46話 水の国アクエリアス序章
【水の国 アクエリアス/勇希】
「ここが、水の国アクエリアスか」
潮の匂いが、まず鼻をくすぐった。
湿り気を含んだ風が頬を撫で、遠くでは漁港の鐘と、木箱を運ぶ音が重なっている。
振り返れば、山際まで続く水田が陽光を反射し、きらきらと波打っていた。
――米が、ある。
その事実だけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
勇希は思わず拳を握った。
「お金は……ないけど」
呟きつつも、足は自然と市場へ向かっていた。
ギルドより先に、見たいものがある。
市場は、音と匂いの洪水だった。
焼き魚の香ばしさ、蒸し米の甘い湯気、香草と油の混ざった匂い。
値切りの声、笑い声、鍋をかき混ぜる音が絶え間なく重なる。
まず気づいたのは通貨だ。
見慣れた「tw」ではなく、「aq」の刻印。
水の精霊を模した紋様が、硬貨の表面に踊っている。
(なるほど……国ごとに違うのか)
看板に書かれた文字に、勇希は目を走らせる。
《異界風味》《来訪者伝承の調理法》
――つまり、先人がこの世界に持ち込んだ技術だ。
「ありがとうございます……」
誰にともなく手を合わせる。
積み重ねがあるから、今がある。
そして。
鼻腔を突き抜けた、決定的な匂い。
――カレーだ。
香辛料の熱、油のコク、玉ねぎの甘さ。
胃が、正直に鳴った。
「……っ」
恥ずかしさよりも、抗えなさが勝った、その瞬間。
「君、お腹空いてるの?」
低く、落ち着いた声。
顔を上げると、そこにいた。
銀色の髪に、金色の瞳。
褐色の肌が陽に映え、探検家のような服装が身体のラインを隠しきれていない。
――やばい。
視線が、勝手に流れる。
胸元、腰、脚。
(見てない、見てない……はず)
勇希は慌てて目を逸らした。
「すぐそこ、ギルドハウスの隣がぼくの店なんだけど。冒険者でしょ?」
「ツケでいいから、食べてきなよ」
「えっ、いいんですか!?」
声が裏返る。
「ギルドでお金工面したら、必ず払います!」
店に入ると、さらに匂いが濃くなった。
日本、アジア系の料理が所狭しと並び、特に――カレー。
「アリスが腹ペコ冒険者拾ってきたか!」
厨房から、酒焼けした声。
「ツケでいいから、食ってきな!!」
「お父さん、二日酔いでしょ。酒くさい」
「酒は百薬の長だ。衛生にも気を遣ってる!」
笑いが起きる。
勇希は、皿を前にして完全に素に戻っていた。
「……やっぱり、カレーにはご飯ですよね」
炊き立てご飯から伝わる『熱』、こんなに熱かったんだ。
一口。
香りが広がり、喉を通る。
「クミン、コリアンダー、ターメリック……」
無意識に口が動く。
「ふうん」
背後から、低く楽しげな声。
「料理する人なんだね」
振り向くと、彼女――アリスが腕を組んで見下ろしていた。
視線が鋭い。値踏みするようで、どこか愉快そうだ。
「ちょうどギルドにコックの依頼を出してたの。ウチで働かない?」
「……え?」
「いいんですか? 僕は勇希。コックで……世界を救う勇者です」
言ってから、しまったと思う。
間。
「……ふふ」
口角が、上がった。
「大きく出たね。でも――嫌いじゃないよ」
近い。
香草と汗の匂いが混じる。
「ぼくはアリス。農学学生でコック」
「精霊祭で、精霊に捧げる料理を作る巫女でもあるの。よろしくね」
差し出された手を、勇希は両手で握った。
温かく、強い。
(……やばい)
これは、料理人としての闘志か。
それとも――。
勇希はまだ、その答えを知らなかった。
勇希流、異世界料理メモ
・米が主食として流通している
→ 水田あり。品種は短粒〜中粒、炊き上がりは日本米に近い
・通貨は 1aq
→ 食材価格は神の箱庭より安定している印象
・日本由来と思われる調理法が残っている
→ 「異界風」「古の来訪者伝来」と書かれた看板あり
・カレー文化が定着している
→ 香り・スパイス構成から、体系的に継承されていると推測
・使用スパイスの基本は
→ クミン/コリアンダー/ターメリック
→ 辛味は控えめ、香り重視
・米×カレーが“正解”として認知されている
→ パンよりもご飯合わせが主流
・酒好きが多い文化圏
→ 料理は「つまみ」「締め」を意識した味設計が有効そう
・料理人の社会的地位が高い
→ ギルド案件あり、精霊祭と直結している
・料理は信仰・儀式と結びついている
→ 「精霊に捧げる料理」が重要視される
・食は生存と記憶に直結する
→ 震災時の炊き出しカレーと同じ“役割”を感じる




