45話 火の国アルディス序章
【火の国 アルディス/衛】
「……着いたな。火の国、アルディス」
足を止めた瞬間、まず鼻腔を突いたのは熱と油の匂いだった。
鉄板で焼かれる肉、香辛料を焦がした刺激、蒸した穀物の甘い湯気。
肺に吸い込む空気そのものが、どこか重く、熱を帯びている。
街並みは不思議な調和を見せていた。
白い石壁と丸みを帯びたアーチ、色鮮やかなタイル張りの建物――
どこかトルコを思わせる西洋風の街路に、赤い提灯や布飾りが下がっている。
市場に近づくにつれ、人の声が渦を巻く。
「安いよ!」「今朝の仕入れだ!」「香り嗅いできな!」
鍋を叩く音、包丁のリズム、火を送るふいごの低音。
それらが混ざり合い、この国そのものが呼吸しているかのようだった。
「……勇希が来てたら、間違いなく喜ぶな」
ふっと口元が緩む。
だが今は、一人だ。
まずはギルドで手続きを済ませる必要がある。
街の喧騒から一歩離れた場所に、ギルドはあった。
石造りの建物の中は、外の熱気が嘘のように落ち着いている。
受付で事情を説明し、外界ギルドとしての登録、支度金の申請、宿舎の手続きを淡々と進める。
――と、そのときだった。
「……すみません、鍛冶屋の助手、誰か居ませんか」
少し高めで、張りのある声。
思わず、そちらを見る。
受付前に立っていたのは、一人の女性だった。
頭にはタオルを巻き、煤汚れを防ぐためかゴーグルを額にかけている。
つなぎ姿――だが、その上からでも分かるしなやかな体の線。
胸元は抑えられているはずなのに、布越しに伝わる存在感。
腰から太腿にかけてのラインは、鍛冶場で鍛えられた実用的な肉付きだ。
だが何より目を引いたのは、匂いだった。
鉄と炭、汗、そして微かに甘い香り。
決して香水ではない。
――生きている人間の匂いだ。
「力仕事だし、火の扱いが上手い人、中々いなくて」
受付が困ったように首を振る。
「そうですか……」
女性が肩を落としかけた、その瞬間。
「……あの」
気づけば、衛は一歩前に出ていた。
「火の扱いなら得意です。力仕事も、問題ない」
自分でも驚くほど、声が自然に出た。
女性はぱっと顔を上げ、こちらを見た。
視線がぶつかる。
――強い目だ。
「本当? 助かる!」
差し出された手を、反射的に握る。
ごつごつした掌。
だが、温かい。
「……あ」
彼女は一瞬、こちらの手を見て、にっと笑った。
「あなた、剣士でしょ。ほら、ここ」
親指で、衛の手のひらの硬くなった部分を指す。
「素振りのタコ。何年も振ってないと、こうはならない」
「……よく分かりますね」
「こっちも、ほら」
今度は彼女が自分の手を見せる。
ハンマーを振り続けた痕。
剣とは違う位置にできた、職人のタコ。
「女らしくないって、よく言われるけど」
照れもなく、そう言う。
衛は、その手を見つめたまま、静かに言った。
「……そんなことはない」
彼女が、きょとんとする。
衛は顔を上げ、目を見て続けた。
「働き者の手だ。火を扱う人間の手だ」
一瞬、空気が止まった。
それから彼女は、ふっと息を吐き、ゴーグルとタオルを外した。
金髪に、青い目。
火の国の熱を纏ったような存在。
肌の上に玉のような汗が光る。
――色気だ。
媚びるでも、誇示するでもない。
ただ、生き方が滲み出る色気。
「……ふふ」
彼女は、少しだけ照れたように笑った。
「私はシェリル。鍛冶屋だ。よろしくね」
その笑顔を見た瞬間――
胸の奥で、何かが確かに燃え上がった。
「…………俺は……衛」
一拍置いて、続ける。
「よろしく」
握った手から伝わる熱。
鍛冶場の火とは違う、もっと直接的な熱。
――ああ、これは。
衛は自覚していた。
一目惚れだ。
火の国アルディス。
この街で、自分は剣だけじゃない“何か”を掴んでしまったのだと。
胸の奥で、抑えてきたはずの“熱”が、確かに息を吹き返していた。
衛、一句詠む
鍛冶の火に
剣より先に
胸が鳴る




