禁猟区
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まるで神など信じていないのに十字を切るのが、すっかり板についてしまった。
また、吸血鬼にはまるで効果のないこれら香草類を受け取ることもずいぶん、慣れてしまった。
吸血鬼とその眷属について数多くの弱点が流布しているのは、本当に殺せる弱点を意識しづらくさせるため吸血鬼側がいくつもの噂を流したからだ。
香草や十字架は、じつは効かない。
「招かれていない家に対しては、入れないルールがあるけどな……」
この弱点を怪しまれないよう社交辞令で相手から「おいでませ」のワードを引き出すのにも、すっかり慣れてしまった。
さて、セルジュの家を出てジズとウィルヘルミナは、さっそく吸血鬼の痕跡を追うべく調査を始める。肉片が見つけられたという森のあたりをめぐってみることにした。
「といっても、肉を喰らう怪物なら吸血鬼ではなく人狼や蛇女の可能性もあるでしょうよ」
菓子を食って少し気分がよくなったのか、ウィルヘルミナは仕事に態度を切り替えて言った。
だが観点がお粗末にすぎたので、ジズは彼女の言葉を強く否定する。
「馬鹿かお前は」
「馬鹿とはなによ眷属のくせに」
「眷属が死ねば殺される分際でなにを偉そうにしているんだよ、主」
「主が居なければとうに落としていた命のくせによく言えたものよね、眷属」
いがみ合いのレパートリーも十年で尽きている。いつも通りの言い合いになったことに疲労と不快を感じながら、舌打ちしてジズは話を戻す。
「……人狼はもっと短期的に被害を大きく出してさっさと去る。奴らにとっては『狩り』だからだ。そして蛇女は若い子どものなかでも男だけが狙いだ。娘が居なくなる理由がない」
「じゃ、やっぱり吸血鬼?」
「そうなるだろうな。わざと少しずつ脅して、楽しんでいる」
陰湿なやり口だった。けれど不死性が与える万能感というのは、それに酔う者を生み出しやすい。自分が優れているとの錯覚は、だれをも阿保にする。
乾いた冷たい北風に嗅覚を澄ます。傷肉と腐血の残した臭気がかすかに流れてきたので、それを追う。吸血鬼の眷属となったジズの、血への感覚は鋭敏だった。
「熊は腐肉も平気で食らうと聞くが、この寒くなってきた時期ならしばらく置かれていても傷みは少なかっただろうな」
村から少し傾斜地をくだったところに、肉の転がされていた形跡を見つけた。
すでに土に染み込んで還っていく途中だが、見る者が見ればわかる。
同様に臭気を辿って村を囲むようなその配置、村へ招くような点々とした血の跡をいくつか確認し、趣味の悪い所業だと確信する。
ここ一帯から獣を招くため、臭いが森に満遍なく伝わるよう周到に配置されていた。
「ただ、血が新しすぎるものもある」
「新しすぎる?」
「お前、血の古い新しいもわからないのか」
「さすがにわかりますけど? さっきの血の跡はつい一週間前。その前に見たのは二か月前。その前のは一か月半前ってところね。そうでしょうよ?」
「そこまでわかっていて、どうして問題に気づかないんだよ」
ジズは指先で目頭を押さえる。けれどウィルヘルミナはまるでわかっていないのか、ふしぎそうだった。面倒だがジズは説明を加える。
「もう吸血鬼のやつらは熊や狼をけしかけて脅す必要もないはずだ。熊と狼が味をしめて、村を囲んでいるわけだからな。恐れは十分に与えて逃げにくいようにできている。なのにどうしてまだ、新しい血痕を残す必要がある?」
「たしかにそうね。……恐怖は、与えつづけないと薄まるものだから?」
「それもあるだろう。ただおそらく、もっと面倒な理由だよ」
「なにかしら?」
「それは――」
「あ、ちょっと待っていますぐ飛んで」
言葉を切って、ウィルヘルミナは跳躍する。一拍の遅れもなくジズもそれにつづく。
次の瞬間には、
宙を舞う二人の足元に群がる狼、狼、狼!
獰猛にうなりを上げる、血に飢えた牙の群れだった。
新たな血を撒きつづけて彼らを呼び寄せていたのは、きっとこのため。
「――つまり、理由はこれだ」
「どれ?」
「吸血鬼を狙いやってくる、僕たちへの歓迎」
「な、る、ほ、ど!」
空中から落ちるまでにジズは両腰の杭を抜き、ウィルヘルミナはフードをかぶりマントの内で得物を蠢かせた。
ジズは投げた杭で一頭の首を貫き、その上にかかとから着地してさらに深く突き込む。地面に縫い留めた一頭の上で、もう一本の杭を鷲掴みにして棍棒のように振り回した。
近づく狼の顎がひしゃげて落ちる。つづけて襲い来る牙。下から突き上げる左拳で跳ね飛ばし、開いた真正面に右手の杭を投げる。ちょうどあんぐり開けた狼の喉奥へ突き込まれ、そのまま延髄を貫き出た。
「祈るよ。苦しみが少ないことをな」
正面に駆けながら祈りの手を一瞬組んで、ほどくと同時に杭に伸ばす。貫いたばかりの杭に追いついて血のしたたる先端を空中で引き抜き、横から来たもう一頭の顔面に向けて振るう。眼球を切り裂かれてうめく狼に、横蹴りを叩き込んで牙をすべてへし折った。
ひと息入れて振り返ると、ウィルヘルミナはまだ中空に居た。シャオン、と高く澄んだ音が響き渡っている。
彼女の周りには、
停滞していた血の雨。
それと共に、たったいま重力を思い出したかのように落ちてくる。ばらばらに刻まれた周囲の木の枝葉も、狼の群れも……何頭分かもわからない状態で、どちゃどちゃと落ちた。
またも血をかぶった彼女はマントのフードを脱ぎ払いながら、音高く得物を収納してふむとうなる。円弧を描く血の軌跡が、得物の軌道を一瞬だけ示した。
「けしかけられているようね。私たちはテリトリーを侵したわけでもなかったし、第一この子たちは、怯えが感じられたもの」
「怯えか」
「顔を見ればわかるでしょうよ?」
「僕にはわからないよ」
洞察や知識には疎いがこうした野性の勘だけは、ジズよりよほど鋭い。
こいつは獣に近いのだろう、と思いながら、ジズは知識の言葉を述べる。
「でもけしかけられたということには賛成だ。人里を襲う熊は人間の生活時間帯を学習して、寝静まっている夜襲いに来る。狼ももともと夜行性だ。まだ日の出ているこの時間に動き回っているのは不自然だろう」
……日光に弱いと知られている吸血鬼の身の上で言うのもなんだが。ジズがそう思っているのも知らず、ウィルヘルミナは首をかしげる。
「ああ、そうなのね。……では、ふしぎね?」
「なんだ、その含みのある物言いは」
「だってそれならさっきの村長さん、この時間になにを撃ちに猟銃を持ちだしていたのかしら? 当然、熊や狼が出るようになったこんな場所では、鹿や草食の子は出てこないでしょうに……」
いやな予感がした。
それが銃声という実体をともなって、ジズの前で現実のものとなるのは二秒後だった。
ウィルヘルミナの、
右こめかみから入った弾丸が、
脳漿をぶち撒きながら林の彼方へ抜けていった。