43話 それぞれの旅路
精霊王の術式が発動した瞬間、
視界は白く弾け、重力の向きが曖昧になった。
足元が消え、次に感じたのは――
湿った土の匂いだった。
「……っ」
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、どこか冷たく、青い。
苔と落ち葉、朝露を含んだ土壌の香りが混じり合い、鼻腔を満たす。
ダンジョンの閉ざされた空気とは違う。
風がある。生きた匂いだ。
ゆっくりと目を開く。
そこは、森だった。
背の高い樹々が参道のように並び、
木漏れ日が細い筋となって地面を照らしている。
踏みしめるたび、落ち葉がかすかに鳴った。
少し歩いた先、木製の簡素な看板が立っている。
――《シルフィード 街まで三キロ》
「……風の国、か」
口に出した声は、思ったよりも静かに森に溶けた。
空気の匂いが、わずかに変わる。
草木の青さに混じって、遠くから焼き菓子の甘い香りがかすかに流れてきた。
まだ見えない街の存在を、匂いが先に告げている。
(確かに……昔のヨーロッパっぽいな)
そんな感想が頭をよぎった、その時だった。
――きん、と頭の奥で澄んだ音が鳴る。
『皆、聞こえる?』
クラウディアの声が、直接意識に流れ込んできた。
距離感はゼロ。耳ではなく、思考の中で響く。
『精神感応通信、パワーアップしたわよ。
世界中どこでも届くみたい』
少し誇らしげな調子だ。
『もしもし、聞こえるよ』
勇希の声。
背景音がない。声だけが鮮明に届く不思議な感覚。
『こっちも問題ない』
衛も続く。
『クラウディア、すっごいじゃん』
天の声は、相変わらず明るい。
『……皆、無事みたいだな』
善は、ほっと息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた緊張が、ようやくほどける。
『まずは一番近い街を目指して』
クラウディアの声が、少しだけ真面目になる。
『ハーネスから聞いてきたんだけど、
外界は国ごとに通貨が違うの。
そのせいで、最初はお金に困る人が多いみたい』
(なるほどな……)
確かに、ダンジョン内や神の箱庭とは事情が違う。
『でも安心して。
外界にもギルドがあって、他国のギルドカードがあれば身分証代わりになるの。
少額だけど、無利子の支度金を借りられる制度があるわ』
実体験に基づいた助言だ。
ハーネスが辿った道でもあるのだろう。
『実際にやってきた人のアドバイスは、助かるよ』
善が素直に返す。
『じゃあ、各自ギルドに向かって。
映像通信で定時連絡しましょう』
『了解』
『了解』
『はーい』
通信が、すっと静かになる。
再び、森の音だけが戻ってきた。
風が枝を揺らし、葉擦れの音がさざ波のように広がる。
鳥の鳴き声が高く、どこか澄んでいる。
(……本当に、分断されたんだな)
仲間の気配はない。
だが、不安よりも先に浮かんだのは――奇妙な実感だった。
(それぞれが、それぞれの場所で戦う)
この先、得るものも、知るものも違う。
けれど、同じ結末へ向かう。
善は、ゆっくりと歩き出す。
足を進めるごとに、匂いが変わっていく。
森の湿り気が薄れ、代わりにパンの香ばしさが混じり始めた。
焼き立てのスコーンか、あるいは素朴なパンだろうか。
風が吹く。
涼しく、しかし柔らかい。
肌を撫でる感触が、どこか懐かしい。
数キロ先に街がある。
ギルドがあり、人がいて、
そして――精霊がいる。
この国には、風の精霊がいるはずだ。
(ハーヴィーの故郷……)
精霊王の言葉が、脳裏をよぎる。
――外界、風の国出身のエルフ。
ここには、答えの欠片があるかもしれない。
英雄だった頃の姿も、
歪み始めた最初の理由も。
善は、深く息を吸い込んだ。
森の匂い。
風の匂い。
そして、街の匂い。
それらをすべて胸に刻みながら、
彼は風の国シルフィードへと歩を進めた。
こうして――
四人それぞれの旅が、静かに始まった。
善のメモ
Y
・精霊王の術により、仲間と分断された状態で外界へ転移。
・自分は風の国・シルフィード付近の森林参道に到着。
・看板より、街までは徒歩で数キロ。
・精神感応通信が世界規模で使用可能になっていることを確認。
・クラウディアより、外界では国ごとに通貨が異なること外界にもギルドがあり、他国ギルドカードが身分証になること
・少額の無利子支度金を借りられることを共有される。
・今夜、映像通信で再集合予定。
・まずは最寄りの街 → ギルドへ向かう方針を決定。
⸻
W
・外界は「神の箱庭」とは明確に空気が違う。
・匂い:湿った森の土、樹皮、風に混じる果実の甘さ。
・箱庭より「人の生活の匂い」が近い。
・通貨・制度・生活基盤が国ごとに分断されているため、初動でのギルド接触が生存と行動の前提条件になる。
・クラウディアの《チャット・ウィスプ》強化により、分断状態でも「意思疎通・状況共有」は維持できる。
→ 個別行動でも、孤立ではない。精霊王が言っていた通り、ここからは「箱庭の外=神の管理外の世界」。情報の重みと価値が一気に上がるフェーズ。
⸻
T
・シルフィードの街へ到達。
・外界ギルドで手続き・支度金確保・宿舎確保。
・風の精霊、または精霊に近い存在との接触ルートを探す。
・ハーヴィーが風の国出身である点から、エルフ・長命種・精霊信仰に関する依頼や噂を重点的に拾う。
・外界編では「精霊との接触=戦闘」ではない。ここでは見て、聞いて、嗅いで、考えることが重要。




