明日
追う者は追われることに気づけない。
『ジョルジェの時にそんなことになったな……』という思い出話を、先日のジズはフリーダと交わした。
どうやら今回も、そうだったらしい。スピルスドルフはおそらく、ジズとウィルヘルミナのことをずっと狙っていたのだ。そして二人にとっての目的人物であるカミラの元に潜むことで、いざという時襲いかかれるようにしていた。
最初に抱え起こしたのがウィルヘルミナでなくジズだったなら、そのまま自爆していたのだろう。相手がウィルヘルミナでは主である以上即殺とはいかないので、タイミングを見計らっていたに相違ない。
二人が復讐を終え、弛緩した瞬間を。
確実な、瞬間を。
「……ヴィル、ベル……゛ミ……、」
「しゃべらないで」
名を呼ぼうとして、ジズは怒られた。
だがしゃべらなければ、意識を保てそうになかったのだ。ちいさなウィルヘルミナの背に負われ、ジズはいまにも意識が落ちそうだった。
……カミラやスピルスドルフを巻き込んだ流水から逃れ、二人は坂を上っていく。背後では滝のようなごうごうという流れの音が聞こえてきている。堰を切ったことで流れ込んだ水が、徐々にルナプネを飲み込んでいく音だろう。
人が通らなくなったことで雑草が繁り、すっかり道でなくなった道を。水に追われて上っていた。
行く先にあるのは、小高い丘の中腹。あそこまで行けば、おそらく水害には遭わない。
そしてそこにあるのは――
「開けた場所に、出た。処置するから」
――ジズの、もっともよく知る場所だ。
かすんだ目でも、わかる。もう基礎の、本当に痕跡くらいしか残っていないが、わかる。
ウィルヘルミナにはわかるまい。カミラとここに来た時、家を焼くまでに間取りをよく把握したとは考えづらいし、一度里帰りをしたあの時は別行動をしていた。
それなのにここに連れてきてもらうことになったというのは……どういう、めぐりあわせなのか。
背中から下ろされる。地面に横たえられた自分の身体が軽く感じる。
視界の中、自分を見下ろすウィルヘルミナと目が合った。
「血を止める。無理やりにでも縫うから、再生力でがんばって」
じっとりと、彼女の肩や首回りを濡らす液体がある。潰れた、かたちを保てなかったジズの体組織から漏れたものだろう。
身体が熱く、軽く感じる。
おそらく腕も、足もすでにない。
表皮も多くが吹き飛んだのだろう。内臓も、どこかは焦げたか。
自分の吐息で喉が焼けるようだ。
把握すればするほど、
もう。
「ヴィル……」
「しゃべらないで」
「無理、だ……」
「やめて」
眷属吸血鬼は。
欠損した部位を再生できない。
人間よりは遥かに丈夫だし、部位さえ揃っていれば相当細切れでも再生できるだろうが……爆発で各部位は遠く吹き飛んだ上に流水から逃げるため、集めるには時間がなかった。
ジズは、もう。
「ヴィル……」
「やめて……」
「たの、む……」
「……………………なにを」
ジズは、ひゅうひゅうというだけになりつつある喉から、声を振り絞った。
「そご、で……死に、たい……」
目線だけで、家の基礎部分が残る場を、示した。
ウィルヘルミナは困惑した様子だった。が、すぐに、意図を察したらしい。
「……ここ、あなたの?」
「ああ」
首肯することすらできず、ため息のような受け答えをした。
彼女は胸が詰まった様子で、一瞬固まり。次いで、ジズをそっと抱え上げた。
一歩ずつ、近づく。玄関口の、外との境界まで来る。
ウィルヘルミナは足を止め、また、泣きそうな顔をした。
「私……」
「……『上がっで、ぐれ』……ヴィル、へ、……ナ……」
ジズが、許可を出す。ウィルヘルミナは、おそらく肌に感じていたのだろう圧力が解けた。吸血鬼のルールによる他者の領域への侵入を許され、一歩ずつ、家に上がった。
なにも残っていない。焼け残った石造りだけ見ても、ジズ以外にはなにもわかるまい。
ジズを抱えたままウィルヘルミナは座り込み、傍にある、石くれを撫でた。
じっと見て、ジズはつぶやいた。
「……こごに、玄関が……あっ、だ……」
「うん」
「そこ、の、……居間で、夕飯、を……父さん、も、母ざ、……妹……、も……」
「うん」
「こごは、階段、で………………」
上を、見た。
あの時は、父と母とが最上段に座り、自分と妹がその二段下に居た。
天窓からいまにも降ってきそうな、星々を眺めたのだ。
……今日の、夜空は。
百年前と、なにひとつ変わらなかった。
ジズは涙が流れそうになった。しかし、もう乾ききった身体からは、なにも出てこなかった。
絞り出せるのは、言葉だけだ。
「……もう……いい、んだ……」
「……なにがよ」
「お前は、自分、をっ……せめ、なぐて、いい……」
もっと早く、言ってやればよかった。
許せなかったが、それでも、大事な人になっていったのだ。
彼女が自分を傷つけることに慣れ過ぎていると、もっと早く気づいてやれたなら。
「ごの、先。お前、が、なにを、選ん……でも……そごに、納得がっ……ぁるなら……。もう、どちらを、選ぶかは、大事じゃ……ない…………」
「うん……」
「僕、は……お前と、お前、の、……正直、な気、持ちと……在るごど、がっ、でぎれば……もう、いい」
「うん」
意識が混濁していく。
伝えたい言葉がごちゃごちゃになっていく。
それでもなにも残せないよりはいい。ひとつ、ひとつ、ジズは吐き出していった。
ウィルヘルミナはいつまでも、いつまでも、それを聞いてくれていた。
だんだん、自分の声が遠く聞こえるようになっても。
彼女はうなずきを返してくれていた。
返してくれていた、はずだ。
……視界のかすみが、いくらまばたきをしても、取れない。
端から濁ってきている。視野の中央、彼女の金の瞳だけが、まだ捉えられている。
もう、時間が無い。
お別れだ。
ああ。
もう、自分も、自分に関するものも、なにひとつ残らない。
そう思うと耐えがたい恐怖があった。
もう表情もつくれないが。もしまだ表情筋が動くなら、きっとまた情けない顔を晒しているだろう。
思いつつ彼女の目を見る。
これが、最期だ。
「……ヴぃ、る……」
「ジズ」
頬に彼女の両手が触れている。
夜空が一度視界から消え、影が落ちる。
かさついて、皮膚の剥がれ下がった唇に、触れるものがある。
口づけを落としたウィルヘルミナは、穏やかな顔で語りかけてきた。
「……生きてみる。この先も。あなたが、私の中に在るから」
その、言葉に。
ジズは、安堵した。
†
――ぜんぶ嘘だった。
生きてみる、なんて。
もう、そんな気持ちは、一切なかった。
「…………うぅ、う……」
動かなくなったジズを抱えて、ウィルヘルミナはうつむいた。
腕も足も失い、焼け焦げて水分さえ尽きた彼と異なり、ウィルヘルミナにはまだこんなにも残っているものがある。水分は目からとめどなく流れ、手足だって健在だ。
それでも、ウィルヘルミナには今度こそ、精神的にはなにも残っていなかった。
だから彼に「私も死ぬ」と告げようかと思った。眷属の血を断てば死ねる身だ、それでいいのではないかと思った。
でも死の直前の彼の目に恐れを見た。
自分が、なにも残らない恐怖。
目的こそ果たしたがそれで終わってしまうという恐れ。
このままではなにひとつの満足もないまま、死なせてしまうと思った。
だからウィルヘルミナは、「まだ生きていく」と伝えた。
だって、彼も。
「嘘、ついてくれたものね……」
妹を殺してしまったと明かした時、ジズは知っていたと答えた。
でもそんなはずはない。見える位置ではなかった。先ほど、家の間取りを説明されたのでなお強く確信する。玄関から転がり出たジズの視線からでは、居間の中はほとんど見えない。
そう伝えた方が、ウィルヘルミナの気が楽になると。そう思ってくれたのだ。
家族の仇を相手に、それだけのことを思いやってくれるような相手と……この先また百年生きたところで、出会える気がしない。
ジズ以上に自分とどう在るべきかを考えてくれる人間など、絶対に存在しない。
そんな人間が息絶えた。
もう、どうしたって生きていける自信はなかった。
『あなたが死んだら私は、殺されたようなもの』そう言いたかった。
ジズが最後に言い残した、正直な自分の気持ちというならそれしかない。
一人きりで生きるには――ただの一夜でも長すぎる。
……、
…………、
……それでも。
彼が憎むべき私を、大事に思ってくれたように。
痛苦を、それだけではなかったと思えるように。
生きることを。
その、手段を。
ウィルヘルミナなら――『使い尽くす』だが。
「……あなたなら、『選び尽くす』。でしょう?」
いつか、彼とそんな言葉遊びでぶつかった。
ああ、こんな細かいことまでまだ覚えている。
彼が、自分の中に在る。
だから――まだ、少なくとも明日くらいまでは、生きていけるはずだ。




