当然ではないもの
頸椎が砕けている。
彼の命が潰える。
ヨーゼフという眷属を失い、ユージンの主吸血鬼としての力もまた、失われた。
圧倒的な再生力によりまったく血を流していなかった、ヨーゼフと己を貫き繋ぎとめる格子から、ぽたぽたと血が流れ始める。再生力が眷属並みに落ちたのだ。
「役立たずなんて言わずに、背中側の見張りだけでも最後までさせておくべきだったんじゃない?」
ウィルヘルミナが円刃連鎖を左腕に纏って近づく。
そう、先の彼女の「円刃連鎖を振るう音」は――上に向けて振るい、ジズの頭上にある太い枝を切り落として杭の代わりをさせるための予備動作の音だったのだ。ユージンはそれに気づいたらしく、歯噛みする。
「……その場合も、どうせ反応できておらなんだわ。コイツは戦いに向いておらぬ」
「あらそう。なら、組んだことそのものがまちがいだったのでしょうよ」
「かもしれぬな」
「で、どうするの? 勝ち目が無くなったようだけど」
ウィルヘルミナが右手を引き、左腕に纏う円刃を高速回転させる。止めを刺すつもりだった。
即座に彼は格子を引き抜き――
「『眷属が死ねば六日六晩経つまで、次の眷属は作れぬ』というルールがあるからな……」
どさり、とヨーゼフを背から地面に投げ出すと一瞬で地を蹴り木を駆け上がった。
ウィルヘルミナが円刃連鎖で追撃を仕掛けるが、ひとりの体で身軽になったこともあってか当たらない。枝葉を切り裂くだけに終わった。
「勝ち目が無ぅなってまで、戦う気はない。ではな」
高い声音なのに、老いさらばえた印象を残し。
ユージンはあっという間に、その現場から居なくなった。
この場で出くわし、道を訊いて、去っていくかのような速さと気軽さだった。
眷属だったヨーゼフの亡骸をゴミのように投げ出して。
まるでなにも起きなかったかのように去った。
……いや。
長い生涯を送っているのであろう彼に、吸血鬼にとっては。こんなことも取るに足らない些細なことなのかも、しれない。
「速っ。あの様子じゃとても追いつけそうにないのよ。しょうがない、ここはあきらめてこの眷属だけ戦果として連れ帰りましょうか」
ウィルヘルミナもたいして気にも留めない。まるで山菜取りにでも来たような気軽さだ。
ジズは、ヨーゼフのことを許せはしない。彼は子どもを売りさばこうとしていたような、おぞましい敵である。
だが……こうまでその死が軽いと、寒々とした心地になる。
これが吸血鬼だ。
これが化け物だ。
自身の生存と維持にしか興味がなく、他者は蹂躙するためのエサとしか考えていない。
「ところで、疲れたし血が足りなくなったの。七日目には少し早いけど、よこしなさい」
勝手きままなことを言い、ウィルヘルミナはブラウスもスカートも切り裂かれ真っ赤になった喉元から腹部にかけてをうごめかす。
吸血鬼のルール――主吸血鬼は、眷属吸血鬼の血を飲まないと、死ぬ。
ゆえに二人は離れることもかなわず、目的を果たす日まで共に旅をつづけるしかない……。
ジズは無言で右腕の切断面を差し出す。どうせあとで前腕部をくっつけるので、新しい傷口を増やすまでもないと思ってのことだった。途端に彼女は嫌そうな顔をした。
「別の吸血鬼が触れた傷口なんて、イヤよ」
汚いものが触れていたように、指さして言う。
なにをしても死なない存在のくせになにを気にするのか。そう思いながらも冷めた気持ちで、ジズは歯で袖を噛み左腕を晒した。
牙が近づく。命が吸われる。
借りている命であり貸している命。その関係にまたうすら寒くなって、ジズは身震いした。
†
「戻りましたよ、村長」
「はぁい、村長さん」
「……っは、あんたら、生きて……いたのか」
村に帰ってきたジズ、そしてウィルヘルミナを見たセルジュは心底驚いた顔つきでそのようなことを言った。セルジュの後ろでも、村人たちが引きつった顔でジズたちを見つめている。
背負ってきたヨーゼフの遺体を降ろしながら、ジズには「こいつら僕とあいつらが相討ちになればいい、とか思っていたんだろうな」と推測が立ったが、まあそれは言わないでおいた。
「ええ、生きて務めは果たしましたよ。ただ衣服がぼろぼろになったので、替えをください。子どもたちは山に逃がしましたので、探してくるといいでしょう」
「あ、ああ……。服は、用意する。捜索隊も結成するよ」
セルジュはわずかに震えた声で、村民に指示を出した。
ほどなくして司祭服の代わりに使えそうなローブが届いたので、ジズはセルジュの家の中でありがたくこれに袖を通した。女のもののブラウスとスカートも届いたので、ジズは別室に居たウィルヘルミナに声をかける。なにしろマントのなかはほとんど服を着ていないような状態だ。早くまともな恰好をした方がいい。
「服を置いておく。僕はもう着替えたから早く着ろよ」
「んー。……はいはい」
と、返事が遅れるしなんだか声が潤っている。
どうしたのかと思って部屋をのぞけば、ソファに腰かけ足を組んだウィルヘルミナがグラスにブランデーを注いで勝手に飲んでいた。室内にはむっとした酒気が満ちている。
「冷えた体があたたまるし、仕事は終わったのだからいいでしょうよ」
ジズが小言を口にする前にこう言ってくるウィルヘルミナだった。瞳が酒にまどろんでいた。
この女は戦いが終わると、わりとよくこうして酒を飲んでいるのである。ジズはため息をついて、外に出た。
家の表に降ろしていたヨーゼフの遺体を背負子に括り付ける。本部に遺体と牙を確認してもらい、討伐の実績を認めてもらいたいからだ。主は逃がしたかたちだが、居なくなった子どもは奪還したので多少は評価に色をつけてもらえるだろう、とジズは皮算用をはじめる。
ついでに、玄関のところから作業を見ていたセルジュに説明を果たしておいた。
「こいつの主はあいにくと逃がしましたが、眷属を失ったので再生力は落ちています。僕らが居るここに戻ることはまずないでしょう。異端審問会本部にも、こちらの村落が今後守られるようには言い含めておきます」
「助かる、恩に着るよ……」
「本当に?」
着替えを済ませ、酒瓶を片手に戸口へ現れたウィルヘルミナは、不敵な笑みを浮かべている。
襟首を掴み、彼女はセルジュを引き寄せた。
その笑んだ口許から鋭い牙がのぞくのを見て、セルジュは怯える。
「私たち吸血鬼に、本当に恩義を感じているのかしら」
「…………、」
セルジュは黙る。それを見て、ウィルヘルミナは「正直ね」ところころ笑った。
「いいのよ、構わないのよ。むしろ望んだ反応よ。だって、見たでしょう。私たちが大怪我をものともせず再生して立ち回るのを」
この言葉に、彼は自分と村民が向けた銃によってウィルヘルミナが脳を散らしたことやジズの身体に弾丸を撃ち込んだことを思い出したらしい。そしてきっと、致命傷から再生して、人間でないのを示した様のことも。
うぇええ、とうめきながら這いつくばったセルジュは胃の中身をすべて床に吐いた。
騙しておびき寄せたこと、人の形をした相手を撃ったこと、その相手も化け物だったこと、その化け物が村を支配する化け物を倒したこと……積み重なった緊張とストレス、また緊張。それらで頭の中がめちゃくちゃになり、耐えきれなくなったのだろう。
ウィルヘルミナは追い打ちをかける。
「ねぇ吸血鬼が怖い? おそろしい? おぞましい? ああ、きっと、そうなのでしょうよ。であれば、すべきことはわかっているはずよ」
「どっ……我々に、どうしろ、と?」
「約束して。誰にも私たちの正体を喋らないこと。もし誰かが私たちの正体を知っている現場に出くわしたら、ここの人間が喋ったとみなす。吸血鬼が異端審問官をやっているだなんて笑い話、誰かに話したくて話したくてしょうがないでしょうけれど……吹聴されると面倒なの。私、面倒って嫌い。だから面倒を引き起こしたひとのことも嫌いになっちゃう」
だからそのときは――……と言葉を切って、最後まで口にしない。
想像が頭の中を埋め尽くした恐怖により、セルジュはもうなにも言えない。口をぱくぱくさせるばかりだった。
膝をつくセルジュの前でたっぷりと間を取ったウィルヘルミナは、ものも言えない彼の頭にぽんぽんと手を置いた。ぶわ、とセルジュの頬と首筋に冷や汗が湧くのを見た。
「返事は?」
「……はい」
「よろしい」
すっと手を引くウィルヘルミナの前で、セルジュは頭から床に突っ伏した。突きつけられていた剣が喉元から遠ざかったような気分なのだろう。
もう用はないと、きびすを返して彼の前から去る。家を出る。
村民たちが、恐々とウィルヘルミナを見ている。遠巻きに。
恐怖と嫌悪の視線を一身に受けながら、彼女の足取りは軽やかだった。拝借してきた酒瓶を片手に、歌うように言う。
「行きましょう、眷属」
「ああ」
背負子を肩に載せ、ジズは歩き出した。
と、その背に、声がかけられる。
「なぜ」
セルジュだった。
家の入口に立ち尽くし、困惑と恐怖に彩られた声で、言う。
「なぜ……あんたらは異端審問を、やっているんだ?」
吸血鬼なのに、という語を省略した問いかけに、ウィルヘルミナは足を止める。セルジュのそれは、せめて納得が欲しいと思っての質問だったのだろう。
やや時間を置いて、彼女はセルジュに背を向けたまま語る。
「異端審問会こそがもっとも吸血鬼の情報を集めやすいからよ。この眷属が言った、『吸血鬼を追うために生きている』というのは、嘘じゃないの」
セルジュの視線がジズに向く。ジズはうなずいた。
「僕とこいつは、ある吸血鬼を殺すために生きています」
「そいつは――私の母の命を奪い、逃げる途中でこのひとの家族も手にかけた」
そう。
ジズたち一家は、化け物同士の争いに巻き込まれて死んだ。
あの雪の夜。家の中を鮮血で満たした女吸血鬼は、ウィルヘルミナが追い詰めたせいでハーカー家のあたりを通ることにしたのだ。
だからウィルヘルミナが殺したも同然である。ジズもあのままなら、まちがいなく命を落として父母と妹の後につづいていたろう。
しかしあの晩、眷属を得ずに主吸血鬼と化したウィルヘルミナは眷属の血を欲していた。
……吸血鬼のルール。
『主吸血鬼と化した者は、七日七晩にわたって眷属の血を飲まないと死ぬ』。
このルールがために、ウィルヘルミナは命の刻限が迫っていた。周りにほかに人間は居らず、もはやジズを眷属に選ぶしかなかった。ジズもまた、命が危うかったため眷属契約によって吸血鬼の再生力を得る必要があった。
必要に駆られ契約は成された。ウィルヘルミナが口移しに血を与え、ジズの血を吸うことで。
二人はこうして命を貸し合う関係となり、いまに至る。
「だから殺すの。女吸血鬼の名は、カミラ。あるいはミラーカ、マリカ……名前はどうとでも変えているかもね。黒髪に緑の瞳をした、二十歳前後くらいに見える若作りな女よ」
なにか知ったら教えてね、と言い残してウィルヘルミナはふたたび足を進めだす。
ジズはそれに追従しながら後ろを向き、セルジュに言いつける。
「村長さん。約束が守られているか、僕たちはたまに確認に来ます。もし破っていたら、この村は吸血鬼に支配されていたときよりひどいことになるでしょう」
脅し文句が彼らに染み入ったのを見てから、ジズは視線を外す。
今度こそ振り返ることも足を止めることもない。村は、どんどん遠ざかっていった。
とくに得たものもない。最初からこの村になんて訪れていなかったような、そんな気分になってきた。
けれどもその途中、着の身着のままではだしの少女と遭遇する。どうやらジズによって檻から放たれたあとさまよって、この道から村に戻ろうと森を出てきたところだったらしい。
ジズたちに気付くとヒィ、と息を吞み固まった。血みどろの戦いを繰り広げた化け物を見た反応としては当然と言えるだろう。
当然でなかったのは、その後だ。
少女は硬直し、
目を見開いたままではあるが……
歩いていくジズたちに、頭を下げた。
助けられたと、そう思ってくれているらしかった。ジズたち化け物への恐怖はあるが、その上に感謝を置いてくれたのだ。
「……さよなら」
ジズは言い、軽く頭を下げ返した。ウィルヘルミナはなにもしない。一瞥しただけだ。
そこからは誰に会うこともなく、ただ無言で歩く時間――この十年で過ごした時間のなかで、もっとも多かった時間の種別ともいえる――がつづく。
他の村との連絡道に出るまでの道すがら、ウィルヘルミナが時折酒瓶を傾けるちゃぷん、という水音だけが森に響く。
水音がだんだんちいさくなっていく。
「飲みすぎるなよ馬鹿」
「平気よ、酔いすぎたら頭つぶせばいいもの」
グロテスクにも程がある強制アルコール除去手段を述べて、彼女はまた酒を口に含む。
「また無駄足だった。お酒でも飲まないと、やっていられないでしょう?」
退屈そうに彼女は言う。
子どもが助かったことも、感謝を向けられたこともまるで頭に入っていない。一切気にも留めていない。頭にあるのは自分の目的だけだ。
……化け物め。ジズは思う。
けれど、感謝されてはいてもジズだって先の少女から化け物だと思われている。助けたところで人間だと思ってもらえるわけではない。化け物のなかではマシ――くらいだ。
それで納得しなくてはならない。満足しなくてはならない。
わかっていてもむなしさは募り、時折、自分が人間を逸脱してしまった事実が重くのしかかってくる。
ウィルヘルミナには、そういう気持ちは無いのだろうか。
「……僕は、酒は苦手だ。匂いも気になるし酔いは戦いづらくさせる」
「知っているけど急になに? やめろと言われてもやめる気ないのよ」
笑う彼女もかつては人間だったはずだ。ユージンも、ヨーゼフもそうだったはずだ。
だというのに彼女らは人間を軽く見ている。自分が人間を逸脱していることを、むしろ楽しむべきであるかのように享受して人を害し、また人を気にしない。
自分もいずれこうなるのだろうか? 切り落とされた、しかしすでに傷跡もない右腕を見ながら思う。
同時に、「そうなってでも」という思いが心中に湧く。
人で在りたいと願う自分を、蔑ろにしてでも――
「でも、我慢しておいてやるよ」
「なによ、偉そうに」
復讐の旅は、つづく。