百年の旅路
†
定期的に訪れている、多くの路線が集まる街。
ジズはそこに降り立ち、路を行きかう自動車を避けながら裏通りを目指す。
闇商会を原型に持つ反社会的集団が根城にするようなバーは、この時代でも密会には便利だった。
縦長の店をずんずんと進めば、すでにカウンターの最奥で彼女は待っている。
雨雲の髪が、腰掛けたスツールから零れ落ちている。服装はさすがに余所行きにしたのか、シンプルだが小奇麗な装いとなっていた。
見た目が幼いため入店を拒否されることも多いが、いつも金を掴ませるか血を見せるかで通る。今日は返り血が無いので前者だろう。
「……遅くなった」
横に腰掛けて、ジズは話しかける。
「なにか、頼んだか」
「……なにも」
「そうか」
短い、やりとりだった。
けれどこんなことすらも、じつに久しぶりだった。もうこの十数年はカミラ捜索の経過報告を互いにするだけで、会話らしい会話はまったくなかったからだ。
ぎこちない空気が流れる。
今日のジズは、会話をするつもりだったのだが。ここまで舌が回らないとは、自分でも思ってもみなかった。
仕方なく、普段通りの経過報告から入る。
「フリーダさんと、その孫娘に会ったよ」
唐突に出た名に、ウィルヘルミナは目を丸くする。明確な反応を得るのも互い、本当に久しぶりで――いや、もうよそう。なにもかもが都度、久しぶりだと思ってしまうだけだ。
「会った順番的には孫娘が先なんだが。とある町の酒場で遭遇して、あの槍術をまた目にすることになった。技は、継がれていた」
「……強かったの」
「その時ユージンの奴とも遭遇したけど、奴は腕をぶった切られてたよ」
「……あの男、まだ生きてたのね」
「奴が生きるのに執着してる理由も、よくわかった。それから、いろいろあって。フリーダさんに会った。あの人の旦那さんは、過去にお前に助けられた人だったよ」
「え?」
「変な出会い方してたな、フリーダさんとその旦那。で、フリーダさんもだいぶ歳で弱ってはいたけど、まだむかしの情報網が生きてるとかで。元・異端審問の方からカミラを調べてくれるって」
「え、え」
「あとホフマンが、そう、あのセリーヌの時の吸血鬼だけど。いまは土地の売買に関わってるらしくて、その方面で最近売買した資産家一欄にカミラらしき痕跡があったそうだ」
「え、いや、待って……」
「それと、ホフマンの情報とかを総合したらフリーダさんが策を立ててくれた。『カミラを追い込むための方法ができそうだ』ってさ」
「ちょ、ちょっと待って」
「ああそれからフリーダさんの孫娘、リッキーというけど、彼女は酒場をやってて」
「待って! ひとつずつ、聞かせてくれる?」
「……あ、ああ。悪い」
十数年ぶりだったせいで、会話の機微がまるでわからなくなっていた。
仕入れたこと、伝えなくてはならないことを次から次に話すだけになってしまい、収拾がつかなくなっていた。ジズは落ち着こうと、ひとまず酒を頼む。
ウィルヘルミナは注文を終えても、動こうとしなかった。
「……頼まないのか?」
「私は、結構よ」
「なにも頼まないわけにも、いかないだろ」
「なら、サイダー」
「そうか」
やりとりが済むと、今度は逆に言葉が途切れてしまう。
どのように会話していたかが、まるで思い出せなかった。
いつも酒を飲んでいたくせに、と言えばいいのか。血を飲むから酒はいいってことか、とでも言えばいいのか。……いや、そんな軽口をたたく気にはなれない。
考え込んでいると、ウィルヘルミナが口を開いた。
「フリーダは、どうして協力してくれるの」
「ん、ああ……僕らのことを、恩人と思ってくれていたって。だからもし来たら、協力するようにと。孫娘のリッキーに伝えてたらしい」
「……そっちも恩義を子に孫に伝えていたのね」
「そっちも?」
「私も、そういう人に会ったのよ」
前に置かれたグラスのサイダーを嘗めながら、ウィルヘルミナは語った。ユージンとの戦いのときの、あの子どもたちの子孫に会ったということ。
ジズは聞きながら、ユージンの話を交えた。生きることに汚い彼にも、理由があったらしきこと。その理由にかけてジズの発言を許せなかったらしく、フレデリカが場に居る不利を承知で襲いかかってきたこと。
語り終えると、ウィルヘルミナは「さっき急に挟んできた『腕をぶった切られてた』はこういうことね」と半目で言った。
「悪い。話が、下手だった」
「……いいのよ。私こそごめんなさい。皮肉った物言いをした」
その言葉に、またジズは会話を止めてしまう。ウィルヘルミナは、横目で彼を見た。
「なに?」
「いや」
「なんなの」
「……皮肉で返そうとしている、とかじゃあないんだ。ただ驚いただけで」
「なによ」
「お前が僕にちゃんと謝るの、初めてだ」
言えば、ウィルヘルミナが固まる。
ジズは気まずさを覚え、弁明を重ねた。
「……べつに謝らないのが嫌なわけじゃない。いまさらのことだ。いや、これも皮肉で言っているわけじゃなく……なんだ、どう言えばいいかわからないな」
それでも喉元まで出かかった言葉を逃したくなくて、グラスを遠ざける。
ジズは懐から出した紙幣で支払いを済ませ、ウィルヘルミナをうながした。
「場所を、移さないか。そろそろ血も必要だろうし」
立ち上がったジズに、ウィルヘルミナはちいさくうなずいた。
†
知らない街であっても人の営みはあり、また時代が下ったことで人は夜を克服しつつある。
夜半だというのに外もずいぶん明るい。街灯がこのようにそこかしこを埋めて、室内からも明かりが漏れているなど。百年前ならあまり考えられない光景だ。
暗がりを探して二人は街を歩き、人気のないビルディングの屋上へ昇りつめた。
周囲の建物に並ぶ高さの上、人の目はない。ジズは左腕から血を吸わせた。
屋上の高さでは風が吹き荒れており、空っぽの右袖がよく揺れる。
「こうも夜が明るいと、吸血鬼が人を襲うなんてことも難しくなっていそうだ」
「そうね……考えてみれば、長いことほかの吸血鬼に会っていない気がする」
血濡れた口許を拭きながら、ウィルヘルミナは言った。ジズも、ユージンに会ったほかはこの数年で三人しか遭遇していない。
人権を認められ社会に参画した人狼とちがい、セリーヌの計画のとん挫もあって吸血鬼はいまだ闇の存在だ。闇の範囲が狭まれば、なおのこと生きづらくなり身を潜めるのだろう。
吸血鬼は、もしもこの残りの闇が払拭されたなら、存在しなくなるのかもしれない。
「異端審問会が存続しなくなったのも、そういうことなのかもしれないな」
「フリーダはそこについては述べていなかったの」
「今回聞いたのは惚気話だけだよ。……お前、六十年前の酒に酔って馬車に轢かれたあの時。不注意じゃなくて人を庇ったからだったんだな。フリーダさんからも、そう聞いたよ」
「……忘れたのよ。そんなこと」
屋上の縁に立ち、街路を見下ろしながら彼女は言う。
ここから飛び降りたって平気な吸血鬼。誰にどう思われようと知らぬ顔で、自分の復讐のことしか頭にない吸血鬼。
そういう存在だと思ってきた。彼女を深く、知ろうとしてこなかった。
あの時、轢かれた彼女を不注意だと罵ったりせず理由を聞いていたなら。なにか、違っていたのだろうか。
「フリーダさんも言っていたよな。お前がいさかいの間に入ってけがを負ったって」
「どうだったかしら」
「僕はあの時、だけじゃなくいろんなタイミングで……お前のことを、もっと知ろうとしてもよかったんだろうな」
「訊かれても、きっと答えていなかったでしょうよ。私の中でも、知ってもらおうという態度ができていなかったのだから」
「……そうかもしれないな。僕も、知ろうと思うことが、その心の準備ができていなかった」
屋上の出入り口にあたるドアに背をもたせかけ、風に髪をなびかせるウィルヘルミナの後ろ姿を見る。
ふうと息を吐き、すうと息を吸う。
ただ本心を告げるということに、戦いに挑むよりもよほど、勇気が必要だった。
でもフレデリカとフリーダ、二人の人間と話すうちに、ジズは自分の中で伝えねばならないことがまとまっていた。
ウィルヘルミナに対して。彼女という、けっして許せない人物に対して。
伝えたいことがあった。
「僕はお前を知ろうとすると、……自分が傷つくと思って、逃げていたんだ」
風がやんだ。
ウィルヘルミナがそっと、肩越しにこちらを向く。下の通りからの明かりが逆光になっていて、その顔つきはわからない。
「お前が……不遜だったから。べつに知らなくてもいいと思った。お前は怪物で、理解しがたい化け物で、だからわかろうとしなくていいって。そう自分に思い込ませていた」
本当はところどころで、感じていた。
ウィルヘルミナの本心が、それだけではないと。怪物らしく自分の目的のためだけに進むように見せているが、そうではないと。気づいていた。
もちろん目的を最優先にするし、そのためなら子どもや周囲を巻き込むことも厭わないような態度を見せるが……最後にはジズを尊重して折れてくれていた。ジズが故郷に帰った時には気遣ってくれた。セリーヌが自分のために他者に苦痛を強いる手法を採った時には憤っていた。
ジズを見殺しにしてでも仇を討とうとは、できなかった。
「僕を殺してでもカミラを死なせよう、と動いてくれなかったことが許せなかった。やっぱりお前のことはわからないしわかりたくもない、と怒りに震えたよ。いまだって怒っている……けど、だからこそいまは、知ろうと思っている。これまで、そうできなかったのは……」
頭の中をかすめていく、父と母と妹の姿。
一日たりとも忘れることのできない、彼らとの暮らしのすべて。
かけがえのないその時間が強く刻まれているからこそ、ウィルヘルミナを知ろうと――理解しようとすることに、抵抗があった。
もし彼女を深く知り、情を寄せてしまったら。
「お前を知って、お前のことも大事に思っていると感じてしまったら。家族に対して、裏切りになると思ったんだ」
家族を死なせた原因に、気持ちがわかるとジズが寄り添ってしまったら。
死んだ家族からすれば許せないのではないか。そう感じた。
自分の中に在る家族が、自分から去ってしまうような気がしたのだ。
ジズは、家族との繋がりをこれ以上失いたくなかった。ドアに背をもたせかけたままずるずると座り込み、彼は左腕で膝を抱えた。
「ウィルヘルミナ。僕は、お前を許せないけど、だからって大事に思っていないわけじゃないんだ。同じ目的のために進んできたお前を、本当はよく知って、より大事にしたいと思っていたんだ。だって僕には――――お前以外、なにもないから」
なにも残っていない人生だ。カミラを殺せなければ無駄に終わるとさえ思っている人生だ。
だから「自分にはなにもない」とあの時言った。でも半分は、嘘だった。
心の奥深いところでは、ジズにとって彼女が、唯一繋がりの残った相手だった。あの時は、ウィルヘルミナを傷つけようと、本心でないことを言ったのだ。
黙って聞いていたウィルヘルミナは、やがてそっと、歩み寄ってくる。
ジズの前で屈みこむ。うつむいていた顔を上げれば、彼女は苦し気な顔をしていた。
彼女も、きっと自分の中で溜め込んできた思いがあるのだろう。
「ねえ。私、あなたに謝りたいことが……いいえ。謝らなかったことと、謝れなかったことが、たくさん、あるの」
意を決した告白に、ジズもうなずきを返す。
ウィルヘルミナは吐息を震えさせた。
ひざまずいて、両手を力なく垂らして、喉元と胸だけが石のように硬く張り詰めている。この緊張は、よくわかる。ジズも同じだった。
彼女は。
語りを始める前には、もう両手で顔を覆っていた。
「ごめん、なさい。わた、しっ……あなたの、妹を……この手で、殺して、しまったの……」
堰を切ったようだった。
泣き崩れるウィルヘルミナは、この百年、罪悪感を抱えてきたのだろう。
ジズは下唇を噛んだ。
噛み締めて、こらえた。
この言葉を受け入れるのは、家族をあらためて失うような痛苦で。
同時に、それは許しを与えることの重さが生じさせる痛みだった。
「……知ってる。見てたんだ、僕」
ウィルヘルミナは、顔を上げた。泣きはらして赤くした目元を隠しもせず、ジズを見た。
腹部を散弾にはじき散らされる激痛と、吹き飛んでガラスを突き破り外に転がった時をジズは思い出している。家の外から、室内を見ようとしたのを思い出す。
でもあの時のジズは――本当は、なにも見てはいなかった。それどころではなかった。痛みと困惑で状況を把握できず、ウィルヘルミナに口づけをされるまで意識もうろうとしていた。
けれど、見ていたと嘘をつくことにした。
『その上で、ウィルヘルミナと共に居たのだ』と。そう伝えてやれば……彼女は安心すると思ったからだ。苦しみが、少し減ると思ったのだ。
ウィルヘルミナは泣きながら目を見開く。信じられないという顔だった。
そんな彼女のしたことを許せはしないが……もう、許してやりたかった。
これだけ、苦しんだのだから。それがわかったから、もう、十分だと言ってやりたかった。寄り添ってあげたかった。
彼女はおそらく、謝りたかったのだろう。でもそれで済むはずがないのだからと一度も謝らなかったのだ。自分が楽になるだけだと思って、彼女は苦難に身を投じた。
自分を切り捨てることがいつでもできるように、露悪的に振る舞った。……それが意図的だったかどうかは定かでない。でも最後の最後でジズを犠牲にカミラを討てなかった。だから、やはり露悪的なのはフリで、偽悪だったのだ。
これを弱さと謗ることもできるが、ジズはそうしたくなかった。
それはきっと、人間らしさだから。
「ごめん、ウィルヘルミナ……僕はお前のことを、他人の許しなんて必要としない、怪物だと思い込もうとしてた。そうではないかもしれないと思っても、自分が傷つきたくなくて……僕は、お前に甘えていた」
「ちがうの。私が、悪かったの。私も、自分がっ、傷、つきたくなくて……」
私が……、と言って言葉が切れて、ウィルヘルミナはむせび泣いた。
ジズも涙が出た。ウィルヘルミナの孤独と罪悪感への共感と、共感してもけっして分かち合ってやることはできないという、断絶への悲しみだった。
人と人が真に理解し合うことは、もしかしたら、あり得ないのかもしれない。
それでもいま、二人はわかり合おうとした。
寄り添い合おうとした。理解不能な怪物であろうとすることを、互いにやめた。
もっと早くこうできていたら、という気持ちもあり、いまだからこそできたのだという納得もある。
百年の旅路。
百年の後悔。
二人は、やっと行く先が定まろうとしていた。




