53話 火の国アルディス①
【火の国 アルディス/衛】
火の国アルディスの朝は、音と匂いで始まる。
まだ太陽が低いうちから、石畳を叩く足音、鍋を叩く金属音、炭が弾ける乾いた音が重なり合い、街そのものが息をしているようだった。
熱を含んだ空気が肌にまとわりつき、肺に吸い込むたび、微かに鉄と油の匂いが混じる。
「おはようございます」
ギルド宿舎の扉を開けると、受付の職員が顔を上げた。
「おう、護。早いね。鍛冶屋の助手だっけか」
「はい」
「君、腕が立つらしいな。精霊祭前の拳闘大会、出てみないか? 今年は賞金三百万アルドだぞ」
一瞬、息を呑む。
三百万――凄い額だ。まとまったお金というのは、少し前まで高校生をしていた身には実感が付いてこない。
「……それは、凄いですね。あ、すみません、時間が」
それ以上考える前に、頭を下げて外へ出た。
♢
「衛、おはよう」
鍛冶場の前で、シェリルが手を振った。
いつものツナギ姿、頭にはタオル。煤と汗にまみれた職人の装いだが、近づくたびに胸がざわつく。
「おはようございます、シェリルさん」
「もう、シェリルでいいって言ったでしょ。歳、変わらないんだし」
「……じゃあ、シェリル。よろしくな」
その一言を言うだけで、喉が渇く。
彼女は気づいていないのか、にっと笑って炉の前へ戻った。
♢
午前の作業が一段落し、水を飲んでいると、頭の奥に声が響いた。
午前中の仕事を終え、休憩に入ったころ、頭の中に声が響いた。
『鍛冶屋の助手を始めて数日――なかなか様になってきたな! もっと熱くなれよ!』
火の精霊、アルドバーンだ。
声だけで、体感温度が二度は上がる。
『意中の女を落とせと言っただろう! 心を燃やせ!!』
「……だからって、具体策が欲しいんですけど」
返す間もなく、別の声が割り込む。
『衛、印象は悪くないと思うわよ。強いて言うなら、雑談ね。目的は情報じゃなくて“話すこと”なの。天気の話でもいい、今日街で見つけた発見でもいい。一つずつ会話を増やしましょう。」
クラウディアの冷静な助言。
確かに、自分は必要なことしか話せない。
「……今度、俺から話振ってみるか」
♢
仕事終わり。
片付けをしていると、鍛冶場の入口付近が騒がしくなった。
「……困ります。期限はまだ先でしょ」
シェリルの声だった。
振り向いた瞬間、空気が変わる。
革のコートを着た男が二人。視線が、明らかに“値踏み”だった。
「先代からの融資が滞ってましてねぇ。利子込みで三百万アルド」
男の目が、シェリルの胸元から腰、脚へと這う。
不快な視線。唾を飲み込む音すら聞こえそうだった。
「前金があれば延ばせるんですが……無理なら、身売り先をご紹介しますよ。娼館なんてどうです?」
男が手を伸ばした瞬間――
衛は、考えるより先に動いていた。
その手首を掴む。
「……ウチの店長に触らないでください」
静かな声。
だが、内側では剣を抜いたときと同じ緊張が走っていた。
「なんだ君は。ビジネスの話だぞ」
「金の話なら、拳闘大会があります。優勝賞金、三百万。きっちり払えますよね」
男は一瞬、目を細め、それから嗤った。
「ハハッ。あそこに出るのは“気”の使い手ばかりだぞ。まあいい、そこまで待ってやる」
去り際、耳元で囁く。
「……ダメなら、そのときは、分かってるよな」
♢
「……ごめんね、巻き込んで」
シェリルが不安そうに俯く。
「俺も、ここで働いてます。守るのは当然です」
それだけ言うと、彼女は少しだけ目を見開き、黙って頷いた。
怖かったからなのか、鼓動の高鳴りはまだ止まない。衛からしばらく目が離せなかった。
♢
翌日から、地獄のような特訓が始まった。
鍛冶場の裏手。
炎が揺らめき、そこから“男”が現れる。
実体化した火の精霊は全身を炎に包んだ存在。
輪郭は人型だが、燃え盛る火が表情を隠し、目だけが鋭く光る。
――アルドバーン。
『拳闘大会の基本ルールを叩き込む。気の使用あり、グローブ着用。一ラウンド三分、予選は三ラウンド、決勝は六だ』
炎が揺れるたび、熱波が押し寄せる。
『構えろ。顎を守れ。半身、左が前だ。左で探れ、ジャブだ』
拳が飛ぶ。
『続けて右! ワン・ツー!!』
「……剣道と似てます。間合いの読み合いだ」
『良い。だが甘い!』
炎の拳が迫る。
反射的に弾く。
『パリィだ。受け流せ!』
「打ち落とし……!」
拳と拳がぶつかり、火花が散る。
『上を見せて、胴を打て! ボディだ!!』
呼吸が乱れ、汗が滝のように流れる。
『燃やせ。守るだけの戦いは終わりだ。欲望を認めろ』
衛は歯を食いしばった。
――守りたい。
――勝ちたい。
――彼女を、奪わせない。
それは剣を振るう理由とは違う、“熱”だった。
遠くで、クラウディアの声が響く。
『……戦闘面では、この脳筋精霊、本当に優秀ね』
♢
拳闘大会は、もうすぐだ。
衛は拳を握りしめる。
剣でも、拳でもない。
今度は――心を燃やす戦い。
その炎は、もう消えない。




