56話 水の国アクエリアス①
【水の国 アクエリアス/勇希】
その日は、店の定休日だった。
朝の港町は、普段よりも静かだ。
潮の匂いが空気に溶け込み、濡れた木桟橋が陽に温められて、ほんのりと甘い香りを放っている。遠くで波が岩に砕ける音と、鳥の鳴き声だけが、ゆっくりと時間を刻んでいた。
「今日はね、特別案内だよ」
アリスはそう言って、軽く手を振った。
探検家スタイルの服の上から白衣を羽織っている。そのせいで、身体の線が強調されるでもなく、逆に――隠されているはずなのに、どうしても意識してしまう。
(……落ち着くんだ)
視線の置き場に困りながら、勇希は彼女の背を追った。
「ここが、農学アカデミーの温室プラント」
扉をくぐった瞬間、空気が変わる。
湿り気を帯びた、土と葉の匂い。
鼻の奥がすっと冷えて、肺の中まで洗われるようだった。
ガラス張りの天井からは柔らかな光が降り注ぎ、規則正しく並んだ畝には、季節外れの作物が青々と育っている。瑞々しい葉が擦れ合い、微かな音を立てていた。
「魔法の補助で、恒温を維持してるんだ。だから、季節違いの作物も育てられる」
アリスは誇らしげに言う。
その横顔に、研究者の顔が重なる。
(……この人、やっぱり凄いな)
コックで、農学アカデミー学生で、巫女で――
そのどれもが中途半端じゃない。
「話はアクエリアから聞いてるよ」
不意に、彼女が振り返る。
「ぼくは精霊の巫女だから、水の精霊とコミュニケーションが取れるんだ」
視線が、温室の中央へ向く。
「そうだよね、アクエリア」
その名を呼ばれた瞬間、空気が揺れた。
水音がしたわけでもない。
だが、確かに“流れ”が生まれる。
そこに現れたのは、仮初めの姿を取った水の精霊だった。
両足で歩行する人魚のような肢体。淡い水色の髪が揺れ、表情はどこか眠たげで、落ち着いたお姉さんという印象だ。
「そうだよ、アリス」
声は静かで、感情の起伏が少ない。
けれど、その存在感は確かだった。
「勇希への試練は、あなたに――精霊祭に捧げる料理をかけて勝つこと。」
勇希の喉が、無意識に鳴る。
「私は水の精霊、その本質は『生命』。
生きる事は食べる事、食べる事は命を奪う事。
私に力を示してみなさい」
アリスは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それから強く頷いた。
「母さんから受け継いだ巫女として、負けられないね」
その言葉には、誇りがあった。
「でもね」
アクエリアが続ける。
「意地悪はしないで。きっちり敵に塩を送るスタイル、嫌いじゃないよ」
「もちろん」
アリスは即答した。
「全力の相手に勝ってこそ、意味があるもの」
彼女は勇希を真っ直ぐ見据える。
「ぼくは、アカデミーで学んで、料理のマーケティングも意識してる。何が流行るか、何が売れるか。ぼくのやり方なら、お店も繁盛間違いなし!」
自信に満ちた言葉。
その奥に、少しだけ焦りが混じっていることに、勇希は気づいていた。
(……抱え込みすぎてる)
でも、それを口に出せる立場じゃない。
「あの……どうかお手柔らかに」
そう言うのが精一杯だった。
二人の女性――いや、一人と一柱の精霊の会話に挟まれながら、勇希はただ、静かに拳を握る。
♢
翌日。
仕事終わりの休憩時間。
厨房の奥で、油の匂いと湯気が落ち着いた頃、ディアムが声をかけてきた。
「どうだ、この国には慣れたか?」
彼はコックコートの袖をまくり、木椅子に腰掛けている。
目の下には薄く隈があり、酒の匂いが微かに残っていた。
「はい。皆さんによくしてもらっています」
勇希は頭を下げる。
「特にアリスさんには、先日、各所案内をしていただきました」
「そうか」
ディアムは、少しだけ目を細めた。
「話は聞いたよ。精霊祭に捧げる料理をかけて、アリスと勝負だそうだな。俺が審査員を務めるが……身内贔屓するかもしれんぞ」
冗談めかした口調だったが、視線は真剣だった。
「それは、ないと思ってます」
勇希は即答した。
「ディアムさんは、自分の舌に正直な人です。だからこそ、審査員として、僕も勝負の判定を預けられる」
少しの沈黙。
「……そうか」
ディアムは、ぽつりと呟く。
「あの子は今、農学やりながら料理もして、巫女もやってる。同時にたくさん抱えてる分、見えない部分もあるんだ」
それは、独り言のようだった。
「昔はな、『母さんのごろごろ野菜カレー』が一番だって言ってたんだ」
懐かしむように、遠くを見る。
「……懐かしいな」
その言葉が、胸に残る。
僕にとっての震災時のカレー。
彼女にとっての思い出がそうなのだろうか。
休憩終了のベルが鳴り、ディアムは立ち上がった。
「長話になってしまって、すまなかったね」
「いえ」
勇希は深く礼をした。
♢
その夜。
部屋に戻ると、頭の中に澄んだ声が響いた。
精神感応通信。
『勇希、アリスとの料理バトルはどう?』
クラウディアだ。
『僕は、最初から勝ちに行くつもりだよ』
勇希は、正直に答えた。
『何よりも、カレーは僕にとって特別な料理だから』
少し間を置く。
『でも……』
『それとは別に、彼女に惹かれているんだ』
胸の奥が、じわりと熱くなる。
『わがままかもしれないけど、勝負に勝って、気持ちを打ち明けて……彼女とも、付き合いたいと思ってる』
すぐに返事は来なかった。
『……そういう男子、嫌いじゃないわよ』
クラウディアの声は、呆れ半分、微笑み半分だった。
『でも、同時はやめときなさい。順番とタイミングが大事よ』
『だからさ』
勇希は、深呼吸して続ける。
『アリスとの勝負の一皿』
『アリスへ告白する一皿』
『二本立てで行きたいんだ』
しばらくの沈黙。
『……なるほどね』
クラウディアの声が、少し楽しげになる。
『作戦、深掘りしましょうか』
通信が切れる。
部屋に、静けさが戻った。
勇希は、天井を見上げた。
勝負の料理。
想いを伝える料理。
――どちらも、逃げられない。
だが、不思議と怖くはなかった。
鍋の中で、香りが立ち上るように。
自分の中で、何かが静かに煮え始めている。
(……やるしかない)
そう、心の中で呟いた。
水の国アクエリアスの夜は、静かで、優しく、そしてどこか熱を孕んでいた。




