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第19話~21話

 井戸の蓋が、夜気を割るようにコーンと鳴った。

 次いで北の沢筋に吊った鈴が、風では鳴らないはずの澄んだ音を返す。鉄と足音の擦れだけを拾う“記述”が、闇の輪郭を炙り出した。


 「来る」

 俺は城壁の影から身を起こし、ノートを開く。ページの白に夜の黒が落ち、指先が自然に走った。

 ――“矢は味方の影を避ける”。

 ――“倒れる石は土嚢を選ぶ”。

 ――“狭い踊り場では、互いに肩がひとつ分だけ譲られる”。


 風向きが変わる。灰狼旅団の別働は北の沢沿い、梯子と短い弩を抱えて静かに迫っていた。鈴の音だけが彼らの足拍子を数え、井戸の蓋が合図のように一度鳴るたび、見張り台の兵が目を合わせる。


 「西側二、北沢三。散開じゃない、挟み込みだ」

 リーナが祭壇の護符を撫で、糸のように細い魔力で結界の穴を塞ぐ。カイルは壕の横木を持ち上げ、走路を広げた。

 「アリシア、北の鈴をもう一段、手前に」

 「了解」


 最初の影が崖の縁に足を掛けた瞬間、俺は短く書く。

 ――“崖の縁は『危うい』を足裏に伝える。踏み越える者は、自分で止まる”。

 ほんのわずか、敵の足並みが鈍った。遅れた一歩の隙に、アリシアの矢が盾の継ぎ目を抜け、カイルの板剣が梯子を払う。


 弩の音が三つ。矢が闇の中を鋭く走る――だが、味方の肩をかすめることなく、石垣の無傷の面へと吸い込まれていく。

 「誤射がない……この密度で」

 壁上の兵が震える息で呟いた。俺は頷き、もう一行だけ足した。

 ――“怒りは粉の落ち着く速さで鎮まる”。

 昼間の南市で書いた文言が、ここでも静かな波を作る。焦燥は薄く、息の合図が通る。


 やがて灰狼の旗頭が短く笛を鳴らし、別働は後退に移った。深追いはしない。鈴は止まり、井戸の蓋が最後に一度だけ鳴って黙る。

 「……生きてる」

 アリシアが弓を下ろし、夜の冷たさを吸い込んだ。

 レフティア司令が肩を回しながら言う。

 「不気味な戦いだね。死人の匂いが薄い。だが、悪くない」

 俺はノートを閉じる。規範の輪郭がまたひとつ濃くなった気がした。


 明け方、灰狼の東陣に白布が掲げられる。停戦の意志。

 「向こうが折れた」カイルが小さく笑う。「こっちから殺しに行かなかったことが、逆に効いたな」

 俺は頷き、次のページに“交渉のための一行”を用意した。


第20話「境界の停戦」


 城門前、槍を伏せた兵が二列に開き、白布の下で双方の使者が歩み寄る。

 灰狼の頭目は痩せた男だった。目は鋭いが、戦より胃の痛みに悩んでいるような面持ち。

 「ここまでやる砦は、久しい」

 彼は乾いた声で言い、俺の手にある薄いノートへ顎をしゃくった。

 「それ、噂の“記す本”か」


 俺は一礼し、壇上に置いた共用の板に、皆の見える前で書く。

 ――“停戦旗の下では、武器は抜かれない”。

 ――“嘘は三度繰り返せない(三度目で声が詰まる)”。

――“捕虜は負傷の重い順に返す”。

 ――“撤退路では、石は人を避ける”。


 板に刻まれた字が、ほんのわずかに温度を帯びる。

 「ルールが見えるのは助かるな。山の狼でも、約束は嫌いじゃない」

 頭目は肩をすくめ、懐から小さな布袋を出して投げた。砦の倉から盗られた印章と銀片――昨夜の乱戦で失われた物だ。

 「借りは返す。だが覚えとけ。俺たちは飢えたから雇われた。飢えが終われば、戦も終わる」


 レフティアが短く答える。「飢えの終わらせ方は、剣ばかりじゃない」

 交渉は二刻で終わり、灰狼は山道へと解けていった。

 門が閉まる直前、頭目が振り向いて言う。

 「“殺す意志”より“守る意志”の砦は、噂が早い。――気をつけろ」


 俺はノートを撫でる。噂は風だ。風は、冷たくも、種を運ぶこともある。

 「王都へ戻る。憲章を形にする時だ」

 そう告げると、レフティアは掌を出した。

 「兵は甘やかさないが、礼は言う。玩具じゃない“楔”に」

 固く一度だけ握手を交わし、俺たちは砦を発った。


第21話「王都の審問」


 王都に戻ると、宰相府は待っていた。

 「国家最優先枠――発動。継承者の力を常備し、予算と権限を集中する」

 文言は冷たく、磨かれた短剣のように簡潔だ。広場での公開審問が即日で開かれ、学術院のセズが進行を務め、教会と商会、騎士団、記録院の席が半円に並ぶ。民衆がぐるりと取り囲む。


 宰相の側に控える書記官が、やたらと封書を積み上げていた。

 王女は席に着くなり一言だけ落とす。「光の下で」

 俺は頷き、壇上の机に共用の板を置く。皆に見えるように、一行だけ書いた。

 ――“この審問の間、書類は誰にも改竄されない”。


 板の表面が淡く熱を帯びる。

 セズが合図し、封蝋が一つずつ切られる。

 「北方砦防備費の支出簿、商会連合への補助金の流れ、灰狼旅団への賃金」

 読み上げる声が進むにつれ、書記官の顔色が僅かに変わった。差し替えられていたはずの数字が、板の上では元の姿に戻っている。


 「どういうことだ」宰相が低く唸る。

 群衆の間から、ひゅう、と冷たい風が吹くようなざわめき。

 セズは表情を変えずに続けた。

 「記録の改竄が意図されていた形跡。灰狼旅団への“別途”支払い。混乱の演出。――公開の規範は、これを許さない」

 ガルドが苦笑いを貼り付ける。「市場は常に複雑でしてな」

 王女は静かに首を振った。

 「複雑と不正は別だ。私益のための『記せ』は、王都に要らない」


 俺はもう一行、板に加える。

 ――“この審問での証言は、利権のためにねじ曲がらない”。

 言葉は縄のように場を縛り、聴衆の目線がひとすじに揃う。

 教会の灰衣司祭が低く祈句を唱え、「神意に非ず、悪魔に非ず、中立」と結ぶ。

 セズが最後に宣言した。

 「記録院は“記録憲章”の策定に入る。継承者の力は公開と監査の下に運用されるべきだ」


 拍手が波のように広がる。王都の空は高く、石畳は乾いている。

 俺はノートを閉じた。

 ――ここまで来た。

 あとは、仕組みに変える。呪いを分け合う枠を、作る。

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