第15話「継承録の痛み」
水の底から浮かび上がるように、意識が戻った。
天井は白い漆喰、窓には薄青のカーテン――迎賓館の客間だ。頬に冷たい布。扉の向こうで控える靴音。
指を動かすと、手のひらにざらつき。ノートが置かれている。表紙は無事だが、中身はうっすらと熱を持っていた。
「……起きた?」
アリシアが椅子から立ち上がる。目の下に薄い影。
「心配かけた」
声がひどく遠く聞こえた。自分の声なのに、どこかよそよそしい。
水差しの杯を受け取って、喉を潤す。金属臭が混ざる――血だ。舌の奥に鉄の味が残っている。
「朝方、城の衛兵があなたを抱えて入ってきたの。監察官が付き添ってた。『地下で倒れていた』って……いったい何があったの?」
アリシアの問いは鋭い。誤魔化せない。
「……“継承者”に会った。二百年前の。名前はセオド。記録庫で、継承録を受け取った」
言葉にした途端、後頭部の奥で誰かが指を鳴らしたように視界が明滅した。ページの束の影から、無数の囁きが這い上がる。
――忘れるな。記せ。代償を払え。
扉が開き、カイルとリーナ、そしてギデオンが入ってきた。
「生き返った顔だな」ギデオンは無表情で近づくと、窓を開け、冷たい空気を入れた。「助言を無視して地下に行き、禁書を抱えた。――思ったより早く“大人”になったな」
皮肉に聞こえたが、叱責だけではない。事実確認の温度だ。
「継承録を……本当に」リーナが目を伏せる。「読むほどに侵されるわ。あれは、記録であり毒よ」
「毒でも、必要だ」俺は起き上がり、寝台の端に腰を移した。「この先、王都は遠慮なく踏み込んでくる。切り札がなければ呑まれる」
アリシアは俺の顔を覗き込み、少しだけ表情を曇らせた。
「リオ、目の色が……少し違う。眠れてないせい?」
答えようと口を開いた瞬間――ふっと、視界が二重になった。
寝台に座る“俺”と、床に膝をついて荒く息をする“俺”。二つの像が重なり合い、波紋のようにずれる。
胸がきゅっと強張った。
「……今の、見えた?」
「何が?」アリシアは首を傾げた。
「いや……なんでもない」
ギデオンが机に封蝋された書状を置く。赤い紋章――宰相府。
「午下、学術院“記録院”に出頭。君の“記し方”の監査だ。宰相府、教会、商会連合の監察官が同席する。友好的な場ではない」
「断れない?」
「断れば即座に『危険な遺物保持者』の烙印がつく。王女が庇っても限度がある」
俺は頷き、ノートの表紙を撫でた。皮膚の下で鼓動が一つ大きく跳ねる。
――選べ。書くか、沈むか。
◇
記録院は王都の学術区画の奥、白い回廊を抜けた先にあった。
半円形の審問室。段になった席に各派の代表が並ぶ。中央には木製の台、表面には細かな魔術刻印――“記録の偽造防止”か。
俺が立つと、ざわり、と空気が変わる。人々の視線が皮膚の上を流れていく気がする。
正面、主席に白衣の若者――セズ・ハルトが座っていた。昨日の涼しい目が、今日は冷たい刃物のようだった。
「始めよう。継承者リオ」
セズは細い指で杖の頭を軽く叩いた。「われわれは君の“記し方”が、公共の利益と両立するかを確認したい。協力してくれ」
「可能な範囲で」
「もちろん」
宰相府の書記官が羊皮紙の束を置く。「北方ダンジョンの記録、ならびに盗賊団討伐の記録を提出されたし」
俺はノートを開き、二つの章に指を触れた。ページが淡く光り、審問室の壁に“文字の幻影”が立ち上がる。
――『石像の継ぎ目は脆弱』『盗賊団は東側に落とし網』『番犬ケルバーンの胸甲に隙』
老博士が頷く。「記録の精度は高い。虚偽の気配は……ない」
教会の灰衣司祭が口を開く。「では“未来に関する記述”は?」
喉が渇く。ギデオンの言葉が蘇る。
「未来は流動する。ここでの行使は控える」
審問室に薄いざわめき。宰相府の書記官が唇の端を上げた。
「では“予報”ならば? 王都南門の穀物相場、三日先の値幅を“記す”だけでも――」
「それは市場を歪める」
商会連合の代表が肩をすくめる。「歪みもまた人の営み。ならば“その歪みを前提に動く”のが商人だ」
セズが指先を上げ、空気を止めた。
「ここで決めつけるのは早計だ。継承者。小規模で、公益性が明らかな“未来の記述”をひとつ。例えば――」
彼は机から水差しを取り、台の上に置いた。「『この水差しは、転倒しない』」
単なる実験。だが、いやに嫌な感じがした。
「理由を」
「君が“未来を書けば”それが事実になるのかを、機械的に見る。君自身の意図と無関係な対象なら、危険度は低い。――やってみてくれ」
喉の奥で何かがきしむ。俺はノートに指を置く。
――“この水差しは、本日の審問の間、転倒しない”。
ページが微かに光った。
沈黙。何も起こらない。
やがて審問室の扉が開き、従僕が足をもつれさせて入ってきた。膝が台の脚に当たり、木が震える。水差しは縁まで波打ち――だが倒れない。
全員の視線が一斉に注がれた。セズの目が一段深くなる。
「確認。未来記述、限定条件下で成立」
灰衣司祭が低く祈句を唱える。「神意に非ざる力、しかし悪魔的でもない。中立」
商会代表が笑う。「では相場――」
「やらない」俺は遮った。「今のは“水差しが倒れないだけ”だ。人の暮らしに直結するものは書かない」
宰相府の書記官の笑みが薄闇に伸びた。「高邁だが、国家は情緒で動かぬ」
セズが掌を下ろした。「本日の監査はここまでだ。結論は追って通達する。――継承者。王都にいる限り、君は記録院の“監査対象”であることを忘れるな」
椅子が軋み、視線が剥がれ、ざわめきが解ける。
背中に冷たい汗。ノートの紙縁がじりじり熱を帯びる。
――お前は書いた。世界がそれを見た。
◇
夕刻。迎賓館に戻る道で、石畳の反射がやけに白い。
曲がり角に、紺の外套がふわりと現れた。昨日の少女――王女が一人。護衛の気配は遠い。
「今日の監査、見物だったわ」
「王女殿下が路上で一人とは」
「王都は私の庭よ。庭を歩くのに護衛はいらない。……君は書いた。みんなが見ていた。だから、次の誘いが来る」
「誘い?」
王女は笑った。目は笑っていない。
「教会は“祈祷録”への署名を求める。商会は“予報”の共同運用を持ちかける。宰相府は“国家最優先枠”の誓約書を差し出す。どれかを呑めば、他が敵に変わる」
沈黙が挟まる。
王女はかがみこみ、石の割れ目に咲いた小さな白い花を摘んだ。
「君が選ばないなら、私が選びを作る」
「殿下?」
「“記録院の公開”。市の広場で、君の記し方を公開してしまう。誰のものでもなく、みんなの前に出すの」
俺は思わず声を荒げた。「混乱する」
「混乱はもう始まってる。なら、光の下でやる。暗闇の交渉は、君の魂を削る」
彼女は花を差し出した。白い花弁が指先の上できらめく。
「明朝、広場に来て。来ないなら――誰かが君を連れてくる」
柔らかな足音は、次の角で消えた。
◇
夜。
小食堂に四人で集まる。灯火が小さく揺れ、窓の外で夜警の槍がカン、と鳴る。
「公開?」カイルは眉間に皺を寄せる。「危険すぎる」
「でも、王女の言い分もわかる」リーナが静かに言った。「闇で取り合われるより、公開で秤にかける方が、まだ救いがある」
アリシアはしばらく黙っていたが、やがて俺を見た。
「……リオ。あなたの心、少し――遠いところに行ってない?」
「……見えるのか」
「ううん。感じるの。言葉の端々に“書いた言葉”の響きが混ざる。あなたがあなたを“引用”しているみたいで、怖い」
胸の奥が痛んだ。
継承録のざわめきが、耳の裏でさざめく。
――代償。代償。代償。
「隠しても遅いな」ギデオンはため息をついた。「継承者は皆、少しずつ“現実”から削られる。だから伴走者が要る。君がひとりで立つほど、周囲は喜ぶが、君は崩れる」
俺はノートを机に置いた。指が震えている。
「……言う。俺は怖い。自分が自分でなくなるのが。けど、それでも進みたい。逃げないって、決めたから」
アリシアは椅子を引き寄せ、そっと俺の手を握った。温かい。
「なら、私たちが引き戻す。何度でも。遠くへ行くたび、ここへ戻ってきて」
カイルが笑う。「盾は砕けても、仲間は砕けねえ」
リーナが頷く。「記し続けるなら、読み手を信じなさい。私たちは“読み手”でもある」
こみ上げるものが、喉を塞いだ。
「……ありがとう」
◇
夜更け。部屋に戻ると、机の上のノートがまた勝手に開いた。
黑いページ、白い文字。
――《公開を受けろ。光の下で“規範”を記せ。闇で記せば、やがて私たちのようになる》
追記――《セオド》
窓の外で風が鳴る。石畳の匂い。遠く、鐘。
俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
ページをめくり、白紙の見開きに指を置く。
――“明朝、王都中央広場にて、記録の公開を受ける”。
――“条件:人を傷つける記述は行わない。相場・戦・告発に直結する記述は行わない。記すのは『検証可能な公益』のみ”
――“監査:記録院・教会・商会・市民代表の前で、合意のうえで行う”
文字が定着する。
未来に杭を打つ感覚――同時に、胸に冷たい亀裂。
代償は減らない。けれど、支えは増やせる。
ペン先を置き、灯を吹き消す。
暗闇の中で、仲間の笑い声と、王女の冷たい瞳と、セオドの擦れた声が重なって流れた。
明日、王都は“記し方”を見る。
俺は、俺を失わずに、世界を一行ずつ更新できるのか。
――ページは、待っている。