異端審問官とその連れ
――A.D 1860 Nov.13th
吸血鬼という怪物の身となったジズ・ハーカーは、いつしか怪物退治を仕事としていた。
……だがはたしてこれは、仕事の範疇だろうか……と彼は思った。
国境に近い森、許可を得なければ猟の出来ない禁猟区の中。目の前には、身の丈三メートルを越えようかという巨躯を誇る、怪物じみた熊が立ち上がっている。
獣の落とす影のなかにいると、バランスの危ういぐらついた巨石の下にいるような気分だ。ひどく、落ち着かない。
「あ、ああ……」
後ろには腰が抜けた様子で震える男。彼の叫びと獣の血の臭いを辿ってきたら、これだ。男は教皇庁からの許可刻印がある猟銃を手にしているので、密猟者ではなかろう。
ならばきっと目的地の村の人間だ。守らねばならない。
司祭服を翻して飛び退いたジズは、男を脇に抱えた。さらに地面を蹴って離脱すれば、一瞬あとに、さっきまでジズがいた場所を熊の爪が抉っている。
「すみませんが、木の陰に身を潜めていてください」
猟師の男に言い含めて、また熊の前に躍り出る。
すでに身を低くし、四足で猛然と駆けてくる熊。体重三百キロはあろう巨体の突進でジズの胴の骨をばらばらに砕き、湯気立つやわらかな臓腑をゆっくりと味わう腹積もりだろう。
そうはさせない。
両腰に提げていた得物のうち、一本を抜く。
長さ七〇センチ・太さ一〇センチはあろうかという、丸太と呼ぶが相応しい白樫。
片端を鋭く尖らせてあり、逆側の頭を叩くことで相手に打ち込む――杭だ。
これを右手で鷲掴みにしたジズは。
軽く振りかぶり、
熊に向かって投げつけた。
鋭い先端で空を切って飛ぶ杭は、熊の左肩に食い込む。食い込むのみに、終わる。分厚い毛皮と硬い筋肉によって深手は免れた。
怒りに咆え白い息をあげる熊が再度ジズを視界に捉えようとする。
しかしそのとき、すでにジズは熊の真横に踏み込んでいた。投げた杭に、追いつかんばかりの速度だった。
「あなたに祈りを」
一瞬、祈るため組んだ両手を素早く解き。
そのままの勢いで拳を握りしめ、杭の頭へ叩き込んだ。
食い込んでいた先端に衝撃が加わり、ミヂりと音を立てめり込む。重たい槌でぶん殴られたかのごとく、深く深く沈み込んでいく。
一撃で肺と心臓を潰された熊は、つんのめったように頭から地面に落ちてズズンと辺りに絶命の音を響かせた。中段突きを繰り出したままの姿勢だったジズは、拳を引いてもう一度祈る。
技の名は《槌形拳》。己の拳足を槌に見立て、触れた箇所から自在な位置へ衝撃を打ち込むという異端審問官が秘奥・《身問十六法》の第一法である。
ジズはくるりと振り返り、猟師の男に声をかけようとした。
「終わりました。お怪我は、」
そこで猟師の男の背後に、もう一頭の熊が居ることに気付く――つがい、だったか? 繁殖期でもないのに!
まずいと思ったがもう間に合わない。男の背後から、分厚いナイフのような爪を備えた前足が振り下ろされる。風を打ち抜く太い音が聞こえた。
これを掻き消すように、
澄んだ高音が重なった。
次の瞬間には熊の首が落ち、全身が切り裂かれている。
返り血を意に介さず、フード付きの黒いマントを広げる影が熊と猟師のあいだに割り込んでいた。
シャオン、とまた澄んだ高音と共に得物をマント内に収納して、影はこちらに向き直る。
血を浴びた白皙の貌に、金の瞳。雨雲のような灰色の髪をなびかせる彼女は、少女といって差し支えない容姿をしている。
「お怪我はない?」
すっと、彼女が猟師の男に手を差し伸べる。
男は怯えて、その手を振り払った。
「ば、化け物!」
「失礼でしょうよ、初対面のひとに向かって」
むっとした顔で、彼女はジズを見た。なんとか言ってやれ、と言いたげだ。
ジズは「事実、化け物だろうが」と思いながらため息をつき、彼女の代わりに言う。
「むしろ僕らは、化け物を退治しに来たんです。この先の村ですよね? 吸血鬼の被害に遭っているというのは」
「そ、それはそうだが……あんたがた、一体?」
「申し遅れました。僕はジズ・ハーカー。依頼によってこちらに参りました、異端審問官です」
胸元に下げている十字架を取り出しながらジズは言う。その形状を見て、男は慌てた。所持するだけで難所や関所の通行も許可される、教会謹製の十字架だからだ。これを持つ者は当然少なく、選ばれた人材の証である。
「私はウィルヘルミナ」
次いで、ジズの連れが名乗る。だがこの言葉には、男が少しだけ怪訝な顔をする。
女連れの異端審問官というのが、奇妙に映ったのだろう。こればかりは仕方のないことだ。
だがジズがフォローを語ろうとする間に、ウィルヘルミナが言葉を継ぐ。
「……その人の、妹よ」