過去からの残響
血まみれの室内だけが残る。
ウィルヘルミナと、三人の死体が並んだ。
……銃声は遠くまで轟いている。きっと、近くの村落から人がやってくる。ウィルヘルミナの冷静な部分が、そのように判断していた。
ならば、この場を消滅させなければならない。
彼女の中のなけなしの冷静さが、握った火かき棒を意識させた。
……カーペットに、暖炉からの薪を掻き寄せる。
せめて、彼らの夫にして父だった人物が、異端と化した証拠を残さないように……ウィルヘルミナは吸血衝動に灼ける身体を引きずり、家のそこかしこに火を放った。
リビングを燃やし、二階への階段を燃やした。ガラスの割れた玄関を這って出て、寒風吹きすさぶ屋外で、自身の死に場所を探す。
その、はずだったが。
彼女は目にする。
臓物をぶちまけて雪を赤く染め上げていた、先の男の子が……まだ、生きていた。
おそらくは外の寒さで急激に血管が収縮し、本来なら即死に至るであろう大出血が起きなかったのだ。湯気立つほどに腹を裂かれてなお、彼は生きていた。
息をしている。
まだ、命を感じさせていた。
「……あっ、ああっ、――――あっ、あああああっ……」
吹き荒ぶ風のような甲高い音がした。
それが己の喉から発せられていると気づいたのは、もう少し経ってからだった。
生きている。
いま、生きている。
あれほど命が失われた場で、まだ彼は、生きている。
もちろんこの現場を生み出してしまったのはウィルヘルミナだ。自分が原因だ。自分さえカミラを追っていなければ、こんなことになっていなかった。すべて自分の責任だ。
それを理解していて、なお――――彼女は、生きていてくれた彼に、身勝手ながら感謝した。
それがどれほどおぞましいことかを理性で理解していながら、彼女は心に起こった嵐を止められない。
すべてが喪われていなかったことに、誰にともなく感謝したかった。
もう、これ以上、彼からなにも失わせてはいけないと思った。
この時、ウィルヘルミナの生き方は定まった。
申し訳なくて、仕方なくて、けれどもう自分には、謝ることすら許されないと思ったから。
自分が楽になるために謝るようなことはしない、と誓った。
……いつかこの子が、必要であれば躊躇なく自分ごとカミラを討てるように。
不遜で、どうしようもない、人でなしにならなければならない。
己に定めて、彼に覆いかぶさる。
これ以上熱を失わせないように。
次いで、唇を近づける。
これ以上命が流れ出さないように。
「――私の命を、貸してあげる」
彼を守るために、百有余年におよぶ旅がこの時、始まった。
†
だが結局は、自分の方が躊躇するようになってしまった。
ジズを失わせてまで、殺すことなどできないと思ってしまった。
自分ならいくら傷つこうと痛もうと構わなかったが、ジズが傷つき死に向かってしまうことは、耐えられなかった。
それが彼の尊厳をどれほど傷つけるか、理解していても感じ取れてはいなかった。
自分があの日やったことは、『死ななければいいじゃない』と言ったカミラと、ほとんど変わりないことだったのだ。
「私は……」
取り返しのつかないことをした。
この生には、もう本当に無駄しかない。
私の人生は、どこまでも無意味でからっぽだった。
思えば思うほど、心に入ったひびからすべてが漏れ出していくのを感じる。
もはや死んでいないだけだった。
それでも、ジズと己を生かすための吸血だけはつづけている。
ふらりと、洞窟を出ていく。襤褸のようになって数年が経過したマントを羽織り、ジャラりと円刃連鎖をお守りのように体に巻く。
斜面を滑り降りて、街を探すことにした。
もうこの三十年、ジズとは特定の街で落ち合うようにするだけでほとんど行動を共にしていない。彼に近づかないようにと考えたら自然と街中を離れることになり、数年ほど前から穴倉を転々とするようになっていた。
だから今日この洞窟を選んだのも、単なる偶然だった。
しかし奇妙な縁が、彼女と場を繋いだ。
「……誰?」
高く、若い声による誰何が聞こえた。次いでガシャンと金属の擦れる音。ボルトアクションの稼働音だと、うろんな頭でウィルヘルミナは思った。
ゆっくりと振り返れば、猟銃をこちらに向けて目を見開いている女性が居た。二十代かそこら。おさげにした髪が垂れており、スコープ越しにこちらを狙う姿勢は堂に入っている。動きやすそうなパンツルックで、枝や下草にひっかからないような装備の仕方は山に慣れた者のそれだ。
猟師だろう、と察して、気のない顔で目を逸らし場を立ち去ろうとする。たとえ背後から撃たれても、死んだふりでもしておけばいい。なにもかもが面倒になっているウィルヘルミナにとっては、この程度のことでは微かにも心が動かない。
けれど、次の言葉には、さすがに揺さぶられた。
「……ウィルヘルミナ、ハーカー……?」
もう長いこと、誰にも呼ばれていない己の名。
忌むべき仇敵につけられたものという事実が、知らず自分の中でも遠ざけたい要素となっていた己の名。
そこに、彼の家名をつけて呼ばれて、さすがに足が止まった。
「……私を、呼んでいるの、あなた」
言いつつ振り返り、ウィルヘルミナはもう一度彼女の構える銃を見た。
そこには教皇庁の許可刻印がある。
ここでやっと理解した。……そうか、ここは『あのとき』訪れた村の近く。
異端審問となってまだ日が浅かった頃のジズとウィルヘルミナが任務で訪れ、ユージンらと戦闘になったあの禁猟区の村のそばだ。
呼ばれたわけでもなく禁猟区にいるウィルヘルミナは撃たれても仕方のない状況だったが、しかし相変わらずおさげの彼女に撃つ気配はなかった。
互い、黙りこくったまま見つめ合うことしばし。
やがて少女は「あの」と口を開いた。
「……かつてこの土地を訪れたことが、ありますよね? そのときのあなたは、教会謹製の十字架を提げていらした……吸血鬼でありながら吸血鬼を狩る、異端審問として」
問いかけに、ウィルヘルミナは静かに目を閉じる。やはり、あの村だったと納得した。
この様に、心当たりがあるのだと察したらしい彼女は、破顔一笑した。
「ああ、やっぱり。ウィルヘルミナ・ハーカー様でお間違いないのですね?」
「……どうして……私だとわかったの?」
「繰り返し、お姿を伝え聞いておりました。雨雲の髪に、金の瞳の少女だと……いつか戻っておいでの際は丁重にもてなせと、曾祖母から仰せつかっております」
曾祖母、と言われてウィルヘルミナは頭を働かせるが、彼女の姿から連想されるような人物はなかった。そんなウィルヘルミナの様子も気にせず、おさげの彼女は語りをつづける。
「我が曾祖母のマリアンは、あのときあなたとジズ・ハーカー異端審問官に命を救われた子どものひとりです。曾祖母いわく、最後に村をあとにするあなたたちに挨拶だけはさせていただいたのだ、と。いつかお二人に正式な感謝を伝えたいのだと、そう述べておりました」
「……ああ」
記憶を手繰り寄せて、思い出す。
たしか、ユージンとヨーゼフとの戦いを終えた直後だ。村をあとにして去るときに、出くわした少女が居た。
けれどそれ以上のことは、覚えていない。なにせウィルヘルミナは……彼女ら子どもたちを見殺しにしようとした身だ。
ユージンが自分たちより格上であったため、ジズの命が危ういと思った。だから子どもを助けようとするジズを押しとどめたし、自身の技に子どもたちを巻き込んでもやむなしと判断していた。
自分の人生は、そんなものだ。
カミラのせいで吸血鬼と化して以降の生に意味などない。ただジズを生かし彼に贖罪するためだけの生であり、それをすら拒絶された――拒絶させるようなことをしてしまった以上、もはやどんな恩義も赦しも自分には恵んでもらってはならない。
ウィルヘルミナは歩き去る。
襤褸のようになったマントを引きずり、裏地に仕込んだ円刃連鎖をシャラ、と鳴らしつつ場をあとにする。
「感謝されるようないわれは、ないのよ」
されるべきはジズだ。結局自分の命を危険にさらしつつも、彼女らを助けおおせたのだから。
命をどう使うか。使い切るか。ウィルヘルミナは定めて、失敗した。
「私はあなたの曾祖母を助けようとしていなかった。見殺しにしてもいいと思っていた。助けることになったのは、同行人が救助を諦めなかったから付き合わされただけよ。私にとっては全員、生きていても死んでいてもどうでもいい存在だった……」
露悪や偽悪ではなく、本心からそう思っていた。
自分自身さえ。どうでもよかった。
ウィルヘルミナにとってはあの日から、ジズ以外のすべては背負いきれない対象だ。
ましてや幼い少女たちなど……最初から、助ける任務に気乗りしなかった。
ジズの妹を殺したのは、ウィルへルミナだ。いまさらどの面を下げて、人を助けようなどと言えるのだ。
「お願い。私をいい奴だなんて思わないで。私、一人背負うだけでいっぱいなの」
これ以上はなにも背負えない。
期待も責任も罪悪感も。ウィルヘルミナにはもう背負いきれない。
「気まぐれを善行と思うのはやめて。罪悪感に耐えられないからたまに成すだけのことを、心底からの『その人』だと思わないで」
消え入りそうな声で、背後の彼女に呼びかけた。
ウィルヘルミナが他者のいさかいへ稀に手を出すのも、その程度のことだ。干渉してどうにかなるなどとは思っていない。少しだけ、自分の罪悪感を薄めるための偽善だ。
私は、人でなしだ。そう決め込んでおかなければ揺らいでしまいそうだった。
一気に吐き出したウィルヘルミナは肩で息をして、横にあった木に身をもたせかけ、足を止める。
こんなに自分の内心を吐露したのは初めての経験で、こんなにも疲れるものだとは思ってもみなかったのだ。
そんな彼女に、背後から声がかかる。
「それでは、死んだ人だけが『良い人』になってしまいますよ」
おさげの彼女は、寂しそうに言った。
ウィルヘルミナの身の内で、母の姿が鮮明に映し出される。母は、まちがいなく、良い人だった。
それは『死んだ人』だからだろうか。自問して、首を横に振る。
「あなた自身があなたをお認めにならない、なれないのはわかりました。けれど、そのときのあなたは、流されてであろうと気まぐれであろうとたしかに善を為したのです」
その言葉に載る感情は、彼女自身だけのもの……とは思えなかった。
語り継がれ、確たる意思となるまでに研がれた、会話の集積であると感じる。
背を向け、声だけ聴いているからか。言葉の背後に居るのであろう、彼女の曾祖母……マリアンの語りでもあるのだと、ウィルヘルミナは感じ取った。
「助けられたのち、曾祖母もけしてなだらかな人生ではありませんでした。幾多の苦難があり、死を望んだこともあったと言います。最期も、難病に苦しみながら病床で悶え、果てました」
痛ましい最期への言葉には、さすがに辛さが混じる。病床で弱りゆく家族を看取る辛さを知るウィルヘルミナは、その様に思いをめぐらした。
母、ローラもそうだった。少しずつ不自由になっていく身体。小康状態がいつまでつづくかわからない恐怖。眠ったらそれきりではないかと恐れ、共に夜を明かしたことも幾度あったか。
しかし……
しかし、だ。
「でも痛苦が人生のすべてではなかった、と言いました」
思い描いた言葉が、背後からも、届いた。
「……もちろん曾祖母の運が良かっただけかもしれません。それでも、あの日助けられたことで得た『機会』に感謝したいのだと。得られたこと以上に、選んで自分の人生を生きる機会を与えてもらったことに、感謝したいのだと。そう言いました」
――選ぶ、こと。
身体の自由がきかなくなっても、己の思うようにできる、ただひとつのこと。
そうだ。母は『死んだ人』だから良い人なのではない。
自分で自分の道を選び、進んだから。誇るべきものがなにかを知っていたから――
「そんな考えはともすれば強がりと映るかもしれませんが、強がることができたならばそれこそが自分だったのだと。自分を認めて、逝きました。どうか、それだけは。心に留め置いて」
……ウィルヘルミナは。
背中に届く言葉に、胸の空隙を埋められていくようだった。
無意味で無駄な人生だと思っていた。思い込もうとしていた。
自分自身がどうでもよくて、他人のことはもっとどうでもよかった。罪悪感と、共に過ごして移った情から、ジズだけをなんとかして守ろうと。それだけを考えてきた。
しかし、それでも。
自分にとってどうでもよいと切り捨ててきたつもりのものも、やはり、ウィルヘルミナをかたちづくるひとつだったのだ。
選ぶとは、切り捨てることではない。
自分が誰と、どう在るかを決めることだ。
「それは二度と会えなかった相手や、死者が相手でも、同じこと」
自分と二度と会えなかったマリアンも、きっと最後までウィルヘルミナと共に『在った』。
死んだら終わりではない。たとえばフリーダは、あのあと故郷に向かい、そこでジョルジェと『在った』のだろう。
ウィルヘルミナも母と在りつづけている。しかしジズとは、共に居ても『己が、どう在るか』は共有できていなかった。
なにも話してこなかったからだ。
なにを言っても言い訳にしかならないと思ったからだ。
でもそれは、少しかたちを変えただけで、結局は伝えようとしない怠惰でしかなかったのかもしれない。
良く在るべきかたちの模索を、怠った。あんなに長く旅をしたのに。
なにをどう繕ってもジズにとって己は仇敵の一人なのだからと、それ以上踏み込んで自分が傷つくのを……恐れたのだ。
身はどれほど傷ついても怖くなかったが、心はあの日の柔さのままだった。
「あぁ――」
ウィルヘルミナは、自分を抱きしめた。
自分がどう在りたいのかは、ずっとむかしに決まっていた。ウィルヘルミナは、もう、独りになりたくなかったのだ。
自分にとってジズが大切な存在になっていたのだと、この時ようやく、認められた。




