55話 火の国アルディス③
拳闘大会が終わった翌日、鍛冶場の奥はいつもより静かだった。
炉の火は落とされ、鉄を打つ音もない。代わりに、残り香のように熱だけが空間に滞留している。
「……シェリル」
呼びかけると、彼女は作業台の前で振り返った。
汗も煤もない、素の顔。だが、どこか疲れ切ったというより、肩の力が抜けたような表情だった。
「なに?」
衛は一歩近づき、腰の袋から包みを取り出す。
厚手の布をほどくと、淡く脈打つような光を放つ鉱石がごとり、と姿を現した。
龍宝玉の原石――
神の箱庭で、エンシェント・ドラゴンを討った証だ。
「拳闘大会の賞金で、借金は全部返せた。……でも、それとは別に」
彼は一瞬、言葉を探すように視線を落とし、それから真っ直ぐ彼女を見た。
「その金額分の“仕事”を依頼したい」
シェリルの目が、ゆっくりと見開かれる。
「……これ」
龍宝玉を見つめる視線が、揺れた。
鍛冶師としての欲。素材への敬意。
そして――それを託されたことへの、重み。
「このサイズなら、充分に四人分の武器に割り当てられると思う。
俺たちにとって、命を預ける武器だ。……だからこそ、シェリルに頼みたい」
しばらく、沈黙が落ちる。
炉の残熱が、かすかに空気を揺らす。
ぽたり、と。
床に、小さな水滴が落ちた。
気づいたときには、シェリルの頬を涙が伝っていた。
「……断る理由、なんて……ないよ」
声が震える。
それでも彼女は、泣きながら笑った。
「助けてくれただけじゃない。
私の仕事を、誇りを、ちゃんと“仕事”として見てくれた。
本当に……ありがとう」
胸の奥が、静かに熱を持つ。
拳を握るのとは違う、じんわりとした感覚。
しばらくして、シェリルは意を決したように顔を上げた。
「ねえ、衛」
「ん?」
「火の国の精霊祭、後夜祭はね……火を囲んで、みんなで踊るの。
一緒に……行かない?」
問いかけは控えめだったが、逃げ道はなかった。
「もちろん行くさ」
即答だった。
その瞬間、頭の奥に声が響く。
『衛、あなたならできる。だから行きなさい』
クラウディアの声だ。
『この試練で、自分をさらけ出したんだろ。
だったら抑えるな。本当に欲しいものを掴め』
アルドバーンの、燃えるような激励。
――背中を押される必要なんて、もうなかった。
♢
後夜祭の夜。
火の国の広場は、昼間の熱とは違う、柔らかな炎に包まれていた。
篝火が円を描き、人々がその周りで踊る。
炎は赤だけでなく、橙、金、時折蒼を帯び、夜空を照らす。
そこに現れたシェリルを見た瞬間、言葉が消えた。
赤いドレス。
普段はまとめている金髪を、夜会巻きにして露わになったうなじ。
鍛冶場では見せない、女性としての輪郭。
「……綺麗だ、シェリル」
飾り気のない一言。
それでも、彼女は一瞬言葉を失い、視線を逸らした。
「……もう」
そう言いながらも、耳まで赤い。
「俺の手を取って」
差し出した手に、迷いはなかった。
ダンスの経験なんてほとんどない。
小学校のキャンプファイアー以来だ。
それでも、事前にクラウディアに叩き込まれた基本だけは覚えている。
ぎこちなく、だが確かに。
二人は火の輪の中で、同じリズムを刻んだ。
やがて、夜空に大きな音が響く。
花火だ。
赤、金、白。
炎とは違う光が、夜を裂く。
肩を並べ、同じ景色を見る。
同じ高さで、同じ瞬間を共有する。
「……シェリル」
「なに?」
「あなたのことが好きです。
一人の女性として」
間。
花火の音が、遠くで弾ける。
シェリルの顔が、光に照らされて赤く染まる。
「……私もよ、衛」
その声は小さかったが、確かだった。
♢
翌朝。
鍛冶屋の奥の部屋から、二人は並んで出てきた。
互いに目が合い、思わず視線を逸らす。
気まずさではない。
昨日までとは、確実に違う距離感。
シェリルが、くすっと笑う。
「……顔、真っ赤」
「……そっちもだ」
他愛もないやり取り。
だが、指先が触れる距離に、もう迷いはなかった。
火の国の朝は、静かに始まっていた。
新しい関係と、新しい覚悟を胸に。
昨日までとは、確かに――違う朝だった。
衛の一句
鉄を打ち
拳で勝って
愛を知る




