第14話「記録庫の影」
夜明け前。王都はまだ眠りの中にあった。
石畳は冷たく湿り、街路灯の油が尽きて煙を上げている。俺は外套を深くかぶり、迎賓館を抜け出した。
ノートのページに浮かんだ文字――《記録庫へ。一人で来い。同じ継承者より》――その誘いに抗えなかった。
地下への入口は王城の脇にある古い礼拝堂だった。扉は半ば崩れ、誰も寄りつかぬ廃墟。だが床石を押すと軋む音とともに隠し階段が現れた。
冷気が肌を刺す。暗闇の中を進むと、壁一面に並ぶ棚が現れた。羊皮紙や粘土板が幾重にも積まれ、時間の匂いが濃く漂う。――ここが記録庫。
「来たか、継承者」
声が闇に響いた。
蝋燭の灯が揺れ、浮かび上がったのは白髪の青年だった。年齢は俺とそう変わらない。だがその目は何百年も記録を覗いてきたような深さを帯びている。
「俺はセオド。二百年前の継承者だ」
「二百年前……?」
「記録する者は死なぬ。いや、正確には、記録に魂を縫いとめられる。俺は身体を失い、この記録庫に縛られている」
セオドはゆっくりと近づいた。
「君の【メモ帳】も同じだ。書けば強まる。書けば未来が変わる。だが、代償がある」
「代償……?」
「記録すればするほど、君自身の“現実”は薄れる。いずれ自分が本当に歩んだ道か、ノートに書いた道か、区別がつかなくなる」
胸が凍る。
前世の記憶ですら曖昧な俺が、さらに自分を失っていくのか。
「なぜ、俺を呼んだ?」
「警告のためだ。そして……取引のためでもある」
セオドの手が闇に溶け、棚の奥から一冊の黒い書物を引き寄せた。
「これは“継承録”。歴代の継承者の記録をまとめたものだ。受け取れば、君は全ての系譜を知る。だが同時に、彼らの未練も背負う」
ページを開くと、無数の文字が奔流のように溢れ出した。
「王を欺き、処刑された継承者」
「戦を止められず、血にまみれた継承者」
「未来を変えすぎ、世界から消えた継承者」
吐き気がした。
「……なぜ俺に見せる」
「君が“選べる”立場だからだ。拒めば、ただの外れスキルとして死ぬこともできる。受け入れれば、歴史を背負い、新しい道を切り拓けるかもしれない」
セオドの声は淡々としていたが、その奥には焦燥が滲んでいた。
「俺はここから出られない。だが君はまだ肉体を持つ。頼む、俺たちの未練を――記してくれ」
背後で足音がした。
「……やっぱりここに来ていたか」
振り向くと、ギデオンが立っていた。剣に手をかけ、表情は固い。
「記録庫に立ち入るのは禁じられている。だが継承者が呼ばれることもまた、予想していた」
「ギデオン、あなたは知ってたのか」
「一部だけな。だが一つ確かに言える――その継承録を持ち出せば、君はもう王都の秩序からは外れる。狙われるぞ」
セオドが低く笑った。
「秩序など幻想だ。記録する者は常に権力に狙われる。さて、リオ。君はどうする?」
ノートが震え、ページに文字が浮かぶ。
――“継承録を手に取れば、運命が動く”。
息を呑む。
未来を書き換える力ではなく、未来に選択肢が突きつけられている。
俺は手を伸ばしかけ、指を止めた。
アリシア、カイル、リーナ。仲間の顔が浮かぶ。
背負うには重すぎる。それでも――このまま逃げれば、いずれ仲間を守れなくなる。
「……俺は、受け取る」
震える声でそう言い、継承録に手をかけた。
冷たい光が走り、無数の声が脳裏に響いた。
――『記せ』『忘れるな』『救え』『裏切るな』――
膝をつき、息を荒げる俺を、セオドがじっと見下ろしていた。
「これで君も、真の継承者となった。だが忘れるな。選択には必ず代償がある」
視界が揺れ、暗闇が広がる。
最後に聞こえたのは、ギデオンの鋭い声だった。
「リオ! 立て! ここからが本当の地獄だ!」
――意識が闇に落ちていった。