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第17話「揺さぶりの街角」

 公開の檀上が解体されるころ、王都の空は白く霞んでいた。

 広場に残ったのは、足跡と紙片と、幾つもの溜め息。規範を宣言したことで安堵の笑顔もあれば、期待が外れて舌打ちする顔もあった。

 「相場を上げ下げしてくれりゃ、一儲けできたのによ」

 「戦場で敵の矢が全部落ちる、って書けばいいだろ」

 無邪気な欲望と無邪気な暴力。そのどちらも、光の下では色がはっきりする。


 迎賓館へ戻る途上、王女の侍従が無言で一礼して去った。王女は表に出ない。かわりに城下の掲示板には簡潔な文が貼られた。――《記す力は公の規範の下に。私益のための請負、厳禁》。

 短い一文が、王都に薄い波紋をつくる。賛同の拍手も、反発の怒声も、どちらも混じった波。


 「火種は残ったままね」リーナが呟く。

 「むしろ薪が増えた」カイルは周囲を見回しながら肩をすくめた。「露骨な連中が動くぞ」

 アリシアは俺の横顔を覗き込む。「大丈夫?」

 「……大丈夫にする」

 ノートの背が掌に食い込み、鼓動と同じ速さで熱を発していた。


 ◇


 午後。記録院の門前に、人だかりができた。

 院の壁に取り付けられた新しい木札には《公共記録台》と刻まれ、下に投函口がある。市民が「公益と認められる記述の提案」を入れ、記録院が選別し、俺が公開の場で行う――王女とセズが合意した暫定の仕組みだ。

 「井戸水に混ざる錆を抑えられるか」「子どもの迷子札を配れるか」「橋の板が一週間は抜けないように書けるか」……

 紙片は素朴で、まっすぐだった。息をするように暮らしている人たちの、小さな願い。


 人波の向こうから、脂の乗った声が割り込んだ。

 「おや、継承者殿。良い仕組みをお作りで」

 濃紺の外套、金糸の刺繍。指には宝石、眼は笑っていない。商会連合の重鎮、ガルド・モルス。

 「公益の顔をした“共同運用”のご提案を。南市パン組合が粉不足でしてね、三日後の値崩れを“記して”おいてくだされば、備蓄の配分が――」

 「値崩れは市場だ。俺が書けば、市場を歪める」

 「歪みとは、勝者と敗者の境目のこと。境目はいつだって生まれますぞ?」

 柔らかな言葉の刃。

 「――お引き取りを。ここは市民の投函口です」アリシアが一歩進み出た。

 ガルドは肩をすくめ、帽子のつばを上げて笑った。「ええとも。ではまた“別口”で」


 別口は、すぐ来た。


 ◇


 夕刻、南市で小競り合いが起きた。

 粉の入荷が遅れ、パン屋の前に長蛇の列。誰かが「裏で値を釣り上げてる」と囁き、誰かが「記せばいい」と叫ぶ。視線は、自然とこちらへ向いた。

 「継承者だ! 公平にしてくれ!」

「子どもが食えねえんだ!」

 押し合う肩、尖る声。列は波のようにうねり、老女がつまずいた。

 俺は駆け出しながらノートに走り書く。

 ――“この場にいる者の足は、互いを踏みつけない”

 光が路地を撫で、足裏に柔らかな抵抗が生まれた。押し合いは波打ちながらも、転倒は起きない。

 「助かった……!」老女をアリシアが抱き起こす。リーナは井戸から水を汲み、蒸気管の熱で温めて手渡した。カイルは店の戸板を外し、臨時の仕切りを作って列を整える。


 ガルドが角の影からこちらを観察していた。

 「やはり“相場”は書かない。……ならば感情を煽れ、か」

 彼の視線の先、少年が大袋を抱え、わざと人波にぶつかった。粉袋が裂け、白い煙が弾ける。悲鳴。押し合いの力が一瞬上がる。

 俺は二行、畳みかける。

 ――“この列の先頭から最後尾まで、押し返す力は互いに均される”

 ――“人の怒りは、粉が空に落ち着く速さで鎮まる”

 風がふっと抜け、白が沈降するように地へ落ちた。怒声は息切れのように小さくなる。

 「魔法でも祈祷でもない、言葉の楔……」リーナが目を細める。

 「規範の内側でしか打てない楔だ」俺は息を吐いた。「誰の利益も選ばない。“落ち着け”だけを記した」


 群衆が散り始める。パン屋の主人が頭を下げ、店の裏で臨時の小麦粥を振る舞うことにした。

 「今日食えればいい。明日はまた、考える」

 その言葉に、胸のどこかがぎゅっと鳴った。――俺が支えたいのは、こういう小さな明日だ。


 ◇


 夜。迎賓館の裏手で、乾いた音。

 カイルが反射で盾――の代わりの木板を上げ、何かを弾いた。

 壁に突き刺さっていたのは、羽根を巻いた短い矢。毒。

 「来たな」ギデオンが闇から現れ、矢を抜いて匂いを嗅ぐ。「教会の“抑制派”が使う眠り毒に似ている。だが分からんよう混ぜてある」

 次の矢音。アリシアが半歩先に出たが、俺はノートに走らせた。

 ――“飛来物は、目に見える高さで止まり、音を立てて落ちる”

 空気が硬くなり、ピン、と弦のような音。矢は屋根の軒先で減速し、石畳に転がった。

 「人を傷つけずに止める。便利な規範だ」ギデオンが乾いた笑みを浮かべる。

 「便利に見える時ほど、危ない」リーナが矢を回収しながら言う。「“止められるならもっと止めろ”という欲望が集まる」


 闇の向こうから、低い祝詞がわずかに聞こえた。教会の灰衣――いや、彼らに似せた何者か。

 カイルが一歩踏み出す。「追うか?」

 「いい。罠だ」俺は首を振った。「規範の内側から離れすぎると、言葉が薄くなる」


 立て続けの揺さぶり。商会、教会を騙る影、噂師。

 王都は、俺がどこまで書けるかを試している。


 ◇


 夜半、王女の私室の前。

 侍従に通され、俺とアリシア、リーナ、カイル、そしてギデオンが円卓についた。王女は窓辺に立ち、月の光を袖に集めている。

「南市は鎮まった。ありがとう」

 「規範の中で、できることだけを」

 王女は頷き、指で机を二度叩いた。侍従が銀盆を差し出す。封蝋、黒。――宰相府。

 ギデオンが一歩前へ出て読み上げた。「王国国璽院告示。『国家最優先枠』発動。継承者リオを、東境界の砦へ随行せしめる。期は三日後。目的、砦の“防備記録”の強化」

 部屋の空気が凍る。

 「戦だと?」カイルが低く唸る。

 「“防備記録”は公益に聞こえる」リーナの指が震え、杖の飾りが微かに鳴った。「でも、それは実質“戦の補助”」


 王女は顔を硬くした。

 「……私は反対した。けれど『国家の防衛』は“公益”として押し通される。君の規範は、法の上では無効化されてしまう」

 俺は封書を見下ろした。黒い蝋が月光を弾く。

 ――選べ。従うか、抗うか。


 ノートが熱を帯び、頁の縁が震えた。

 《セオド》の文字が滲み出る。

 ――《行くなら、規範を携えたまま行け。“人を傷つけずに守る”と書き、砦の石に刻め。戦は止められない。だが、止血はできる》

 ――《行かないなら、ここで“記録院の自治”を記せ。王都から出るな。長い消耗戦になる》


 呼吸が浅くなる。二つの未来が、胸骨の裏で軋む。

 アリシアが俺の手を握った。「リオ。どっちを選んでも、私たちは行く」

 カイルが笑った。「砦でも王都でも、盾は持つ」

 リーナは真っ直ぐに俺を見る。「規範を失わない方を」


 王女がゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 「私は“王都を守る者”。でも、市井の明日を守る君に賭けたい。選べ、継承者。決めたら、私ができる限りの道を作る」


 石畳の匂い、月の冷たさ、掌の温もり。

 俺はノートの白紙に指を置いた。

 ――“東境界の砦へ向かう。ただし、記すは『人を傷つけない防備』に限る。避難路は塞がらず、矢狭間は誤って人を射ない。倒れる石は人を避ける。兵糧は三日分、弱き者から配る”

 ――“この記述は、王都に残る者たちの『記録院の自治』を侵さない。王都では公共記録台が継続する”

 文字が定着し、部屋の空気がわずかに緩む。

 王女の口元に、初めて温度のある笑みが浮かんだ。

 「……賭けましょう。二つの道を同時に繋いだ者に」


 ギデオンが短く息を吐く。「ならば準備だ。行軍路の地図、補給の手配、記録院の残置運用――時間は少ない」

 窓の外で鐘が鳴る。遠く、夜警の槍が石を叩く音。

 胸の奥で何かがほどけ、同時に締め付けられる。代償は減らない。だが、規範の輪郭は濃くなった。


 部屋を出る前、王女が俺だけを呼び止めた。

 「継承者。……あなたの“言葉”は、私の剣より遠くまで届く。だから、時々でいい。剣の長さも、忘れないで」

 「忘れません」

 「約束を記しなさい」

 俺はノートに一行、書いた。

 ――“権力の剣より、先に民の飯椀を見る”

 王女は目を伏せ、微かに笑った。


 廊下に出ると、アリシアが肩で小さくぶつかった。

 「……よく言ったね」

「ああ」

 「じゃあ行こう。砦にも、明日にも」


 夜気が肺に沁みる。王都は眠らない。

 揺さぶりは止まない。

 けれど、規範は――書けば、そこに在る。

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