第18話「東境界の砦」
王都を発って二日目、東の空が鉛色に曇り、風が乾いた土の匂いを運んだ。
丘陵を越えるたびに、遠くの稜線が低くなる。道はやがて石の砕けた白い帯に変わり、左右は雑木林から背の低い灌木へ。――国境は、目に見えないが、空気の張り付きで分かる。
「……あれが砦か」
カイルが馬を止め、顎で示した。
岩山の肩に、角ばった城壁が張り付いている。灰の石と黒鉄の門、矢狭間は粗く、塔の頭には破れた幟。
アリシアが目を細めた。「旗、色が薄い。補給が遅れてる証拠だよね」
「魔力の流れも痩せてる」リーナが囁く。「護符は貼ってあるのに、繋ぐ祭壇が貧血みたい」
門前に到着すると、槍を構えた兵が慌てて整列した。
「停まれ! 身分を――」
ギデオンが前に出て、監察官の証を掲げる。「王命随行。継承者リオを護送する。砦司令に通せ」
兵たちの表情に、緊張と期待が混じる。俺は頷き、門をくぐった。
中庭は土がむき出しで、ところどころに雨水の溜まりが残っていた。籠城井戸の石輪には苔。火砲の台車は車軸が鳴き、矢束は紐が解けかけている。
「人手と予算、両方足りてねえな」カイルが苦い顔で呟く。
司令棟から現れたのは、四十前後の女将校だった。短い黒髪、日焼けした肌、声は低い。
「私が砦司令のレフティアだ。王都からの“規範つき継承者”……面白い玩具を送ってくれたもんだね」
言葉は荒いが、目は疲労の奥に理性を保っている。
「玩具になるつもりはありません」
俺は一礼し、ノートを掲げた。
「記す内容は、既に王都で定めた通り“人を傷つけずに守る”に限ります。戦術の決定権はあなたに。俺は道具じゃなく、『規範の楔』として動く」
レフティアは鼻で笑い、手を振った。
「言うじゃない。じゃあ見せてもらおうか。壁の上へ」
◇
城壁は予想より低かった。風を遮るための布幕は破れて、弓兵たちの頬は赤く荒れている。
「峠筋の斥候から狼煙。相手は“灰狼旅団”だ。山賊崩れの傭兵集団。弩と投石器を持ってる」
レフティアが望遠筒を差し出す。遠くの鞍部で小さな黒がうごめいている。
「攻城戦の装備ではないけど、嫌らしい。矢狭間に石を詰め込んで塞ぐつもりだよ」アリシアが悔しそうに言う。
「祭壇の護符も弱いから、魔術の防壁は期待できない」リーナが肩をすくめた。「物理で耐えるしかない」
俺は城壁の上でノートを開いた。
――“避難路は塞がらず、倒れる石は人を避ける。矢狭間は誤って人を射ない”
ページが淡く光り、城壁の石目が微かに震えた。
「……感じるわ」リーナが壁に手のひらを当てる。「石が“人の重さ”を覚えた。倒れ方を学んだみたい」
レフティアの顔色が少しだけ変わる。「妙な詩だな。だが、悪くない」
続けて俺は広場の端に降り、井戸と物見台の間に白線を引くようにノートへ書き込む。
――“包囲の刻、子と老はここを通る。人の流れは塞がらない”
兵士たちがざわついた。「道が……見える」
「見えるんじゃない。感じるんだ」カイルが肩を叩く。「足が勝手に譲る。お前ら、試してみろ」
アリシアは矢束を整えながら小声で囁いた。
「リオ。規範、どこまで行ける?」
「“敵の命を鈍らせる”方向には手を出せない。できるのは、“こちらの失敗を減らす”こと。崩落、暴発、誤射、混乱」
「それで十分だよ」アリシアは笑う。「十分以上だ」
◇
日が傾きはじめたころ、狼煙が三つ連なる。
「来るぞーッ!」見張りが叫ぶ。
斜面の向こうから、灰色の外套を羽織った男たちが列をなし、盾と投石器を押して現れた。
「弩の射程、ここ!」アリシアが素早く白石で印をつける。
レフティアが声を張る。「第一列、矢を番え! 投石器、準備! ……撃て!」
弓弦の連打。黒い点が空にほどける。
敵の弩が唸り、矢が壁に突き刺さる。甲高い金属音、石粉の霧。
俺はノートに二行、短く打ち込む。
――“砦の矢は、狙わぬ者を避ける”
――“弩の矢は、矢狭間の石を砕かない”
光が走り、数本の弩矢が壁に当たって鈍く跳ねた。狙いの甘い味方の矢は人の肩先を抜け、狙った矢は風のわずかな乱れを吸収して一直線に伸びる。
「命中率が上がった……!」弓兵が唸る。
「誤射が消えたぞ!」別の兵が叫ぶ。
レフティアは口元を引き締めた。「続けろ!」
敵が投石器を前進させ、太い縄の張力を上げる。
「石弾――来る!」リーナの声。
俺は反射で書いた。
――“投石の弾道は、避難路の頭上を外れる”
――“落ちる石は、人より先に土嚢を選ぶ”
石弾が唸って飛び、土嚢の壁に叩きつけられて破裂した。土煙。だが、避難路の白線の上にいた少年が、驚いた顔のまま無傷で立っている。
「下がれ!」カイルが少年を抱え、階段へ押し出す。足の流れは自然に彼を受け取り、すべるように彼を後方へ運んだ。
敵が陣形を三枚に分け、東の崖側から回りこみを狙ってくる。
「側面、薄いぞ!」アリシアが矢を連ねる。
俺は壁の内側で、崖へむけて一文。
――“崖の縁は、足裏に『危うい』を伝える。踏み越える者は、己で止まる”
灰狼の一隊が縁で足を取られ、隊列が崩れた。だがすぐに立て直し、盾を組み直す。
レフティアが舌打ちした。「しぶとい。傭兵明けの足だ」
「リオ、魔術は?」リーナが問う。
「祭壇が貧血だ。大術は打てない。代わりに……」
俺は井戸へ走り、蓋の石に手を置いた。
――“籠城の水は、最前列を潤す。汲む動線は、戦を邪魔しない”
井戸の滑車が軽くなり、水桶がまるで人の手を待つようにすうっと上がった。伝令が叫び、水皮袋が前線へ飛ぶ。
「生き返る……!」
乾いた唇に水が触れ、兵たちの目に火が戻る。
◇
戦は、押し引きのまま夕の赤に染まった。
灰狼旅団は深追いせず、損耗の前にじわりと退く。投石器の一台が車軸を折り、置き去りにされた。
「追うな。夜の斥候を増やせ」レフティアが命じ、肩で息をついた。「……持ったな」
「持たせた、だよ」アリシアが笑いながら矢筒を撫でる。
リーナは祭壇に新しい護符を貼り、糸のような魔力を繋いだ。「明日の朝まで、結界の継ぎは保つ。夜襲に注意して」
カイルは折れた槍を束ね、若い兵に渡した。「次は折る前に捨てろ。命が先だ」
レフティアが俺の前に立ち、軍靴の踵で土を踏む。
「“玩具”って言ったの、撤回してやる。……だが、あんたの力は兵を甘やかす。慢心の芽を摘むのも司令の役目だ」
「分かってます」
俺はノートを閉じ、額の汗を拭った。「だから“失敗を減らす”だけにした。敵の命運は、俺のペン先には載せない」
「よし」レフティアは短く頷いた。「明日は補給隊が来る。道は荒れてる。紙に、一本の“道”を書けるか?」
「書ける。ただ、それは道そのものじゃない。『譲り合い』や『車輪が嵌らない浅い轍』の“傾向”だ」
「十分だ。命が一列、前へ進めるなら」
◇
夜。砦の食堂は薄暗く、塩と肉の匂いが漂っていた。長卓にパンと固いチーズ、薄いスープ。兵たちは疲れた笑い声を交わし、時折、昼の矢狭間の話題で盛り上がる。
「狙いが勝手に修正される感じがしてさ」「いや勝手じゃねえ、手が覚えたんだよ」「どっちでも当たったなら良い」
カイルは木椀を空け、一息ついた。「生きて喋ってるなら、勝ちだ」
リーナは帳面をめくり、護符の残りと祭壇の配列を計算する。
アリシアは弓弦の傷を指で撫で、小声で呟く。「明日も頼むね」
俺は席を立ち、外の夜気を吸った。
星が近い。王都よりも、ずっと近い。
城壁の上は風が強く、遠くで狼か犬か分からない鳴き声がした。
ノートは膝の上で静かに呼吸している。ページを開くと、黒い文字がひとりでに浮いた。
――《セオド》
――《初日の記述、読んだ。石の倒れ方、良い。避難路も良い。……だが“道を書く”のは気をつけろ。人は楽になると、思考を道に預ける》
――《二日目は、“道標”だけを書け。『ここから先、戻り道が二つ』とか、『ここで一度、深呼吸』とか。人に考えさせろ。継承者が全ての線路を引くな》
ページの端に、別の筆跡が入り込む。
――《ギデオン》
――《明け方、灰狼の“別腹”が北の沢から回り込む。見張りに“音の記録”を。鈴を吊るし、風鈴のように“異音だけ響く”と書け》
指が自然に動いた。
――“北の沢筋に吊るした鈴は、風では鳴らない。人の足音と鉄の擦れで鳴る。鳴ったら、井戸の蓋が一度だけ鳴いて知らせる”
――“城門の蝶番は、敵の手で触れると『錆の匂い』を放つ。犬が知る匂い。犬番の前に走る”
文字が定着し、砦そのものが、耳と鼻を持つ感覚が走る。
背後で足音。
レフティアが外套に腕を通し、煙草草の巻きを唇に咥えた。
「眠れない口か」
「眠れたら、書けない気がする」
「眠らないと、書けなくなる」
彼女は火をつけず、巻き煙草を指で折り、ぽいと闇に投げた。「私は兵の“慢心”が怖いが、あんたは自分の“空洞化”が怖いんだろう。――朝までに、怖さを紙に書け。怖さを外に出してから戦え」
俺は頷き、空白の見開きを作った。
――“俺は、俺を失うのが怖い。規範を失うのが怖い。仲間を失うのが怖い”
――“それでも、このペンを置かない。だから、朝になったら三人の名を呼ぶ。アリシア、カイル、リーナ。――俺に戻る呪文”
書き終えると、胸の結び目が少しだけ緩んだ。
星が一つ流れた。
遠く、井戸の蓋が、コーン、と一度だけ鳴る。
風ではない。人の、匂い。
鈴も、わずかに震えた。
「来る」俺は立ち上がった。
闇の稜線に、灰色の影がいくつも、静かに溶け込んでいく。
規範はここにある。
怖さも、ここにある。
――二日目の夜が、始まった。