訣別
終わりがすぐそこまで来た。
ここでなお命を繋げたのもまた、偶然の為せる業でしかなかった。
ジズは自分の足元がなくなったような感覚に襲われた。視界が傾き滑っていく。これが死の感覚か、と最初は戸惑った。
しかし違った。
足元が、大きく揺れていたのだ。加えて全身を強力な大気の揺れ――極大の音圧に押し潰される。
立ってはいられず、床に横倒しになる。ジズだけでなくウィルヘルミナも、そしてカミラでさえも床を這っていた。
その間にも音の圧力と世界の揺れはやまなかった。高い天井からは絶え間なく砂埃と細かな瓦礫が降り注ぎはじめ、大広間のそこかしこに落ちていく。
……自分たちが戦争の世のただ中に居たことを、ジズはやっと思い出した。
爆撃されたのだ。この施設が。
そう気づいたとき、カミラの上に影が差した。
一拍遅れで彼女も自身の状況に気付いた。
即座に散弾銃と一握りの弾丸を横に投げ出した。
カミラは次の瞬間、降ってきた天井の一部によって挽肉と化した。
その様を見て、ジズはぞっとした。グロテスクな肉塊を見る羽目になったからではない。あの瞬間にまだ次の自分の反撃を想定し、冷静に散弾銃を投げ出すことで『瓦礫に武器を破壊させない』判断を取ったカミラの異常さに、だ。
この一瞬が生死を分ける、と感じさせられた。
ジズは再生を終えぬうちに駆け出す。拾い上げた杭をセリーヌに向けて擲つ。
ところが杭は、空中でガギんとなにかに当たりまたも進路を逸らされた。散弾銃よりも鋭く乾いた、軽い銃声が響いている。
「セリーヌ!」
背後からしわがれた錆び声が届く。スピルスドルフだ。おそらくは散弾銃の銃声を聞いて走ってきたのだろう彼が、大広間の入り口扉付近から拳銃によって杭を撃ったのだ。
つづけてジズの背にも着弾する。二発、三発と当たる。この揺れの中で当てるとは相当な腕と武運だが、あいにくとジズは胴回りへのダメージには耐える訓練を積んだ身だ。止まらない。
空転しかけるほどに足を全力で駆動させ、セリーヌとの距離を詰める。
「邪魔をするのは、やめなさいッ!」
ウィルヘルミナがシャンッと円刃連鎖を振るう音が聞こえる。即座に拳銃の連射が止まった。万が一にもジズの首に銃撃が当たらないよう、おそらくは、スピルスドルフを無力化した。
だが殺すには至らなかったらしい。
「セリィィィィヌッ‼」
スピルスドルフの絶叫が聞こえた。
いつか遠い日に聞いたような声だった。
それがかつての自分の、家族の喪失に啼いたときの声に似ているのだと気づいたそのときには、ジズの左の貫手がセリーヌの喉笛を刺し貫いていた。
爪で皮膚と肉を破り、中指と人差し指と薬指の末節骨を頸椎にぶつけて粉々に砕く。
絶命したセリーヌの顔から眼鏡が落ち、かしゃんと床に転がった。
「っああああああああぁぁぁ…………」
スピルスドルフの声が弱弱しくなっていく。
ジズが振り返ったとき、スピルスドルフは扉のところから駆け出していた。
右腕がない。円刃連鎖で切り飛ばされたのだ。床に転がる己の右腕が握ったままの拳銃に、彼は左手を伸ばしていた。
憎悪の煮えたぎる顔だった。
見飽きるほどに見た、己の顔とそっくりだった。
ウィルヘルミナはこれを見てなにを思ったのだろうか。なにも思わなかったのだろうか。カミラも、なにか感じてはいないのだろうか。自身の眷属の消失は主には伝わるのだが。
スピルスドルフは、その場で円刃連鎖により左手首も斬り飛ばされた。自分の右腕を下敷きにするように倒れ込む。
このウィルヘルミナの判断が、ミスだったとは思わない。
けれど結果から見ると、これが致命的だった。
動かないはずのスピルスドルフの右腕が、動いた。
「え、」
ウィルヘルミナの左目が弾丸の飛来によって潰れる。
スピルスドルフの拳銃が、彼女に向いていた。彼の右腕が――再生し、傷口が繋がっている。
スピルスドルフから、心臓が破裂したような鼓動の音が一度、鳴る。彼の肌が一瞬、蝋のように白く血の気の失せた肌を示し、元に戻る。
――伝え聞きの話が正しければ、これが主吸血鬼への転化症状だ。彼にとってはセリーヌを失った『絶望』が、深すぎたのだ。
慮外の事態に、ウィルヘルミナはわずかに硬直してしまう。
視界の半減と想定外の現実による動揺で生まれたこの隙を、怪物は見逃さない。
「……偶然ってこわいね、ミナ」
瓦礫は跳ね飛ばされる。黒き吸血鬼が場に再臨する。
カミラは床を嘗めるように低く走った。左手で弾丸を掬い掴んだ。右手で散弾銃の銃身を解放した。ウィルヘルミナが気づいて円刃連鎖を振るうが、もう遅い。弾丸は装填されている。
ジズも反応しようとした。腕をセリーヌの首から引き抜き、カミラに向き直ろうとする。
けれどここでスピルスドルフの最後の一発がジズの腕を射抜き、テンポがずれる。
その左腕を肘からカミラの散弾銃に吹き飛ばされた。
次いで右手首を左手で捕えられ、吊り下げられる。
ぼろぼろのドレスを纏い悪夢のように笑うカミラは、熱で像揺らぐ銃口をジズの喉元に突きつけた。
だがこのときにはもう、ウィルヘルミナは得意技である高速回転から放つ斬撃を用意している。カミラの首を刎ねるまで、秒読みだった。
勝った、とジズは安堵した。
「貴様ら――」
怨嗟のこもった声を上げるスピルスドルフも参戦しようとしていたが、崩落してきた屋根が圧し潰してしまったので姿が見えなくなる。
大広間の中には、三名だけが残された。
「さあ、殺せ」
冬の冷たい空気の中を、ジズの声が低く這う。ウィルヘルミナに、自身の主に命じる。
彼女の円刃連鎖の操作精度はかなり向上していた。二十六年前フリーダに一方的に封殺された苦い経験から鍛錬にさらに身を入れ、いまの彼女は狙った箇所に寸分たがわず斬撃を打ち込める。もうかつてのように、眷属のジズを傷つけかねないからとルールによる硬直を強いられることはなくなっていた。
つまりあとは、カミラの首を刎ね飛ばすだけだった。
「早く。殺せ」
だがウィルヘルミナは動かない。
回転数を上げ大気を切り裂く刃の嵐を、手元にいつまでも留めている。見開いた目の中で瞳が小刻みに揺れ、食いしばった歯の根が軋む音すら聞こえるが、腕は動かない。
このざまを見て、カミラは笑った。吐息をこぼすような、嘲ったような、「っは」という笑い方だった。
ジズは痺れを切らして叫ぶ。
「早くしろ! 殺すんだ!!」
けれどウィルヘルミナは動かない。動けない。
とうとうこらえきれなくなったらしいカミラの笑い声だけが、残響を伴って広間に高く長く伸びる。
なぜ、こうなった。ここまできて――いくつもの偶然の重なりでやっとこいつを追い詰めた、好機を得たはずのこちらが、どうして追い詰められているんだ。
宿願の成就を、こともあろうに自分の主に邪魔されることとなってしまったジズは絶望と怒りに唸り声を上げた。
……なぜ、どうして。僕の願いは邪魔されるんだ。
「どういうつもりだ、お前……なにを血迷っているんだよ、馬鹿かお前は」
「……私、は……」
「殺せよ。いますぐに。まさかいまさらになって、かつての知り合いだから殺せないとか言うつもりか?」
「違う……」
「なら!」
「カミラ。そいつを、解放して」
ウィルヘルミナは。
ジズを無視して、予想だにしない一言を告げた。
固まるしかないジズ。身体が自分のものではないかのように、まるで動けなくなる。
なにを……こいつは、なにを言った?
理解ができずに困惑の渦に巻かれているジズをよそに、状況がわかっているかのようなカミラはにやにやと笑いつづけた。笑みのままに問い返す。
「そう。そうなんだね、ミナ。あなたこの男の子を――死なせたくないんだ?」
「…………、」
「私にとってセリーヌは、利用価値の他とくに思い入れがない繋ぎの眷属でしかないけれど。あなたにとって彼は、ちがうんだ?」
ウィルヘルミナは答えなかった。しかし否定しなかった。
聞かされたジズとしては、呆気に取られるしかない。
死なせたくない? 自分を?
そのために、交換条件としてカミラを逃がすと?
六十六年かかった偶然と奇跡の積み重ねを、僕のために捨てると?
「なにを……なにを言っているんだよ、お前は……僕の命なんて、どうでもいいだろう。お前、『生き方は変えられない』って言っただろう。だったら、完遂しろよ。復讐という生き方を」
ジズは先ほど、安堵したのだ。安堵、できたのだ。散弾銃の引き金にカミラの指がかかる以上、ウィルヘルミナが奴の首を刎ねると同時に自分も首を撃たれて死ぬ。
そんなことは当然として、織り込み済みだった。その上で、『その程度の代償でこいつを殺せる』と安堵したのだ。その代償に踏み込んでくれると、ウィルヘルミナを信頼したのだ。
ジズはここで命を使い切るつもりだった。使い捨てられる、つもりだった。
だって。
「僕には、なにもないんだぞ」
ウィルヘルミナを傷つけるためにそう告げれば、彼女が目を見開いた。
「だから殺す以外、なにも考えてこなかったんだぞ」
ジズは怒りで目の前が見えなくなってきた。
「なのに終わりすら、僕から取り上げるつもりか? お前は……まだ僕に、苦しみつづけろって言うつもりか」
僕が死ねば、吸血鬼を殺せる――はずだったのに。そう、詰った。
カミラはこの光景を見て、また大きな声で笑う。
「いいよミナ。じゃあお互い手打ちといこうか」
怪物は軽い調子で言い、銃口を逸らした。
発砲。
激痛がジズの、右腕を襲う。肘から先がまたも千切れ飛ぶ。
だがこれで、カミラが先に動いた。弾丸を切らした。ウィルヘルミナはまだ動ける。円刃連鎖で、殺しにいける。
けれどそれは相手がカミラでなく、
また彼女が最悪の盾を持っていなかった場合だ。
「借りてくよ、眷属君」
カミラが手にしたジズの右腕は、ウィルヘルミナからすればまだ『ルールにより、傷つけてはならない眷属の肉体の一部』であり――カミラのような天性の身体操作レベルを誇る使い手がこれを盾にしたなら、いかに熟達した鎖捌きができるようになったウィルヘルミナでもこれを避けて当てることは至難の業だ。
カミラはジズの腕を盾にしながら後退し、崩れかけていた壁面の割れ目に吸い込まれるように外へ逃れていった。
「じゃあねミナ。大切なものができたなら――この私の気持ちも、わかるんじゃないかな?」
あとには翡翠の瞳の輝きと、意味不明な言葉だけを残して去った。
ジズは。
右腕を、失った。
眷属吸血鬼は欠損した部位を再生する能力が無い。大きく肉体の質量を損なえば、その部位は血止めして生存することはできても元には戻らない。かつて戦った吸血鬼ヨーゼフの足のように。
左腕は奴が置いていったのでまだ繋がるだろうが……もはや《槌形拳》もこれまでのようには使えまい。
六十六年、つづけてきた鍛錬が。繋いできた希望と奇跡が。
いまここで、水泡に帰した。
「………………、」
落ちていた左腕を繋げ、ジズはずかずかと大広間を横切った。
うつむいて震えているウィルヘルミナに近づくと、その横っ面を思い切り左拳で殴り飛ばした。
「なにを考えているんだよ」
横たわるウィルヘルミナは無言だった。
「僕を死なせたくない? 僕が、大切? ふざけるなよ。僕にはなにもないんだぞ」
二度目の言葉に、彼女は一度だけふるりと震えた。
手段は使い尽くしてこそ、などとほざいたくせに。
この女は、なにひとつ手を尽くせずに復讐の道を断ち切った。
ジズは、彼女を許すわけにはいかなかった。
「僕はお前を、憎む」
六十六年目の、訣別の台詞だった。




