味。
勇希。君の“答え”は、確かに受け取ったよ」
空気が震え、冷たい感触が走る。
勇希の右腕に、淡く光る腕輪が宿った。
「精霊の力を、君に託そう」
「……ありがとうございます」
深く、頭を下げる。
やがて、憑依は解けた。
アクエリアは水の粒子となって空へ溶け、アリスはその場に立ち尽くす。
勇希は、彼女の目を真っ直ぐに見た。
「アリス」
一拍。
「僕は、君のことが好きだ」
アリスの目が、見開かれる。
「でも——」
勇希は続けた。
「僕は勇者として、精霊の力を借りて世界を救う。
そのために、ここを離れる」
喉が鳴る。
「……でも、必ず戻ってくる。
君に会うために。生きて、帰ってくる」
沈黙。
「……ふ、ふーん」
アリスは、視線を逸らした。
「お、お友達からなら……いいけど」
言葉とは裏腹に、耳まで赤い。
ほんの一瞬、期待していた“それ以上”を隠しきれなかった。
『……ちなみに言うと』
横から、アクエリアの声が割り込む。
『最初に“試練を私との勝負にして”って言い出したの、アリスだからね』
「ちょっ……アクエリア!!」
『この子、恋愛の駆け引きは壊滅的だけど、良い子なのよ』
からかうような、でも優しい声。
『だから……アリスをよろしくね、勇希』
勇希は、小さく笑った。
「はい」
♢
それから数日後。
水の国――アクエリアス郊外。
人目を避けた湖畔で、秘密の特訓が行われていた。
水の精霊アクエリアが、静かに告げる。
「唱えて」
勇希は一度、深く息を吸い――
右腕を顔の前にかざした。
「仮面解放」
淡い水色の光が弾け、仮面が装着される。
同時に、体内を巡る気と魔力が、段階を飛ばして跳ね上がった。
アクエリアは頷き、手を掲げる。
「召喚術」
水面が盛り上がり、巨大な水龍が姿を現す。
次の瞬間、圧縮された水のブレスが一直線に放たれた。
「氷結防壁!」
勇希は即座に応じ、前方に分厚い氷壁を展開する。
激突音。水が砕け、霧となって散る。
――その間に。
勇希は詠唱を、最後まで紡ぎ切っていた。
「氷塊弾道槍」
空気が凍りつく。
次の瞬間、巨大な氷のミサイルが形成され、水龍へと射出された。
直撃。
砕け散る氷片とともに、水龍はその役目を終え、霧となって消失する。
アクエリアは満足そうに微笑んだ。
「勇希。あなたも適性から言えば、この術を使えるわ」
一拍。
「今度は、あなたが召喚してみなさい」
遠くから、それを見つめる影。
「……すごい」
アリスだった。
「本当に……勇者なんだ」
『覗きは良くないわよ』
アクエリアの声に、アリスは飛び上がる。
「うわっ!」
「アリス」
勇希が振り返る。
「市場の買い出し、付き合ってよ。
仲間に……米とカレー、食べさせる約束してるんだ」
一瞬の沈黙のあと、アリスは破顔した。
「……仕方ないなぁ」
肩をすくめる。
「ぼくは顔が効くんだからね」
二人は並んで歩き出す。
その背を、アクエリアがやれやれとした表情で見送っていた。
水の国アクエリアスの空は、今日も澄んでいる。
別れはまだ先。
約束は、確かに結ばれた。
そして——
この物語は、静かに次の章へと流れ始めていた。
勇希流・異世界料理メモ
① アリスのグリーンカレー
•香り設計が最優先
→ 炒め段階から香草・青唐辛子・スパイスの立ち上がりが強い
•味の軸は
→ 爽やかな辛味+酸味+ナンプラー由来の発酵塩味
•見た目
→ 鮮やかな緑で「初見のインパクト」が非常に高い
•想定ターゲット
→ 不特定多数・観光客・流行に敏感な層
•強み
→ 話題性・再現性・売れる料理
•弱み
→ 個人の記憶や感情に深く刺すタイプではない
② 勇希のシーフードカレー
•基本構成
→ 玉ねぎを限界まで炒め、甘みと苦味の境界を作る
•隠し味
→ 塩辛(魚介×発酵)
•味の設計
→ 単体では完成しない
→ 「米由来の酒」と合わせて初めて完成する味
•塩分
→ やや高め(酒を呼ぶ設計)
•想定ターゲット
→ 審査員“個人”
•強み
→ 観察力・理解力・相手特化
•弱み
→ 大衆向けではない、再現性が低い
③ 野菜のごろごろカレー
•見た目
→ 大きめに切られた根菜、豆、じゃがいも
→ 派手さはないが、安心感がある
•味の方向性
→ 刺激を抑え、甘みと旨味を重ねる
•技術的特徴
→ 特別な技法は少ない
•本質
→ 再現ではなく“継承”
•想定ターゲット
→ 水の精霊、そしてアリス本人
•役割
→ 五穀豊穣の祈り
→ 母から娘へ、命から命へ




